道路レポート 愛知県道505号渋川鳳来線 八昇峠旧道(巣山坂) 第3回

所在地 愛知県新城市
探索日 2018.3.25
公開日 2019.6.16

奇妙な破橋を愛でる回


2018/3/25 6:47 《現在地》

現存木橋だ!

そのことには、もちろん驚いたが、

橋を封鎖するように、「新城市」と書かれた“Aバリ”や、「通行止め」の道路標識が設置されていたことにも、大いに驚かされた!

この道路、入口からここまでなんの標識もなければ、封鎖もされておらず、当然のように轍もみられなかったが、この状況を見る限り、どうやら、市道に認定されているようである。

ちなみに、ここが新城市の一部になったのは意外に最近で、 平成17(2005)年10月である。
新城市となる前は、おそらく鳳来町の町道だったのを引き継いだと想像する。
旧県道が市町村道に降格し、その後に廃道化しても認定が継続されること自体は珍しくないが、ここ十数年内に市の関係者がバリケードを5枚も持ってここを訪れ、わざわざ橋を封鎖する処置を取ったことには驚かされた。
単純に入口で封鎖しなかったことにも、同前。何かワケがあるのか?
例えば、バリケード設置当時はこの辺りまでどうにか車も入ってこられたとか。可能性はありそうだ。



現存木橋じゃなかった!

呆気ない前言撤回である。
はじめ木橋かと思ったが、崩れた木製橋桁の下に、見慣れたコンクリート桁が隠れていた!

しかし、そうなるとまたこれは不思議度アップだ……。
なんで、コンクリート橋に木橋を乗せようと思った?!
強度的には何の意味もなさないだろ。むしろ、朽ちて邪魔になるだろ……。現状がまさにそうなっている。

目的は、橋の幅を広げようとしたのだろう。実際にそれをしていた痕跡があるので、間違いなさそう。
しかし、下にコンクリートの支えがない部分は朽ち方がより進んでいて、もう渡れる状況にはなかった。
具体的に数字を挙げると、幅3〜4mくらいのコンクリート橋を、5〜6mにまで木桁でもって広げようとしていたようである。
しかし、これはいかにもその場凌ぎというか、安普請というか、土木の正道からは外れたような、無理のある改良(?)だ。
いつ、誰が、どのような目的から計画したことなのか気になるが、多分こんなことは永遠に解明されないだろうなぁ…。

いやぁ、驚かされるなぁ……、地味な橋なのにー。



渡ることは別に難しくない。ただの頑丈な木橋……否、コンクリート土橋である。
巣山側にもしっかりバリケードが置かれていたが、麓から来る以上に、こっちから訪れる人はいなさそうな予感がする…。

それにしても、ここにバリケードを設置しに来た新城市役所の職員氏も、こんな怪しい橋を目にするとは思わなかったんじゃないかな。
なんで木橋の下にコンクリート橋があるんだよ! って、ツッコんでくれたかな?
全然興味なくて、ちゃっちゃとバリケードだけ設置して帰ったのかな?
野山が広大な新城市で土木課とかに勤めてるとすると、このくらいは見慣れた海千山千かもしれないけどね(笑)。

いろんなことを想像して、一人で楽しくなっちゃえる橋でした。




おどろおどろしい外見に反して、見れば見るほど愛おしくなってきた橋。

最後は、普通に通行したのでは見ることのない、橋の下を少し覗いてみることにした。

橋の脇から下りてみると、橋の前後の橋台とそこに連なる石垣がエメラルド色の苔に彩られていた。その美麗が私の目を楽しませてくれたが、次の瞬間には楽しみではないものも見えてきた。
いまは水の流れていない橋下の小渓流が、大量の流木によって窒息し掛かっている状況。そしてこれも増水の影響なのか、こちら側の橋台は大規模に破損していて、橋の生命は既に危機的な状況であることも、見えてしまった。

案外、橋を封鎖した最大の原因は、この橋台の破損なのかも知れない。落橋していても不思議ではないくらい壊れていた。


写真の中央付近を拡大してみると――

まず気になるのは、破損した橋台に見えるコンクリートの壁だ。
もっと近づいて良く確認しなかったことを少し後悔しているが、おそらくこの橋台は左右非対称の造りになっている。
右岸(こちら側)にはコンクリートの壁があるが、左岸はぜんぶ石垣(谷積み&布積み)に見えるからだ。

