| 読者の皆さまへのお願い |
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【山さ行がねが】は、読者の皆さまによるサイトへの貢献によって継続運営をしております。私から読者さまにぜひお願いしたい貢献の内容は、以下の
<読者さまにお願いしたいサイト貢献>
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2024/12/15 13:23 《現在地》
畝畑地区内に、全く目立っていない“分岐”を発見した。
ここで分かれる右の道は、地理院地図にもスーパーマップルにも描かれておらず、事前にハルニチ氏の情報を得ていなければ、まさかこの道が県道45号であるとは、絶対に気付かなかっただろう。
前回冒頭の地点から1.6km、県道229号と45号は重複したが、再びここで別ルートとなる。
とはいえこの別離は一時的であり、車道である前者ベースで約900m、最短距離で進む後者ベースで約350mの後、再び出会うのである。
もちろん私は、県道45号をチョイスして進む。
これは紛れもない、“階段県道”のお出ましだ。
“階段国道”があまりにも有名だが、県道にも階段が路線として指定されている道が稀にある。
当サイトで取上げたものとしては、島根県道23号斐川一畑大社線とかがそうだった。
車が通れないことを前提とした階段という構造物と、基本的に車が通れる道であることを前提として認定される都道府県道(道路局長通達『都道府県同路線の路線認定基準等について』)は、根本的に相性が悪いので、不通県道多しといえども露骨に階段が県道として認定されることは稀なのである。
(それでも皆無でないのは、前記の“基準”が昔は今と異なっていたことや、車道に改築する計画があれば非車道でも認定され得たことなどが原因)。
地理院地図には描かれていないこの階段だが、入口に見慣れたピンクテープが垂れていた。
誰が設置したのかは分からないが、道路管理者が県道の認識を持って垂らしたものだったらいいなぁ。
自転車で階段へ突入!
初っ端が急な階段なので、いきなりチャリは足手まといだが、残したチャリを取りに戻ってくるのが面倒なので、区間の距離が短いことを頼りに、このままチャリ同伴で突破を目指すことにした。
階段は苔生してはいるがしっかりしたコンクリート製で、幅は1mくらいある。
ただ、山側からシダ植物が覆い被さってきているから、もっと狭く見える。
13:24
階段は最初だけで、30段くらい一気に登ると同じ幅の地道になった。左に見下ろしているのが県道229号の路面で、既に10mほどの落差がある。
状況からすると、県道229号の前身である林道和田川線を整備した際に、道を摺り合わせるために階段を整備したのではないかと思う。
林道開通以前はこちらの道しかなかったはずで、それであれば階段は不要だろう。
チェンジ後の画像は、階段区間を振り返って撮影した。
急ではあるが、一息の距離である。
13:25
最初の階段を越えると、道は案の定、つい20分前まで半日近くも歩き続けた馴染みのある山道になった。
非車道だが、いわゆる登山道や造林作業道のような子どもの足を無視した過酷さではない、老若男女が日常的に歩いて通ることで地に深く刻まれたと思える、いかにも古びた道だった。
鬱蒼としたスギの森の地面を覆う南国らしい濃い下草に、あっぷあっぷしながらも、辛うじて路面が維持されているのは、おそらく電線(電話線?)の通り道にもなっているからだろう。
人家が近いだけあって、この電線は現役である。
13:29
濃い陰影の森を、自転車を押し進むこと数分。
ずっと登り坂であった道が、電光形に一度だけ切り返して向きを変えると、その先に控え目な空が見えた。
早くも川沿いの県道229号から見て40mほど高い位置にある無名の峠に迫っているのである。
距離は、階段の入口から150mほどだった。
13:30 《現在地》
峠の頂上へ。
両側の比高が40mくらいしかない、ごく小さな峠であり、地形図などに記録された名前もないが、頂上には浅い掘り割りがあった。
和田川の谷の高い所を流れる風がとても涼しく感じられ、傍らに聳える大木が古い往来を見守っていた。
この写真を撮影した到達直前の時点では、浅い掘り割りと大木のほかに何もない峠だと思ったが、数秒後には一転して、実に賑やかな峠であることを知った。
