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道路レポート 和歌山県道45号那智勝浦本宮線 畝畑地区 机上調査編

所在地 和歌山県新宮市
探索日 2024.12.15
公開日 2026.03.24

 畝畑と県道那智勝浦本宮線を巡る 机上調査編


今回の探索は、ある県道の長大な不通区間に挟まれた短い“不通ではない区間”の中に、さらに収まっている短い不通区間を紹介するものだった。

和歌山県道45号那智勝浦本宮線は、全長約50kmの過半に及ぶ約27kmが道路構造令に準拠しない未改良区間であるという生粋の“険道”で、そのうち16kmほどは車が通れない道路を県道に認定している、いわゆる“登山道県道”であるのだが、今回はその16kmの内訳の中の1kmに満たない短い区間(チェンジ後の画像の緑線の区間)を自転車同伴で突破した。

その舞台である新宮市熊野川町の畝畑は、明治期には200人以上が暮した大きな集落で、昭和50年までは小学校も存在したが、探索時点では最後の1戸のみが、前後10km以上も沿道に人家の絶えた隔絶の山中に暮らしていた。
畝畑は県道45号と県道229号の交点だが、車道である後者の存在が、この地の暮しの生命線である。

探索前の期待としては、今回探索区間内に県道45号の存在を窺わせる何か(例えば県道45号のヘキサとか)があったら面白いと思っていたが、残念ながらそうしたものはなく、ただ事前情報によって知っていた県道ルートを忠実に辿った結果、そこには確かに山道同然ながらも道はあり、階段があったり(“階段県道”)、祠群があったり、小学校の跡があったりした。

また、これは現地からは窺い知れない事実だが、区間内にある奥山川橋や畝畑橋といった道路橋は、実質的には県道229号の利用者だけが車で走ることができる橋ながら、行政的には県道45号の一部として管理されていることも判明している(国土地理院「全国道路施設点検データベース〜損傷マップ〜」)。


今回の机上調査では、伝統的非車道である県道45号と、車道である県道229号が、それぞれどのような経緯から畝畑に“在る”のかを紹介すると共に、畝畑住民の目線(証言)から、それらの道がどのように使われていたかについて、文献をもとに解説したいと思う。

まずはいつものように、畝畑周辺(約一里四方)の歴代地形図を見較べてみよう。



@
地理院地図(現在)
A
平成4(1992)年
B
昭和44(1969)年
C
昭和33(1958)年
D
明治44(1911)年

@は本編でも何度も見ている最新の地理院地図だ。

A平成4(1992)年版は、県道229号が認定(平成7年)される直前の状態を描いている。
既に県道229号の位置に車道があるが、これは森林開発公団が整備したスーパー林道和田川松根線である。
なお地図上からは窺い知れないが、県道45号は既に存在していた。

B昭和44(1969)年版は、県道45号認定(昭和58年)以前の状態だが、後に県道に認定される道自体は既に存在している。
また、Aのスーパー林道の畝畑以北の部分だけが描かれているが、これは同じ森林開発公団が設立間もなく手がけた公団林道事業(紀伊熊野地区と四国剣山地区に多数の林道を建設)で整備した、和田川林道である。昭和35(1960)年に開通したこの道路が、畝畑へ到達した最初の車道であった。

C昭和33(1958)年版は、畝畑に最初の車道が到達する直前の地図風景であるが、この時点で既に、後に県道45号となる一連の道が、今回探索した畝畑のミニ峠越えの区間を含めて、“幅2〜3mの町村道”として描かれており、当時村役場所在地だった小口地区へ山越えして通じた“辞職坂”の道と共に、畝畑の主要な往来だったことが分かる。