規模の大きな橋であれば、橋台が非対称なのは普通のことだが、この規模だと少し不自然な気がする。
右岸の橋台は後年に大修理を受けたのかもしれない。その際に、コンクリートの壁になったのかも。
なお、よく見るとコンクリートの壁には丸形鉄筋が仕込まれていた。現代は必ず異形鉄筋を使うので、昭和30年代以前の工事である可能性が極めて高い。

もう一つ気付いたのは、対岸の橋台に白いチョークか何かで書かれた文字だ。
L=1700 W=4.0 」のように読める。
L と W は、それぞれ長さと幅を表わしていると思うが、1700がどこの長さを表わしているのかちょっと判断できない。4.0が橋の幅(コンクリート橋の部分か)なのは、ほぼ間違いないだろう。
これらの数字がいつ書かれたものかは分からないが、廃橋として放置される前だろうとは思う。生きた証しと言えなくもない。



奇妙なコンクリート橋を後にすると、今回はじめて、“明示的に封鎖された領域”が始まった。

劇的に荒れ方が悪化したということは、ないと思う。
しかし、見るからに廃道であるのは変わらずで、構造物的にも石垣のような前時代的なものしか見当たらない。
地形のかなり険しいところを、石垣や切り取りでどうにか道幅を確保しながら、頑張って横断しているのが分かる。
急勾配さもなりを潜めたから、ちょっと幅の広い(立派すぎる)“明治馬車道”といった印象である。
(明治馬車道は、私というオブローダーの大好物なのだが、やや地味なもんでレポート化には恵まれないジャンルだったりする……苦笑)




こっ、これはっ!!

なんか路肩の石垣が壊れたところから、ぶっとい丸太が露出していた。
別の少し細い丸太と十字を結ぶようにワイヤーで固定されていて、全体としては桟橋のような形で、あるいは用途的には“木筋道路”とでも表現したくなるような感じで、この丸太群が使われていた。

石垣が壊れたので丸太で臨時に補強したのではないかと思うが、なかなか手が込んでいる。
石垣を建設する技術だけが先に失われて、後はあり合わせのもので直しながら使い続けた。そんな現実にはなさそうな状況を想像させる風景が、続いて現われている。



6:56 《現在地》

切り返さないトラバースが続いているので、谷を渡った後には尾根を跨ぐことになった。

初めは立ち止まるほどのこともなさそうだと思った、尾根を回り込むこのカーブだが、見つけてしまった。

本日初の“石仏”。

これぞ石仏の本分とばかりに野ざらしだが、刻まれた尊仏の姿は精緻で、印象的だった。
台座は苔生していたが、上半分は何かの力が働いているのかと思うほどに綺麗だ。
しかし、石仏の価値に目が眩んだ不届者に盗まれることを心配する必要はなさそうだ。
なにせ、簡単には仏前に立つことが出来ない。険しい岩場の中腹に孤立して安置されており、見上げることしか許されないのだ。
油断すれば見逃しそうな立地だったが、私は気付くことが出来て幸いだった。

この石仏の正体について、複数の読者様から馬頭観世音ではないかというご指摘があった。

廃道探索において最もよく見る路傍の石仏は馬頭観世音であり、ここにあることが一番相応しい石仏である。しかし、私の経験上では、圧倒的に「馬頭観世音」とか「馬頭観音」という文字のみが刻まれているものの遭遇が多いため、このように精緻な仏像の刻まれたものを馬頭観世音だと判断できなかった。
だが、読者諸兄のご指摘の通り、この石仏は馬頭観世音で間違いないと思われる。

なぜなら、仏様の頭上にお馬さんの顔がッ……。 かわいいっ!