賑やかすぎて、どこから撮影して良いのか分からないほどだった。
まず、この峠は分岐地点であった。
私が来た峠の上り道と、私が往く峠の下り道のほかに、尾根沿いにも2本の道が分かれていた。
さらに、沿道にはたくさんの祠があった。
この写真の二つ並んだ石の小祠は、峠に立った瞬間に目に飛び込んできた。
一帯は全国有数の多雨地帯であるから、路傍の仏さまも出来るだけ雨ざらしにしない心配りか。石積みの祠の中にジャストサイズの石仏が収まっている。
@の祠には、「子安観音」の刻字がなされた舟形光背の石仏が収まっていた。「明治廿七年三月」の文字も刻まれており、建立年(明治27(1894)年)であろう。
県道45号の認定は昭和58(1983)年だが、これはその90年も昔に安置されており、道自体も同様に古いことを物語っていた。
Aの祠には、刻字のない建立年不明の石仏が収まっていたが、剣や法輪を掲げた忿怒相と多臂の姿から、馬頭観音の可能性が高いようだ。おそらく日本中の街道沿いで最もよく見られる石仏である。
いま紹介した石仏@Aをはじめとして、この小さな峠の周辺には、全部で6つの祠が集まっていた。
図はその配置を示したものだ。
ここが寺院の境内というのならばともかく、そういう感じでもない峠の頂上に、かくも多くの祠が集まっていることが印象的だった。
さすれば当然、「なぜか」という疑問が生まれるが、そこで自然に連想されるのは、やはり信仰の道という要素だろう。
平成16(2004)年に「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコ世界文化遺産に登録されたことをきっかけに、「熊野古道」が全国的にメジャーな存在として“再発見”されたが、今いる場所は、「熊野古道」のモデルコースの一つとして有名な「中辺路(大雲取・小雲取越)」から、西へ谷を一つ二つ隔てた無名の並行路線である。現代の観光資源としての狭義の熊野古道には含まれないが、古代から中世にかけて熊野三山を参拝するために全国各地からの人々が歩いた道の総称としての広義の熊野古道には、おそらく収まる道であろうと思っている。
おそらく、そうした浅からぬ歴史的背景を踏まえた上で、その現代への(道路としての)復権を目指した人々の政治的な働きかけがあって、このように長大な非車道区間を抱える県道45号の県道認定がなされたものと予想している。逆説的ではあるが、もし歴史的に取るに足らない道であったなら、こんなに長い不通区間を県道に昇格させることは、無理筋ではないかと思う。
祠BCDは、県道から脇道に逸れた尾根の南側にこのように行儀良く並んでいた。
チェンジ後の画像はBの近景である。
石積の櫓に木の柱とトタンの波板で屋根を掛け、内部に小さな木製の社を安置するという、相当に手の込んだ造りである。
全体的な造りや素材には、多分に炭焼き窯の技法が流用されていそうである。
祀られているのは、「稲荷大明神」であることが、祠の左側に安置された石仏の文字が教えてくれた。合わせて白磁のキツネ像もお供えされていた。
B以上に規模の大きな建築物となっていたのが、このCDのセットである。
参拝者はもうほとんど絶えていると思われる立地だが、手の込んだ屋根掛けのおかげで、倒壊せずに形を留めている。
Cは「住吉」と刻まれた碑が祠の隣に安置されており、船乗りを中心に信仰を集め、商売繁盛、家内安全などのご利益も広く信じられた、住吉大社であろう。
Dは、「愛宕山大権現」の碑が隣に安置されており、こちらは火伏せや商売繁盛、恋愛、コンピュータなどのご利益が広く信じられている、愛宕神社であろう。
面白いのが、B〜Dのいずれも、木製の祠の隣に文字だけの(おそらく年代の異なる)石仏(稲荷大明神、住吉、愛宕山大権現)が安置されていることで、おそらくそれらがより古いご神体で、後に櫓や社を用意して念入りに安置したのではないかと思われる。
そこには単なる信仰心だけではない、経済力の裏付けがあったことを物語っている。
県道45号へ戻って、最後の石仏Eは、峠の切り通しの北口側にある。
ここは分かれ道の角にもなっている。
@〜Dは全てご本尊が安置されていたが、このEだけはなぜか、台石のみの安置である。