さらに当地を描いた最古のD明治44(1911)年版を見ても、地図風景は50年後とほとんど変わるところがない。
これを見ても、外界の変化があまり及ばない、隔絶に近い山暮らしが長らく続けられていたことが窺える。
今回探索した県道45号が、この時代から既に描かれている里道を基にしていることも、はっきり分かる。
あの【ミニ峠越えの道路風景】なども、荒れてはいても廃道ではなかったから、令和に生き残った明治道ということになる。
それどころか、地形図では追えなくなるだけで、きっともっと古い道なのだろう。【明和の年号】が刻まれるほどには。


一・
昭和22(1947)年
二・
昭和41(1966)年
三・
昭和51(1976)年
四・
令和6(2024)年

今度は畝畑集落の消長を、歴代の航空写真から調べてみる。

一・昭和22(1947)年版は、今回紹介する図の中では最も人口が多かっただろう時代のものだ。
『角川日本地名大辞典』によると、畝畑地区の人口は、明治24(1891)年当時は戸数54の人口273であったが、昭和35年にはこれが30、138となり、昭和55年には4、6となった(令和2年は1、3)。

二・昭和41(1966)年版は、和田川林道が開通して間もない頃の景色で、川岸を削って整備された同道路がよく見える。
畝畑地区を構成する幾つもの小集落(地名を附記した場所)には、まだ畑や人家が見える。

三・昭和51(1976)年版になると、全体的に畑や人家が少なくなり、青々としたスギの森に置き換えられている。
この前年に畝畑小学校は在校生がゼロになり休校(後にそのまま廃校)した。
当地を袋小路から救い、隣町への経路に変えるスーパー林道和田川松根線の工事が盛んに進められている当時だが、その完成も人口減を引き留めることは出来なかったようだ。

四・令和6(2024)年版は、探索同年の航空写真で、最後の1戸だけになった状態だ。かつて小集落があった場所は、ことごとく緑に覆われてしまった。
地方の景色を見ると常々思うが、日本はここ数十年で本当に緑豊かになった。自然破壊なんて言葉は、単純に緑の総量を語るものではないワケだが、そんな皮肉の一つも述べたくなるほどに。


続いては、いくつかの文献から、畝畑という地区の変化を見て行こうと思う。
もちろん、そこに道という存在が、どのように関わってきたかも。

北ノ川村の亥の方二十三町にあり東は鎌塚村へ二里余北は四村荘蓑尾谷へ一里二十五町其外他に行く路なし西南は皆大塔峰の麓にし蓑尾谷村の方へ廻らされば至るへからす南は七川谷郷松根村と堺すれとも又北ノ川村に廻らされは至るへからす実に深山僻地なり

『紀伊続風土記』より

『紀伊続風土記』は、紀伊藩が江戸時代の文化3(1806)年から天保10(1839)年の間に編纂した風土記であり、そこには当時一村であった畝畑村が上記のように解説されている。
当地からは南南東の北ノ川村、東の鎌塚村、北の蓑尾谷(村)にのみ道が通じていて、「其外他に行く路なし」「実に深山僻地なり」とある。
山に慣れた当時の感覚でも僻地だと書いてあるのは些か衝撃的で、村から南、北、東の三方にのみ道が通じる状況というのは、先ほど見た@明治44年版地形図そのままである。未だ車通さぬ県道45号は、このうち南と北の道だ。

続いて紹介するのは、昭和31年から平成17年まで畝畑地区が所属していた熊野川町の『熊野川町史 通史編』(平成20年刊)の記述と、昭和32年に撮影された畝畑集落の写真だ。


『熊野川町史 通史編』より

[ 畝畑 ]

和田川上流にあり、郵便局のある小口から約12km隔たっている。車道が出来たのは昭和35年で、それまでは大倉畑山のザレ山坂や思案坂を越えて小口と往来していた。高瀬(こうぜ)峠へ越えて請川(田辺市本宮町)とも交渉があった。(※引用者注:ここが県道45号=不通区間になっている)

小集落の地名は次のとおりだが、カッコ内は戸数で、昔はこんなにあった、と地元の人が語ってくれたものである。
栗須平(9)、中井平(20)、檜空(6)、小口(7)、和久保(5)、赤土久保(2)、高瀬(10)。