石仏地点は、尾根だということ以外には特に特徴を感じない場所だったのだが、そこから30mも進まないうちに、気になるものが二つも同時に現れた。

一つは、谷側の路肩に設置された欄干だ。
現存しているのは、コンクリート製の柱部分だけで、柱と柱の間に2本の横木が渡されていたようなのだが、失われていた。

この場所が特別に転落しやすそうな場所には見えないし、これまで橋上を含めて全く現われなかった転落防止柵が、このほんの10mほどの間にだけ設置されている理由は不可解だ。何か理由があって後から増設したのではないかと思うが。転落事故でもあったのか。

いずれにせよ、全国的に統一された規格品として見慣れたガードレールが普及するようになる昭和40年代以前は、各地各道路でオリジナルの転落防止柵が建造され、役目を果たしていた。
現役の道路ではその後にガードレールに置き換えられるなどして、それこそ橋の欄干くらいにしか見られなくなってきた古い転落防止柵は、廃道らしい遺構だった。地味だが嬉しい発見だ。



もう一つの発見は、山側の法上(のりうえ)に現われた、並走する道形だ。

二つ前の尾根で見た【古道】の続きではなく、また新たに現れたものである。
直前の石仏のある尾根まではなかったから、あの辺りで分岐したのだろうが、法面に切り取られて分岐自体は失われている模様。

この方向へ分かれる道は、いずれ先でまた出会うだろうという読みもあり、敢えて登って確かめはしなかったが、ここからでもかなりの急坂と狭さが見て取れたから、やはり古い道の残骸と思われた。




全体的に鬱蒼とした杉林の中にあり、視界がひらける場面の少ないこの道だが、珍しく木々の合間から眼下の真立川の谷を或る程度見渡せる場面があった。

これまでの緩急ある上り坂の連続が、確かに私を巣山の高原上へと導きつつあることを実感させる、高度感を半分手中に収めたような眺めであった。
このレポートの第1回で駆け下った現県道は、向いの山腹に収まっている。
道形自体は見えなかったが、見覚えのある電柱があったので、位置の見当だけは付いた。



おおおっ!

トラバース中に尾根、谷、尾根と繰り返し、今度はまた谷。
ここが結構な荒れっぷりだった。

当サイトで目が肥えてしまった海千山千の常連読者諸兄には、今さら大騒ぎするほどの崩壊現場には見えないだろうが、一つの道が魅せてくれる緩急を楽しむスタイルとして、こうした変化に対するアンテナは高くしておきたい。無感動主義では損だ。

それに、単純にいい景色なのだ。
近代車道よりは明らかに幅が広い、しかし現代的なものの気配は極めて乏しい、規模の大なる廃道が、そのとびきり大きなキャンパスに雄大に描き出した頽廃美は、ワイルドで見応えがあった。

なお、次第に上方へ離れつつ、依然として並走していると思われた“先ほどの道”は、この崩壊地を境に見えなくなった。
また、旧地形図の通りであれば、この旧道自体もやがて切り返し、この上部の山腹を左から右へ横断するはずだが、やはり見えなかった。
道が寸断している可能性も、ここからは見えないくらい高所を横断している可能性もある。




7:04 《現在地》

谷を過ぎて数十メートル地点の景色。ますます荒廃の度合いが濃くなってきた。

やはり、【あの橋】には道の荒廃の度合いを分かつ意味があったのかも知れない。

すぐ先にも小さな谷の地形が見えるが、そこに、

今回最大の驚きが待っていた。




お分かりいただけただろうか?

「わかんねーよ! そもそも画像が小さくて見えていないんじゃないの?」

……そんなツッコミを受けることを想定して、画像は十分に大きくした。

この画像でも、私を驚かせたものは、見えている。


見つかった?


(↓無言でズーム↓)




見つかった?


(↓無言でさらにズーム↓)




巨大な橋台だぁーー!




この展開は、全く予想外だった。

地味子ちゃんだと思っていたら……、眼鏡がでけぇ!……みたいな驚きだった。

普通、峠道に架かる大きな橋っていうのは、下の方で水量の豊富な谷を渡るのに使われることが多くて、
こんな峠までの残り3分の1まで上り詰めた辺りで、しかも、九十九折りの途中で唐突に現われるというのは、

初めてかもしれん!

