令和2(2020)年5月に私は長野県筑北村の花川原峠に「石マンボウ」というものを見にいった。
もちろん石の翻車魚(マンボウ)ではない。
「マンボウ」は、「まんぶ」が訛ったものらしく、間歩(まぶ)のことである。
間歩というのは、日本古来の鉱山用語で坑道などの横穴を指す。すなわち、「石マンボウ」は石のトンネルといった意味合いの古いことばだ。
(へぐりのまんぼなんてものを覚えている読者もいるかもしれない)
このトンネルについては地元のガイドパンフレットにも【小さく記載がある】
くらいだから(「昔々の道のあと 岩をくりぬいたトンネルです」と書いてあった)知られていない存在ではない。たしか私も、このときに村役場かどこかで偶然手にとった上記のパンフで存在を知り、急遽で探索したのだったと思う。
「石マンボウ」があるのは花川原峠だが、一旦その名前は忘れて貰って、左の図を見て欲しい。
近世の信濃の国を南北に貫いた善光寺街道という道があった。
それは現在の松本市と長野市を結ぶ最短ルートで、善光寺詣りの旅人が多く通ったことからこの名があるが、北国脇往還や北国西街道などとも呼ばれた。
この街道の松本平(松本盆地)と善光寺平(長野盆地)の間は筑摩山地の山越えで、途中に麻績の小盆地を挟みつつ、前後に刈谷原峠、立峠、猿ヶ馬場峠などの難所があった。
そして今回の探索の舞台となる花川原峠は、立峠(たちとうげ)の新道として明治期に誕生した道であったらしい。
長野県教育委員会が昭和56(1981)年にまとめた『歴史の道調査報告書6 (善光寺道(北国脇往還))』には、「(花川原峠)は明治になって改修された道で、立峠に比べると距離は長いが緩やかである」との解説がある。
花川原峠が立峠に対する勾配緩和を目的にした、いわゆる“明治新道”(明治期に登場した車馬の交通を念頭に置いた勾配の緩い新道)であることが述べられているのである。
明治新道好きの私は、以前にこの記述を読んだとき少し興味を持ったが、花川原峠には普通に現在も車道が通じているし、「石マンボウ」なるトンネルへの言及もなかったことから、訪れたことはなかったのだ。
右図は当地の最古の5万分の1図である明治43(1910)年版地形図だ。
画像の一番上に篠ノ井線の「西条(にしじょう)駅」があり、そこからほぼ真南に県道を意味する太い二重線の道が「乱橋」から「立峠」の山を越えて「会田」方面に通じている。これが当時の善光寺街道で、この地図では「西街道」という注記がなされている。
チェンジ後の画像は同じ範囲の地理院地図との比較である。
西条から乱橋を経て会田に至る道自体は描かれているが、県道としては存続していないことが分かる。
次も同じ新旧2枚の地形図の比較だが、峠の周辺に絞って見てみよう。
明治43年の地形図で「立峠」の注記がある峠には、現在の地理院地図だと「花川原峠」の注記がある。
だが、おそらく名前が変わったわけではなく、明治の地形図の誤りである。ここは地理院地図の表記が正しく、西側にある直線的な峠道が近世以前の善光寺街道の「立峠」だった。
もっとも、明治期に立峠の新道として花川原峠が登場した当初は、立峠という名を受け継いでいた可能性もあるが。
なお、明治の地形図にも、最新の地理院地図にも、花川原峠にトンネルは描かれていない。もし書かれていたら、もっと早くに探しに行ったことだろう。
パンフレットの僅かな情報と新旧地形図をもとに現地への飛び入りで行った探索は、結果的に一度で完遂出来ず、二段構えのものとなった。
まずは一度目の探索の模様を “遭遇編” と題して簡単に紹介しよう。
観光ガイドに掲載されるような一見イージーそうな探索が、なぜ一度で完結できなかったのか。 その答えは……。
……見て貰いましょう。
いろいろ端折って、いきなり峠のトンネルへ逢いに行く
2020/5/10 13:09 《現在地》/《周辺図(マピオン)》
ここが筑北村の南端に位置する乱橋(みだれはし)集落だ。
善光寺街道時代には「間の宿(あいのしゅく)」といって正式な宿場と宿場の間に設けられた準宿場的な集落で、現在でも本町、中町、上町が旧街道沿いに連なる典型的な街村である。そしてその連なりの先に難所・立峠の登り口があった。集落全体も登り坂にある。
写真右奥に見える明瞭な鞍部が古来の立峠(海抜1000m)の在処だ。麓のここから旧街道ベースで約2km、250mのアップである。
私が目指そうとしている花川原峠は直接見えない位置だが、目の前の大きな山を左に巻いてその裏側を越えるイメージとなる。標高はほぼ同じだが、車道ベースで2.5kmほど先だから、確かに少しは勾配が緩くなっているのだろう。
現在の車道である林道花川原線は花川原峠を越えて隣の松本市会田(かつての会田宿)へ通じている。
今回は急遽の「石マンボウ」探しであるから、時間節約のため、このまま車を運転して峠を目指すことにした。