主のない台石には、象形文字のような独特の字体で「法界」の2文字が刻まれており、私はここで初めて見たのだが、ネットを検索すると、この台座の上に「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだ石塔が安置されたりするようである。
注目すべきは、台石に刻まれた年号の古いことで、「明和四」「三月日」と左右にそれぞれ刻まれているのだが、明和4年は西暦1767年(江戸時代中期)である。
ますます、古道としての息の長さを感じさせる、石仏だった。
石仏Eの角地を右に折れて進む、尾根伝いの道。
この道は、最新の地理院地図にも徒歩道として描かれている、大倉畑山の峰を越えて小口村役場があった小口集落へ片道10kmで達する、ひどく長い山道である。少なくとも入口の辺りは山仕事道として管理されていそうだったが、奥はどうなっていることやらだ。
和田川林道の開通までは、これが畝畑と外界を繋ぐ生命線で、村を訪れる、あるいは出る必要のある人の多くが頼った道である。
したがって、石仏が立ち並ぶこの場所は、今でこそ山中の無名の土地だが、かつては畝畑の玄関口であったといえる。
『角川日本地名辞典』によると、明治6年の畝畑村の戸数は55、人口は男122、女97と記録されており、戸数2の現在からは想像できないくらい栄えていた。地区の人口が消失に瀕するレベルまで激減したのは、林道の開通後である。こうした現象は日本中の奥山に見られた。
無人だが、人間の息遣いは色濃く感じられる。
そんな不思議な感覚になる峠を、県道45号“だけ”が、無用故に取り残されたのだろうと推測される状況で、通じていた。
県道229号がほんの少しの遠回りで車道として足元に開通している今、敢て県道45号を別ルートとしてここに残す合理的理由はなさそうに思える。
複数の路線が重複して認定されている道路が改築された場合、通常は、重複した路線全てが一緒に改築後の道路へ移動する原則だ。
だが、県道45号はこの場所でそうならなかった。なぜなのか考えてみても、答えは分からない。もしかしたら、今の道路管理者を含め誰も分からないのかもしれない。県道45号の全体的な存在感の薄さを見ていると、なんとなくそんな気がしてくる。
意識的にそうしたわけではなく、単に忘れられていただけなのではないかと。
この県道が、「熊野古道」のように古道であることを“推し”として整備されているならばいざ知らず、そのような投資が行われた様子もない。
県道45号が長い間整備の対象として優先順位が低いところに忘れ去られているが故に、県道229号が通じて随分と時間がたつのに、未だに古い道路に置き去りになっているのではないか。
そしてそんな勘ぐり受けるほどに、古道のまま忘れられている姿というのが、私が知る県道45号那智勝浦本宮線“最大のアイデンティティ”である。
これは(私にとっては)魅力と言って差し支えない。
道がない不通区間は、いくら長くても、そこまで魅力的とは思えない。
現道があるのに、色々な理由で通られていない道が、私の好みだ。
13:33
十分に、この場所を堪能した。
県道に従って、峠を下りよう。
先のことは分からないが、なんとなくまだなにかありそうな気がする。そんな期待があった。
2024/12/15 13:34 《現在地》
沢山の石仏が並ぶ、かつて畝畑村の玄関口であった峠の頂上から北側へ、県道45号としては終点方向へ下り始める。
上ってきた道と同じ様な急な土道であるから、今度は自転車に跨がって、ブレーキを操作しながら下って行く。
杉の枯葉や小さな倒木、小石などが散乱している路面の様子から、日常的に利用されている様子はないが、これでも法的には県道45号の現道である。
ちなみに、和歌山県地理情報システムが公開する道路規制情報を見ても、現時点(2026年3月11日現在)では、県道45号には当区間を含め一切の規制表示はなされていない。
まあぶっちゃけてしまえば、車道ではない区間には全く需要がないから、規制情報の表示対象外なだけだろうが。
13:35
急坂に任せて鬱蒼とした杉林の一本道を下って行くと、前方にやや開けた感じの場所が見えてきた。
県道229号に出るのかと思ったが、どうもまだそうではない様子。
暗く単調な杉林の色ではない、艶やかに紅葉した樹木の存在が、新鮮な期待感をくすぐった。
13:36 《現在地》
おおっ!! なんだここ……綺麗だ……!