そんくらい、意外性のある展開だった。

なんなのこれ、ほんとに……。

あれが、立地に必然性のある橋なのか、早く近づいて確かめたかったが、
やはり道を辿っていくのが道理だろう。なに、もうそう遠くはないはずだ。



もうここからも見えている次の尾根で切り返して、そうすればすぐだと思う。

いやはや……。

道の先って、予想付かないもんですねっ!!





巨大な落橋を偲ぶ回


さて、この先の道行きに大きな驚きと楽しみを予告されている状況での前進を始めよう。

道は間もなく、久々の切り返しを迎えるようだ。
ちょうどそこは尾根に当っているようで、今までで一番“明るい場所”であることが予感される。
これまでは恵まれなかった眺望にも、ありつけるかも知れない。

大いにウキウキしながら、大きな広場のような、明るい切り返しのカーブへ抜け出した!




2018/3/25 7:09 《現在地》

今度もまた、大型自動車でも通行できそうな、スケールの大きな切り返しだ!
GPSで即座に現在地をチェックすると、前回の切り返しから600mほど距離を伸ばしており、地形図上ではちょうど海抜300mの計曲線(太い等高線)と重なっていた。
【旧道入口】からの積算だと約1.4km地点、標高は+130mといったところである。最近は序盤のほどの急勾配を感じていないが、それでも平均勾配は依然として高い水準を維持している。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

先が気になるので、さっさと進もうと思ったが、“発見”がそうさせなかった。

上の全天球画像をグリグリして、私の背中側にあるものを見て欲しい。

切り返しカーブの外側に、建物の基礎のような、コンクリート製の四角い枠があった。

(↑ 別のアングルから見ると、この位置)



これは、なんなんだろう。

一番平凡な答えは、林業関係の作業小屋の跡だろうが、だとしてもプレハブ小屋が一般化する以前の古いものだろう。
より夢のある説として、歴史ある峠道だったという想定から、茶屋の跡を提言したいが、正直コンクリートの基礎と似つかわしくはないな。
あるいは建物の基礎ではなく、この道路により直結した説として、砂利置き場の跡というのも捨てがたい。舗装道路ばかりになった現代では「砂利置き場」と言われてもピンとこない人が多いだろうが、現行の道路法条文中でも“道路の付属物”として明記されている由緒正しい道路施設である。(岩手県の三陸海岸を縦貫する国道45号の旧道には、多くの砂利置き場の跡が残っている(【写真】)のだが、それに似ている。

中に一升瓶が何本か転がっていたから、やっぱり無難に作業小屋かなぁ。




囲いの内側には、一升瓶のほかにこんなものも落ちていた。
とても肉厚な金属製の歯車だ。

屋外でこんなものを拾ったのは初めてで、もしかしたら骨董品的な価値が少しはあるかも知れないと思ったが、クッソ重いので、持ち去るのは修行だ(笑)。もちろんそのまま置いてきてある。(ゲームだったら、この先の謎解きで使うことになるに違いないが)

ゴミとして路上に落ちているようなものではないし、ここで使われてたとしたら、正体を絞り込める重要アイテムっぽい。
ちなみに数は一つだけで、他には金属片とか、このパーツと関係しそうなものは見当たらなかった。



歯車……歯車……。

索道説、ありかぁ……? ここに索道の盤台があったという説。

囲いの道に面していない側は、ほとんど崖みたいな急斜面になっていた。
縁には石垣が囲いを建てる用地確保のために設えられていた。
見下ろすと、樹木のせいで視界はあまりひらけなかったが、隙間から先ほど走破した現県道が見えた。
谷底の近くにある県道を見下ろす高度感はもの凄く(高度差は約100m)、仮にあの辺りに下盤台があったとしたら、現在地との間に索道を運行させれば。物資の上げ下げに便利そうだ。

……すまん、さすがに歯車一つで飛躍しすぎただ。
残念ながら、後日の机上調査を含めても、この施設の正体は明らかになっていない。古い航空写真なども確認したが、索道説を裏付ける情報は得られなかった。