昭和31年には30戸あまりと推定される。
電灯がついた37年には22戸に減少していた。
ところで34年ごろに下流の大山地区へ移住した一家は、解体した家を筏に組んで川を運んだというエピソードが伝わっている。だが、その後の移住者は家をそのまま放置し、現在もなお崩れかかった廃屋を見ることができる。

『熊野川町史 通史編』より

林道が開通し(昭和35年)、電灯がつき(昭和37年)、文明に触れれば触れるほど、より便利な下界暮しへの憧れを抑えきれなくなるのかもしれない。
実際に畝畑で暮らした方の証言も見てみよう。
平成6(1994)年に岩波新書として出版された『森のめぐみ 熊野の四季を生きる』の「最後の住人(畝畑)」の章は、平成初期に畝畑栗栖平の堀内正静・モトエさん夫妻に取材された証言集である。主に交通に関することなど、いくつか抜粋して紹介しよう。


『森のめぐみ 熊野の四季を生きる』より

……高瀬峠を越えて、請川(本宮町)へ通じる道は、おおよそ12kmもあったという。
「盆と正月前になると竹の籠をせったら負うて、おおぜいで買物に行ったわ。請川は町が大きいさか、遠いけど品物が豊富じゃったのう」と正静さん。

畝畑へ外から行商人が訪れることもあった。
「富山の薬屋さんはよう来たわのう。衣料品や魚売りも来たわ」とモトエさんが言う。
「請川から医者に来てもろうたこともあったな。ふだんは病気になってもがまんをして、いよいよ重態になると、それでも動かせる病人なら駕籠に乗せて、みんなで担いで、請川や宮井の医者へ連れて行ったのう」と正静さん。

「(昭和35年に)道路ができたとき、町長が、あんたらが引っ越しの荷物を運ぶためにつけたんやないぜ、と言われた。そいて、37年に電気がついて祝賀会もしたけど、もう22軒に減っとったな」と正静さんは言う。

『森のめぐみ 熊野の四季を生きる』より

道路の開通を迎えたときの町長渾身の発言が、結果の前に悲しく響いている……。

というわけで、次の章ではいよいよ、畝畑を通る県道や林道、その歴史……整備のあらましについて、解説しよう。




今回取上げた和歌山県道45号那智勝浦本宮線は、昭和58(1983)年2月1日に認定された、比較的に新しい路線である。
また、長大な不通区間を抱えている、全体的に改良が進んでいない“険道”のせいか、あまり文献的な情報にも恵まれていない。
例えば、先ほど紹介した『熊野川町史』には全く一行も触れられていないのである。
(まあ、いくら長くても、町内の区間がほぼ全て不通では、書きたくなかったのかも…)

だが、よくよく調べを進めてみると、畝畑を通る今回探索の古道が県道になったのは、昭和58年が最初ではなかったことが分かった。
そんな予感はしていたが、もっとずっと昔から、県道であった道路だった。
にもかかわらず、現在まで真っ当な道路としては改良が進められていないということになるのである。

今回調べて分かった、畝畑を通った最初の県道の路線名は、那智本宮線である。
現在の那智勝浦本宮線と名前が似ているが、この道路は府県道という、旧道路法時代の道であった。
この道路名を確認できる(私が把握している)最古の資料は、『和歌山県統計書 大正9年』である。
同書付録の「道路表」の4ページ目の最後の辺りに、このように記載があった。

種別道路名起点/終点重要ナル経由地道路延長橋梁延長渡船場延長
府県道那智本宮線東牟婁郡那智村/同郡本宮村東牟婁郡色川村、小口村、請川村11里00町20間
『和歌山県統計書 大正9年』より