山裾のやや緩やかな斜面に、苔生した石垣によって数段の平場が造成されてある。
今いるのは“中段”といえる場所で、左の“上段”には廃屋と思しき平家の建物が山を背負っていた。
道はスロープで右の“下段”へと導かれており、その行く先には目立つ白い表札を掲げた門柱が立っているのが見えた。
この門柱を見つけるまでは、所々に大樹を配した場の森閑とした印象から神社の境内を連想していたのであるが、おそらくこれは違うな……、
おそらくこれは……、学校だ。
“上段”にある建物の横となりにも、倒壊した建物の残骸があった。
その辺りにも、おそらく元来は庭木であったろう大樹たちが聳えている。
ここが古い、かつ交通不便な僻地の学校であったとしたら、その敷地に附属して離れのように存在する人家らしき建築物は、おそらく教職員用住宅ではなかったかと思う。規模や造りからしても校舎ではなさそう。
ああ、やっぱりだ。
門柱に掲げられている表札をズームレンズで確認すると、
「熊野川町立 畝畑小学校」の文字がくっくりと。
探索時点では、なんの予備知識も持ち合わせていなかったのであるが、それなりの大きさの集落があったのなら、小学校だってあるよね。
でも、それが県道のこんな真ん前にあるというのは、意外だった。
……いや、「県道沿いに小学校がある」って書いただけけでは、それは全く珍しいシチュエーションではないのだけれど、こんな事実上の“歩行専用状態”の県道に面しているのは特殊でしょ(笑)。
改めて、小学校と県道の位置関係がこんな感じ。
県道は校門前で直角以上に鋭角に右折して、ここで再びの“階段県道”となる。
そして20段ほど下ったところでまた左折し、校庭を取り囲む石垣の下へ消えている。
これが広域的な幹線交通網を担うものとして国土交通大臣に指定された、主要地方道の風景か!
トンデモナイローカル風景ぶりに、奮えるぜ!!!
なお、この辺りは栗須(栗栖平)と呼ばれており、現在は無住となっているが、平成時代まではこの地区にも住民がいた記録がある。
テンションが上がったんで、全天球画像もゲットだ。
天下の往来である県道が、校門の真ん前で直角に折れて、階段となって逸れているのも面白い。
車道となった県道にはなかなか見られない慎ましやかな態度だ。
当然ながら、この道は畝畑小学校に通学する児童たちの通学路であった。
私と同じように峠を越えてくる子供たちもいただろうし、反対側から登ってくる子もいただろう。
ただ、重要な情報として、この道が県道に認定された昭和58年の時点で、畝畑小学校は既に児童数ゼロとなって休校していた。
この道が通学路として賑わったのは間違いないが、それは県道になるよりも昔の話であった。
そのことも含めて、帰宅後に資料を読んで学んだ畝畑小学校の話を、ここで聞いてほしい。
普段、山行がではあまり学校というテーマを取り扱わないが、元来、学校は道路整備と極めて密接な関係にあり、特に僻地校では交通問題は重要なテーマである。
門柱にあるように、ここにあった小学校は、閉校当時、熊野川町立畝畑小学校といった。
熊野川町は昭和31(1956)年に当地畝畑が属する小口村をはじめとする5つの村(一部地区含む)が合併して誕生したもので、当初は町内に11の小学校と5つの中学校があった。しかし少子化や過疎化のため、平成17(2005)年に新宮市と合併して新たに新宮市となった時点では、町内には1つの小学校と1つの中学校だけが残っていた。
そのような大きな流れの中で、畝畑小学校がどのように「あった」のかを、閉町後の平成20(2008)年に新宮市が発行した『熊野川町史 通史編』から読み取ってみる。
畝畑小学校
創立は明治11(1878)年と古い歴史を持つ。大正6年には北ノ川地区に分教室(昭和7年廃止)を持っていた。昭和22年に畝畑国民学校から小口村立畝畑小学校に校名を変更し、新しい教育が出発した。
(中略)
畝畑小学校では、昭和36年全校児童が32人であったが以後年々減り続け、44年にはついに9人と一桁台、47年には3人になり、50年、6年生男子1人となって小口小学校の分校となった。51年にはとうとうゼロとなって畝畑分校は休校になり、後に廃校となった。