先へ進もう。



切り返して進むと、相変わらず広い車道が続いている。
超高確率で、通行不可能な落橋という局面が間もなく現われると思うのだが、今のところは平常だ。

……いや、微妙に異常かも。

なに、この木……。

一本だけ道のまん中でこんなに育っちゃって、奇妙な景色である。
スギの苗木がここまで育つのにどのくらいの時間が掛かるのか、専門家でないのではっきりとは分からないが、4〜50年は掛かりそうだ。
40年前だとすると昭和50年代前半だから、旧道化した時期次第では全然あり得るのか。
この先にある橋が落ち、車通りが皆無になったちょうどその頃に、上手く路上に根付いて育ち始めたのではないだろうか。運のいい奴。




切り返しから50mほど進んだところで、また広場だ。路肩がかなり広くなっていた。

前方、白と緑が混在する岩場をへつるように、この道の続きが見える。

だが、

地続きではない。

あそこはもう、“対岸”だった。




来たぞーっ!

各員、落橋の衝撃に備えろッ!




7:16 《現在地》

切り返しから約100m、6本目の橋へ到達した。

約10分前の発見時点で、橋台だけがあって、桁が架かっていないことは分かっていたが、

いざ渡るべき位置に辿り着いても、状況は当然変わらず、桁は見当たらなかったし、

橋の代わりの迂回路が用意されているようなこともなかった。

ここで初めて道は断絶した。




これまでの5本の橋と較べると、桁違いに大きい。

目測で橋長15m、高さも10mくらいあるだろう。

これまでの展開からは、ちょっと予想できなかった深い谷が口を開けてる。無視して等高線に沿って進もうにも、岩場に阻まれるうえ、極端に線形も悪くなりそうなので、ここにこの長さと高さの橋を架けることには、必然性が感じられた。
前にも書いたとおり、九十九折りの下段に橋がないのに、上段で突然大きな橋が現われるというのは珍しい展開だが、こうした地形であれば納得出来る。
まあ、ふざけてこんな大きな橋を架けることもないわけで、当然と言えば当然なのだが。

それにしても、下から遠望で見ても大きいと思った対岸の石造橋台は、ここからだと荘厳さすら感じられるほどの迫力があった。
石造物の外観をしているが、これまでの橋台のような空積みではなく、コンクリートで目地が埋められていた。この規模ならば、そしてこれまでのコンクリート橋と同時代の橋であるならば、そうあるべきだろう。
橋台の角が丸いカーブを描いているせいで、西欧の古い砦や塔のような、少し日本離れした印象があった。

なお、下からは全く見えなかった“こちら岸”の橋台も、対岸と同じ材質のものが存在していた。
ただし、地形の関係であまり高くはなく、対岸ほどのインパクトはない。
この地形は下りやすくて、むしろ有り難かった。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

トラバースは無理なので、橋台脇の斜面を伝って、谷底へ降りた。
これはそこで撮影した全天球画像だ。

お椀の底のような地形をしており、樹木のせいで目立っていないが、道がある高さよりも上は、
切り立った岩場が屏風のように展開していて、これまで沿道で見た中では最も急傾斜である。
おそらく、自動車が通れる道を巣山まで貫通させるうえで、この“屏風岩”は最大の関門となったのではないか。
標高的にもそろそろ峠の直下といえるところに達しており、「ここさえ越えれば」と思える状況だ。
難関攻略のために、大型架橋という大技を炸裂させたものと考えられる。



同じ地点から谷の下方を俯瞰すると、【この写真】とは完全な逆アングルで、10分前に通過した下の道を見ることが出来た。

切り返しや架橋といった車道作りのテクニックによって、この険しい山腹に幅5mほどの決して狭くない道が、着実に登攀の成果を上げていた。
これは古い仕事だが、現代にも通じる技術の粋が感じられた。一緒に登っていくことで次第に感情移入を深くするのも、こういう道を真に愛するが故だ。
いまや私は、この道が抱える最大のファンとなっていたのである。




それにしても、なんでこの橋だけが架かっていないのだろう。
これまであった5本の橋は、全て現存していたのに。

意図的に橋桁を撤去されたとは考えにくいと思ったが、実際に谷底へ下りてみると、やはり橋は自然に崩落したものだという確信が深まった。
そこには、極めて風化の進んだ多数の木片とともに、「く」の字形をした金属板が、いくつも落ちているのを発見したのだ。