この大正9年の統計書の府県道の位置を、現在の道路網のうえに示したのが右図だ。
チェンジ前の画像に赤線で示したのが府県道那智本宮線で、チェンジ後の現在の道路網に赤線で示したのは県道45号那智勝浦本宮線である。

細部に違いはあったとしても、起点や終点、経由地の並びや距離(11里20間=43236m)から、大正時代の府県道那智本宮線と、昭和に認定された県道那智勝浦本宮線には重なっている部分が多く、特に今回紹介した畝畑前後の区間については、当時から変わっていないことが窺える。(経由地の「小口村」は、当時の「小口村畝畑」を含むだろう)

また、前年の大正8年版の統計にはこの路線はないので、(旧)道路法による府県道の認定が行われた大正9年に初めて認定された路線であると見て良いだろう。

どういうわけか歴代地形図だと毎回、この府県道は畝畑周辺で里道や町村道として表現され、県道として描かれなかったので気付きづらいのだが、この大正9年認定の府県道那智本宮線こそ、現在の県道45号の原点である。

和歌山県統計書には大正9年版から毎年登場し、道路表の存在が確認できた最後の昭和15年版まで皆勤している那智本宮線は、ときおり路線の長さが変化し、最後の昭和15年版では全長49138mになっていたが、これ以外の資料となるとあまり見当らない。

少ない中では、『帝国議会衆議院委員会議録 第67回』に収録された昭和10(1935)年3月の請願委員会議録に、次の一文があった。
那智本宮線ハ、本宮の官幣大社熊野座神社ト、那智ノ官幣中社熊野那智神社トヲ連絡スルモノニシテ、中世帝王ガ熊野ヘ行幸アラセラルゝ御道筋デアリマス」と。

これが事実ならば(路線名からはいかにも事実)、歴代天皇行幸路に由来する大層な県道ということになるが、おそらくこれは本路線ではなく、今以て“熊野古道”として有名であり鎌倉時代に後鳥羽上皇が通った史実もある“大雲取越”の錯誤ではないかと思う。

ほかに『和歌山県議会史 第3巻』や『和歌山県政史 第2巻』によると、この路線は昭和13(1938)年に指定府県道という、現代の一般県道に対する主要地方道にあたる上位の県道へ請願によって昇格している。
つまり当時からそれだけ期待されていた路線といえるのだが、その成果が具体的な整備として現われたのは、おそらく現在では(狭いながらも)車道として使えている那智勝浦町内の区間なのだろう。成果が畝畑にたどり着くことは、おそらくなかった。
なにせ50km近くもある府県道だ。単純に、整備すべき距離が、時間と予算に対して長すぎたかと思う。

……というわけで、旧道路法時代は終わり、戦後の新道路法時代へ。
この時期も県道那智本宮線が存続していた形跡が僅かにあり、昭和55(1980)年に那智勝浦町が発行した『那智勝浦町史 下』に掲載された、「国及び県の事業でその施行を要望する事業五ヶ年計画」の「県の事業」の部として、昭和33年度から36年度にかけて、毎年「県道那智本宮線改修」という項目が挙がっている。

そしてここからは、お馴染み『机上の道を辿る』の「【草稿】和歌山県の主要地方道一覧」のページや、その著者である江田沼音氏に直接教えていただいた内容を元に記述を進めるが、旧法時代からの府県道那智本宮線は昭和34(1959)年5月14日に廃止され、代わりに一般県道本宮那智停車場線が認定された。経路は従来とほぼ同じだが、起点と終点の方向が入れ替わっている。

さらに、昭和41(1966)年1月22日に主要地方道本宮古座川線が認定されると、入れ替わりで前記の本宮那智停車場線は廃止された。
本宮古座川線の経路はチェンジ後の画像の通りで、起点から請川〜畝畑〜樫原〜田垣内までは従来と同じだが、その先は古座川に南下する(現在の県道43号の区間)ルートとなり、那智山の西側を南北に縦貫する道路になった。