これが校名と児童数の推移である。
昭和36年ごろから急速に畝畑地区の人口は減少するのであるが、原因はとりもなおさず、地区を貫通する和田川林道の開通である。
林道が開通したことで、住民たちは大切な家財を持ったまま移住することが可能になり、あるいは先祖代々の持ち山へ新居から車で通うことも出来るようになった。
ここからは、林道開通以前のまだ賑わっていた時代の畝畑小学校で教員を務めた人物の証言を紹介しよう。
少し長文になるが、数字だけでは見えない血の通ったエピソードだ。
昭和25年から3年間勤務した大石勲の話によると、当時村には沈滞ムードがあり、なんとか活気を取り戻したいとの願いから、色川村籠(現那智勝浦町)の色川第二小学校に勤務していた弱冠25歳の大石が派遣された。大石は色川では、青年会でも活躍していた。大石が籠を発つとき村の青年たちが、北ノ川まで引っ越し荷物を運んでくれ、畝畑からは村をあげて総出の歓迎をうけ、北ノ川で荷物の引き渡しが行われた。(引用者注:色川→北ノ川→畝畑のこの道が、私がこのレポートの前に探索した、県道45号の不通区間である)
赴任した大石は、青年会や婦人会の活動を活発にするために社会教育の必要性を痛感したという。働くことによってものを生み出し、その喜びを分かち合うことが大切である。また、「ハゲシの日」には(半夏至がなまって「ハゲシ」という)「禿げる」つまり草花が生えなくなるから山仕事はしない風習があり、その「ハゲシの日」に道普請をして山への貢献の気持ちを育て、後継者を育てる学習の場にしたい、と考えた大石は、学校の裏にある浦木清十郎所有の雑木林を借りることを考え、浦木宅へ3回足を運んだ。最初はけんもほろろに断られたが、子どもの教育のためにとの願いが聞き入れられ、2回目には快諾してくれた。さらに3万円ほどの大金を寄附してくれた。大石はポータブルラジオを購入、電気のないランプ生活の村(引用者注:畝畑の点灯は昭和37年)では唯一の情報源であった。残りのお金で図書を購入し、子どもはもちろん青年たちにも読んでもらうことにした。青年たちや村人が学校に集まるようになり、ラジオを囲んで心をつなぐ場が持てるようになった。
借りた裏山には、子どもたちが下の川から石を運び野猿(索道)なども引いて愉しく遊べる遊園地を造った。「希望が丘」と名付けた。村人たちももちろん協力は惜しまなかった。汗まみれになった子どもや村人たちに校長住宅の風呂に入って貰った。このことも教育の大きな営みであった。慰安・集いの場を出来るだけ多くもちたいと考え、地芝居を呼んで村人を楽しませた。その関係者を校長住宅に泊まらせて面倒を見たこともあった。村をあげて歌や踊りを楽しんだ。また子どもたちには、まず読み書き、そろばんといった基本的教科を扱うこととし、ローマ字や国語の書き取りなど学年別に計画を立て能力別の指導をしてみた。「畝畑の子どもでもやればできる」と自信をもたせたかった。さらに大石は、村人に週一回そろばんを教え、子どもと競争させることにした。親たちは山にそろばんを持っていき、子どもに負けるものかと必死になって練習した。このころは、全家庭が山の仕事に従事していた。山祭りには手に持ちきれないほどのおおきなにぎりを用意した。日ごろ十分食べられないので、祭には腹いっぱい食べていた。
学習指導の面でこまったことは、「子どもたちの経験の領域が狭く限られていることと、ほとんど文化の息吹をすっていないので理解に乏しく、裏づけのない空の理解に走り勝ち」「海を知らない者九割、汽車や自動車をまだ一度も見たことない者が大多数」であった。大石は、子どもたちの視野を広げたいと籠の色川第二小学校の児童との交流会を計画。片道4時間かけて運動会・学芸会の交流を毎年各一回相互に行った。籠に行った児童たちは、民家に分宿させてもらった。(引用者注:児童たちも私が探索した道を歩いて籠へ行ったのだ)