(←)くの字型の金属片を拡大したのが、この画像だ。
金属片の前に落ちている朽ちた木材とともに、橋桁を構成していたものと考えられた。

すなわち、これまでの5橋と異なり、本橋は木桁橋だったことがほぼ確実だ。
であれば、単純な老朽化によって落橋に至った可能性は大だろう。

もっとも、橋の規模の割りに、残骸の量が少ないという謎はある。
風化し尽くしたか、出水時に押し流されたか、理由は不明だ。
ただ、状況から考えて、落橋は相当昔のことで、4〜50年経過していても不思議ではないと感じた。

(→)
目の前に聳え立つ、高い橋台。
形状に特徴があって、練り積みされた石垣の部分と、場所打ちによる平らなコンクリートの部分がある。

この2段構造といえる特徴的な形状と、残骸に含まれている「く」の字形金属板の存在を総合すると、本橋の型式は、左図のような方杖橋だった可能性が極めて高い(矢印の位置で金属板を使用)。
中央に橋脚の痕跡が見られないことも、無橋脚かつ単径間の方杖橋であったことを支持している。

なお、他の可能性として、方杖橋より遙かに希少な、木製上路トラス橋を想定することには夢がある。
くの字型の金属板や2段構造の橋台という特徴は、この想定にも合致するが、現存する部材の量が少なすぎるので、やはり元々の部材量が少ない方杖橋の可能性が高いとは思う。

どちらの型式だったにせよ、もし現存してくれていたら、絵になる木造道路橋として、界隈にその名を響かせたことだろう。



7:21 《現在地》

左岸の橋台は高く、そのすぐ脇の岩場を凹凸や灌木を頼りによじ登ることで、強引に続きの路盤へ復帰した。

(←)真横から見る2段構造の橋台。
上段に床板が、下段に方杖桁が乗せられていたと思われる。
両者の落差の大きさが、橋の規模を物語っているのである。
地元の名物橋として、絵葉書でも残っていないものだろうか。

(→)振り返る落橋地点。
対岸の橋台は不鮮明である。

なお、この橋はこれまでの5橋と較べて、やや幅が狭いように思うのだが、加えて木造橋で済ませたことにも疑問を覚える。
単純に建設費の問題だったとは思うのだが、普通は逆で、架け替えの比較的に容易な小型橋を木造で済ませてでも、路線の要となるような大型橋に集中投資し、優先して永久橋化を進めるのがセオリーではないだろうか。
セオリーと反する実態を取らざるを得なかったほどに、建設費に窮したものであろうか。



ここに橋を架けることの難しさ、難工事ぶりが感じられる、左岸橋頭の厳しい立地である。
硬い岩盤をほぼ垂直に10m以上も掘り下げており、道幅を確保するための苦心が伺えた。

谷側は練り積みの石垣で、珍しく転落防止柵が用意されていた。
少し前に【見たもの】とも違う、L形鉄柱を立てただけの無骨なものだ。
おそらく原形は、この柱を支えとして、別の木柱を鳥居状に設置していたようである。

難所を突破し、峠がいよいよ近づいてきた。



一部のネット地図に表記されている“隧道”について

探索当時私は全く意識していなかったのだが、複数の読者さまから、本編宛てに寄せられた“意味深なる感想”を受け、Yahoo!地図を確認したところ、驚くべき内容が判明した。
次の画像を見て欲しい。

←「現在地」に、隧道が描かれている!

そもそも、地形図には描かれていないこの道が、正しい線形で描かれていること自体が驚きだったのだが、この気になる“隧道”については、誤記であると考えている。

Yahoo!地図には、航空写真を重ねて見られる機能があるが(→)、隧道の位置は明らかに谷(落橋した6号橋)に重なっている。
落橋によって道が切断されている状況を正確に描くつもりが、どこかで誤謬があって、隧道になってしまったようである。

Yahoo!地図の大縮尺の地図は、地形図ベースではなく株式会社ゼンリンが作成する「住宅地図」をベースとしているようなので、住宅地図の表記を確認すれば因果関係がはっきりすると思うが、ここに隧道が存在した痕跡が、歴代の地形図や現地の地形のどちらにも見られないことから、単純な誤記と結論づけたい。