またこのとき本宮古座川線から漏れた本宮那智停車場線の残部は新たに一般県道樫原那智勝浦停車場線に認定され、同時に一般県道小長井相須線一般県道口色川下里停車場線も認定されて、徐々に県道網が整ってくるが、実際の整備はこの後の話である。


『和歌山県政史 第3巻』より

上図は、『和歌山県政史 第3巻』に掲載されていた古い「和歌山道路図」の一部であり、昭和41(1966)年ごろの状況を描いている。
青矢印の位置を南北に貫く太い赤い線が、主要地方道本宮古座川線である。青矢印の辺りが畝畑だ。
本県道は東牟婁郡の内陸を南北に縦貫する唯一の県道であったが、認定当時の整備状況はといえば、実延長62.2kmに対して改良済み延長は僅か1.1km、鋪装延長に至っては0.3kmという、トンデモない“険道”であったのだった。(これから見たら現在の県道45号の改良率が45%くらいあるのは、十分頑張ったと言えるのかも…?)

『和歌山県議会会議録 昭和42年9-12月定例会』という資料を見ると、昭和42年9月定例会土木委員会にて、「県道旧本宮那智停車場線の一部未改良区間(本宮〜樫原間)の開設促進についての請願」が、本宮町長ほか2名から提出され、これを議会は「採択」している。
本宮〜樫原間の開設とは、まさに現代の那智勝浦本宮線に残された16kmあまりの不通区間の解消を言っている。
決してこの県道の改良がこれまで誰からも顧みられてこなかったワケではないことが分かる。

さらに同資料の昭和42年12月定例会会議録の中に、上記の請願内容に触れた、次のような議員・知事・土木部長間のやり取りも記録されていた。

森岡辰男 議員
……ただ一点だけ、どうしてもご答弁をいただきたいと思うんですけれども、これはひとつ知事にも答弁していただきたいと思うんですけれども、本宮古座川線の改良工事であります。これは未開発道路であります。来年度は予算をつけなくても、調査費だけでもぜひつけてもらいたいということであります。この道路は、本宮・熊野川町、あるいは那智勝浦町・古座川町・古座町の全線にわたって関係のあるどうろでありますし、われわれは奥地等産業道路でやってもらえるものと期待しておりましたのが企画に合わないということで、これは実現しておらないのであります。これを、ぜひとも来年度は調査費だけでも計上して貰いたいことを強く要望すると共に、この点一つ知事さんに答弁して貰いたいと思います。答弁してもらわんと、ちょっと地元にかっこうつかんので。(笑声)
大橋正雄 知事
森岡議員の最初の再質問は、本宮古座川線の改良工事調査費の問題でございますが、いまここで直ちに調査費を組むというお答えもいたしかねますけれども、査定の際に十分御意見をしんしゃくして検討いたしたいと思います。
吉海正 土木部長
本宮古座川線の調査につきましては、先ほど知事が申されましたように、改良区間の非常に長い路線でございますので、これの改良工事をすぐに着手するということは、道路五ヶ年計画などの関係もございまして、むずかしいので、さしあたり調査をやる方向にもっていきたいと思いますが、それにつきましては知事の申されましたように、色々今後努力していきたいと考えております。
『和歌山県議会会議録 昭和42年9-12月定例会』より

ううう〜〜ん……、玉虫色の答弁だ。
地元の熱意はとても伝わってくるのであるが、やはり16km以上もある非車道区間を改良するというのは一朝一夕ではないし、事業が大きすぎることで、なかなか優先順位を上げて貰いづらかったのかも知れない。


『人と国土 臨時増刊(45)』より

このような最底辺の整備状態からのスタートだったが、当時は高度経済成長に列島が浮かれていた。
県道本宮古座川線についても、面目を一新するような改良を受けるチャンスがやって来る。

国が昭和52(1977)年に閣議決定した第三次全国総合開発計画では、高度経済成長期に深刻化した大都市への人口集中と地方の過疎化を抑制し、人間が健康で文化的な生活を営める環境を整えることを目指して、新たに定住圏という地方生活圏の概念を盛り込んだ。