小口村役場から10km以上も離れた畝畑は、片道3時間以上も歩かねばならなかった。小口村西から険しい山道を約2時間かけて「辞職峠」にやっとたどり着く。途中くねくねとした上りのきつい坂道では、「こんなにしんどいならもうやめて帰ろうか」と思案したので「思案坂」と人々は言っていた。「辞職峠」は文字通り辞職を決意するところであった、という。大石は教科書を受け取りにこの道を通い、新宮への出張はこの山道を3時間かけて歩き、小口から一日一往復しかないバスに揺られて2時間、やっと新宮に着く。ゆうに二泊三日を要したという。日常の生活品は、小口に出かけ購入していたが、多くは村人に頼んでいた。「石油や醤油一升の運賃は55円、ほかのものは1貫(約4kg)50円以上」で「1ヶ月2000円程度の運賃を支払わねばならなかった」。

いかがだったろう。
幾つも特筆したくなるようなことが書いてあったが、個人的に一番に驚いたのは、今日の感覚としてはほとんど紀伊半島の先端部で海に囲まれているこの場所で(実際直線距離なら海まで20kmも離れていない)、小学生の子どもたちの9割が「海を知らない」というエピソードだ。交通の不便がいかに人間の知の世界を狭めるかを如実に物語っている。
それでも、ここに語られている畝畑はとても豊かで平和で、不可逆な幸福に満ちていたように思う。数多の選択肢が、人の幸福により大きな格差を作るのだろう。
右の写真も、『町史』に掲載されていた畝畑小学校を撮したとされる写真だ。
撮影時期が定かではないのだが、かなり古い写真ではないかという気がする。
建物の配置や、一部建物の形状に現状との一致が見られるが、大木が見当らないし、校舎も現在のものとは違っている。校門もない。おそらく旧小口村時代の風景だろう。
ネタバレを言うと、私が探索している県道に関係する文献はまったくと言っていいほど見当らないので、より俯角的にこの地の世界観を知ってもらうべく、県道を辿る私の目の前に生々しい姿で現われた畝畑小学校の昔話をしたのである。
これは学校跡で倒壊せずに残っている2軒の建物の一つ、おそらく教職員住宅であった木造平家の建築物。校庭全体を見下ろす石垣の上にある。
右隣にもトタン屋根の建物があったが、そちらは倒壊していた。
もう1軒は校庭の奥に建つ校舎とみられる建物で、長屋のような奥行きのある造りである。
やはり廃墟状態で、開いたままの玄関口からは懐かしい木製の跳び箱が覗いていた。
荒れ果て、一部は屋根が抜けてしまっている校舎内。
手前から、教具室、図書室、視聴覚室の札を掲げた部屋が続き、その奥に札のない教室が2つあった。
教具室には山積みとなった机と椅子があり、図書室には書棚いっぱいの書物が、視聴覚室には大きな模造の算盤があった。
手前の教室には椅子と机が3セット、奥の教室には椅子と机が1セット、いずれも黒板に向かって並んでいたのである。
最後の子どもたちが巣立ってからほぼ半世紀、手付かずのままであったような印象を受けた。
13:43
校庭から校門越しに見る県道45号の様子。
これから、「階段」へ向かう。“階段県道”再び、である。
自転車を小脇に抱えて、ポポポンと下る。
13:44
階段の先で、県道は校庭を支える石垣の下へ入った。
ここで初めて眼下の杉林を透かして、県道229号の狭い鋪装路面が見えはじめた。見知った道との再開である。
子どもたちの転落防止用に設置してあっただろう高いフェンスが崩れて、県道の路面に撓垂れかかっていた。それを躱しながら進むと……
チェンジ後の画像の地点で、県道は再び階段になる。
ここには丁字路があり、右後方へ鋭角に折れ曲がるのが県道の順路であるらしい。
この角にはコンクリート製の水槽らしき苔生した函が置かれている。
今は空っぽだが、昔は沢水を引いていて、通学する子どもたちに清涼を捧げていたものだろう。粋な計らいだ。
三度の“階段県道”区間へ。
この階段は、先ほどの校門前のものと同じく、丸っこい自然石を丁寧に敷き並べたもので、住民の手作り感がとても濃い。