その先進的なモデル事業となるモデル定住圏計画を全国に募り、昭和54年ごろから比較的短期間で44のモデル定住圏が指定された。
そのうちの一つが、新宮一帯を舞台とした和歌山県の新宮圏域モデル定住圏であった。

各モデル定住圏では、地域の一体化と魅力の最大化のため、圏域内の交通網整備が重要な施策とされたが、新宮圏域では具体的に16の整備項目が挙げられていた。
それが右図に示した1〜16の地点で、有名なものだと紀伊半島の南端に浮かぶ紀伊大島への架橋や、国道371号の紀南延伸(これは未だに一部未開通だが…)などがあって、青矢印の位置(畝畑)を通るピンク色の道――和田川松根スーパー林道――も、その一つであった。

赤色の道が県道本宮古座川線で、この道路の整備は16項目には含まれていないが、とても目立つように描かれており、無関係ではあり得ない。
昭和57(1982)年の『新宮モデル定住圏における地域資源活用のための港湾整備に関する調査報告書』という別資料にも、次のように本県道の整備を進めるべきという認識が示されている。

圏域内では国道42号、国道168号、国道311号が主要幹線となっているが、海岸からすぐ山地となっているため、内陸部の連絡が悪く、圏域内の観光周遊ルート等が形成しにくく、現在建設中のスーパー林道や本宮古座川線の早期完成が強く望まれるところである。

『新宮モデル定住圏における地域資源活用のための港湾整備に関する調査報告書』より

モデル定住圏計画の開始を見越していたかのように、昭和52(1977)年6月18日には一般県道上長井相須線を那智勝浦町内まで延伸する主要地方道那智勝浦相須線(先の図の青線部分)が認定され、主要地方道樫原那智停車場線が引き換えに廃止されている。

だが、国のお墨付き(大量の補助金)で始まったモデル定住圏事業を以てしても、結局この難産な県道本宮古座川線を完全に整備することはできなかったようだ。
できたのは、那智勝浦町と古座川町を結ぶ部分(現在の県道43号)をどうにか自動車が通れる程度に整備することだけだったようである。
だが他の路線にも目を向ければ、畝畑を袋小路から救い熊野川と古座川を繋げたスーパー林道和田川松根線(現県道229号)の完成や、本宮古座川線に替わって熊野川町と那智勝浦町を初めて車道で結ぶことに成功した県道那智勝浦相須線(現県道44号)の完成は、この計画の大きな成果であったといえる。

あるいはこれらの達成をもって、古くからの県道であった請川〜畝畑〜樫原区間の整備は優先順位を大きく下げられたのではないかとも推理する。
特にこのスーパー林道の整備は、合計23本で打ち止めとなったスーパー林道の22路線目として、多数の競願がある中で和歌山県が勝ち取ったものであったそうで(『町村長10000日の歩み』より)、もしかしたら当時の話し合いで、この林道の整備を行う代わりに県道本宮古座川線の整備を当分求めないというような密約があったりして………… あ、これは妄想ね。

さらに、昭和58(1983)年2月1日にも路線名の大規模な再編がなされ、チェンジ後の画像のように変化する。
畝畑を南北に貫く今回探索の主要地方道那智勝浦本宮線は、このとき初めて認定されたのである。
とはいえ変化は路線名だけであり、実質的には従来の主要地方道本宮古座川線を分割して組み立て直した“再構成”に過ぎなかった。ただこれによって一般県道口色川下里停車場だった部分が主要地方道に組み込まれることになった。

モデル定住圏計画が終息した後も、この県道那智勝浦本宮線の改良をメニューに掲げた計画はあったようだ。
昭和61(1986)年に和歌山県企画部企画室が発行した『新世紀の国21 和歌山県長期総合計画』という資料によると、同計画が目指す交通・情報通信基盤の整備の一項目に、「県道周参見七川古座線、那智勝浦本宮線、那智勝浦熊野川線等の整備」という文言がある。
だがこの計画でも本県道の大々的な整備は行われなかったようである。