県道としての道路整備を受けたことなど到底なさそうで、最初から最後まで、ここに住む人たちの手作りであったと思う。
地形的には眼下を流れる渓流の見晴らしがとても良さそうだが、鄙びた集落の例に漏れず、この畝畑も無人化した家屋敷や田畑がことごとく杉林に置き換えられていて、それも最近のことではないから、全体に鬱蒼とした雰囲気になっているし、視界も利かないのである。
階段を振り返り。
見ての通り、とても急で狭い階段だ。
背後に見える台の上が小学校で、これは川下側より通学する子どもたちが毎朝見ていた風景の再現だった。
車道などというものとは対極にある存在だが、主要地方道である。
未供用などということもない、現役の。
こんな県道が、忘れられたように存在していることも、人文の彩り深い紀伊半島“らしさ”だと感じる。
急な石段をひとしきり下ると、またも狭い土道となり、電光形に折り返して進む。
写真は折り返したすぐ先で撮影したもので、いよいよ県道229号(旧和田川林道)が近づいてきた。県道の隣は和田川だ。
13:46
23分ぶりに、県道229号と合流した。
ここから再び両県道は重複区間となり、代表はもちろん県道45号である。
こちら側も合流部分は階段であったが、この苔生した石段に、県道の存在を感じることは難しい。
ただ、やはりピンクテープが入口に取りつけられていた。
全国地価MAPの地図上に「現在地」を表示した。
車道である県道229号が900mかけて川沿いに大回りする区間を、県道45号はほぼ最短距離で尾根を突破し、約350mで通過できたが、この近さに価値があったのは、自動車が導入される前の世界線だけだろう。
なぜ敢て県道45号がここでショートカットしたのかと問われれば、それは単に、この県道を認定した時点では、近年整備されたばかりで管理者も異なる林道より、昔からあった里道を県道とする方が手続き上に易かったからだと思う。こういう事例は全く珍しくない。
13:48
再び重複区間に入って、県道45号の順路方向へ進むと、すぐに和田川を渡る大きな橋が現われる。
この橋は畝畑橋といい、昭和48(1973)年竣功、全長22m、幅3.6m。
生まれは間違いなく林道だが、今は県道45号の橋として管理されている。
橋を渡って、道なりに140mほど進んだ地点が、次の写真だ。
13:49 《現在地》
この場所が、県道45号と229号の4度目にして、最後の分岐地点である。
県道45号は、ここから左後方へ登っていく徒歩道に対して認定されている。
一応、地理院地図にもここから左へ入る県道45号が“黄色い徒歩道”として描かれているので、意識すれば気付くことが出来るが、普通に車を走らせているだけだとまず素通りする場所だろう。
標識や案内板などが全くないのは、本編冒頭で紹介した最初の分岐地点と同じである。
これが県道45号の行く手の様子。
やはり石の階段が、苔生した石垣の間を縫うように上り、深い森の奥へと消えていた。
この場所も中井平と呼ばれた古い在所の跡であるらしい。
県道45号の全体図の中での今いる場所はここだ(↑)。
この県道の全長16kmに及ぶ自動車交通不能区間(図の点線部分)は、畝畑の南側の北の川峠の区間と、北側の高瀬(こうぜ)峠の区間に大きく分けられ、ここは後者の南口である。
高瀬峠区間は約9kmの長さがあり、途中に高瀬の廃村があるが、一筋縄では行かない長さである。
だが今後探索する計画を持っており、それを成功させることが出来たとき、晴れて私は県道45号の完抜者(コンプリーター)の称号を得る。
この日は先の北の川峠の攻略と、畝畑地区内のミニ非車道区間(本編)の攻略、そして次に繋がるこの高瀬峠の入口を確認するまでが任務であった。
このあとの私は、当初の計画通り、県道229号を10km走って小口へ下り、さらに県道44号を今朝の出発地点で車を止めてある滝本まで14km登る長い長い帰路を全て自転車でこなさねばならなかったから、既に日も黄金色に成り始めたこの時間にこれ以上ここへ留まることは出来なかったのである。
またあう日まで、県道45号よ、畝畑よ、しばしのさらば。