これ以降については、平成7(1995)年に和田川松根スーパー林道を改めて県道229号熊野川古座川線が認定されたことが、ほぼ唯一の変化である。

……で、“現在”に至る。

(おまけ:ここまで見た県道の変遷をアニメGIF画像にまとめたのでどうぞ


最後に一つ、

もしかしたら和歌山県はまだ、畝畑周辺の県道45号の整備計画を温め続けているのかもしれないという資料を見つけた。

ご覧いただくのは、「平成17年度作成」と枠外に書かれた「和歌山県東牟婁振興局新宮建設部管内図」の畝畑周辺の拡大図である。


平成17年度管内図
同図着色加工
(参考)
地理院地図

この比較的最近のものである管内図を見ると、畝畑周辺の県道45号の経路が、地理院地図のそれとは異なっている。
県道229号は変わらないのだが、県道45号だけが違っている。

どう違っているかというと、県道45号の一部が、道路計画線であることを示す点線で描かれており、しかもそれはいかにも現代の改良済道路っぽいものである。

畝畑地区の県道45号には、林道由来で決して“いい道”ではない県道229号を置き換えるような、規格の高いバイパスの計画があったように見受けられるのである。

しかもその点線の北端部は、ちゃんと県道45号の経路である高瀬峠の方を向いており、将来的には道路計画をさらに北進させ、高瀬峠の下にトンネルでも掘抜きそうな、気配を感じさせるものがある。(そう思わない?)


……改良の夢は、まだ生きている。

そう言って、希望を持って終わりたいのはやまやまだが、しかし実はこれよりも遙かに新しいソースを元にしているであろう、『全国道路施設点検データベース〜損傷マップ〜』で現地の地図を見ると、そこに示されている県道45号のルートは、先の平成17年管内図にあったような“夢”のあるものではなく、相変わらず古道一辺倒の地理院地図のルートまんまである…。

もしかしたら、和歌山県は現実を見て、この夢のあった計画線を既に放棄してしまっているのかもしれない…。




ここまで那智山周辺の100年に亘る道路整備史を見てきた個人的感想。
もともと自動車が通れる道が全くなく、しかしその割には長い歴史に根ざした多数の小集落が方々に点在している広大な山域における道路整備は、行政にとって簡単ではなかったと言うことが、とても伝わってきた。
多くの集落を“救う”ためには山域を縦貫する1本の道を整備するだけでは当然足りず、縦横に数本が必要になる。
だがそれはなかなかにコストに見合いにくい整備であった。

それでも100年をかけて今日、畝畑を含む多くの集落に、なんとか車が通れる県道がたどり着いている。
多くの集落は今も過疎に苦しみ、既に無人化した土地も少なくないが、それでも県道はよく頑張ったと私は思う。
ただいかんせん、その代償として、この山域の県道たちは平均して道が狭い。あまり整備されていない。

いまや世界的観光地である“熊野古道”や那智山の周辺道路でありながら、観光バスは通れないような道が大半である。
それゆえ事情を知らない遠方のドライバーは、南紀の山間部はどこも道が狭すぎると驚くと思う。
和歌山県道43号、44号、45号、229号は、どれも“険道”が苦にならないドライバー以外には全く優しくない道である。
ぶっちゃけこの山域の県道たちは、いまなお少数の地元ユーザーへのサービスを念頭に存在していると思える整備レベルである。
訪問を考えている方には、そのことを伝えておきたい。


以上、現地探索はとても短かったのに、ずいぶん頭でっかちな机上調査になりました。
でもこれでこの県道の残りの区間をレポートするときには、だいぶ楽になる。
またこの長すぎる泡沫県道で会おう!






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