13:13 《現在地》
宿場の街並みを抜け、1車線の鋪装された林道をしばらく進むと、この立派な案内板が設置されている分岐に着く。
ここが立峠と花川原峠の分岐であるが、このまま車で花川原峠を目指す。
ちなみに案内板の文章は次の通りである。あと、案内板に「石マンボウ」のことは書かれていなかった。
善光寺街道 〜芭蕉の小道〜
善光寺街道は中山道・洗馬宿から、松本・会田を経て、立峠から筑北村を通り、青柳・麻績宿から猿ヶ馬場峠を越え、善光寺に至ります。その道のりは19里半(約76km)あり、俳人・松尾芭蕉も木曽から善光寺に抜けるとき「……立峠などは四十八曲がりとかや、つづらおり重なりて……」と『更科紀行』に記しています。中でも、「けわしき峠なり」と言われた立峠は将軍の代替わりごとに道普請に追われました。そのため、村人たちの知恵で幅1.8m、全長200mの石畳が敷かれました。この「芭蕉の小道」は、かつて多くの人々が善光寺詣でに通った往時をしのばせます。
現地解説板より
13:25 《現在地》
さらに進み、林道沿いの2つ目の溜池を過ぎたところ、峠まで残り700mの地点で、運転席から気になる分岐を見つけた。
“探していた分岐”といった方が正しいか。
改めて、明治の地形図と現在の地理院地図を見較べて欲しいが、花川原峠の位置こそ変わってないものの、前後の道の形はだいぶ違っている。
目指す「石マンボウ」の在処とされるのは峠の頂上であるが、そこへ至る経路が今と昔では違っている可能性が高い。
明治期の道は、今の林道より少し西寄りの経路で峠へ上っていたように見えるのである。
しかも、今回の探索のきっかけとなった、ほんの30分前に手にしたばかりのパンフレットでも、「石マンボウ」を潜る点線の道は、今の車道より西寄りに別にあるように描かれていた。それがどこへ通じているかははっきり書いていないが、やはり明治期の旧道が別にあった可能性は高いだろう。
そんなことを頭に置いたまま車を走らせていた私の目に飛び込んで来た“それっぽい分岐”が、この場所だった。
峠の頂上へ車で乗り付けることに少なからず罪悪感を持っていた私(これは本来は感じる必要がないものだが、普段の探索スタイルとの乖離で自然と…)には、渡りに舟のように思えたので、確証のないままに、ただなんとなくの期待感から、この分岐から歩いて峠の石マンボウを目指すことにしたのだった。
……これが生死を分ける選択だった……
なんてことはもちろんなくて、仮に間違っていても大事になるような距離ではない。
13:32 歩行開始。
地理院地図には描かれていない脇道へ入ったが、道形はしっかり着いていて分かりやすい。右手に沢を見ながら結構な勾配で登っている。
この雰囲気は、お目当ての明治新道っぽくもあるし、同時に林業用のブル道っぽくもあった。
これで石垣とか出てくればグッと前者に寄ってくると思うのだが、地形もそんなに険しくないから、今のところ年代の特定に繋がるような構造物は見当らない。
150mほど進むと右へカーブして沢を回り込んだ。
今度は同じ沢の対岸を逆向きに上っていく。
みるみる高度感が出て来た。実際ここはもう峠の頂上からそう離れていない。
路面は良く締まっていて、新しい車の轍はないが、やはりブル道っぽい雰囲気は拭えない。
前方、再び切り返して登っていく道の先が見えてきた。
九十九折りで登るようだ。
切り返したところで撮影した。
左に見える路面がこれから上っていく道だが、その上のちょうど尾根になっている所に、にょっきりと岩の出っ張りが露出しているのを見た。
岩というキーワードに、「石マンボウ」のイメージが重なりドキッとする。
歩き出してからここまでは道も景色も明るくなだらかで、あまりトンネルのありそうな地形には見えなかったし、そもそも現在の峠の頂上にはトンネルがなさそうなのに、どのような形で「石マンボウ」が存在しているのか不思議であったが、この突兀とした岩の雰囲気には“それっぽさ”があって、少なからず期待感を煽った。
13:39 《現在地》
おおおっ!
この先さらに2回切り返しているのが見通せた。見事な九十九折りだ!!
この光景に、一気にテンションが上がった。
これはいかにも明治新道の線形ではないか。
こんな私好みの道の先にトンネルまであるというのは、大変なお宝かも。
それをこれほど労せずゲットできるとは(まだゲットはしていないが)、普段の探索に比べてあまりにも恵まれた展開に頬が緩んだ。
「石マンボウ」がどんなトンネルなのか、とても楽しみ!
おおおおッ!!!
かっけえ石造りの切り返しだ!
先ほどから見えていた切り返しだが、近寄って見ると、そこはガチガチの石垣で段差が形作られていた。
そして道幅が広い。堂々たる明治新道の風格がある。
人や馬の引く荷車がこの広いところで大きく回って次の段へ切り返していった、そんな風景が連想される。
やはりただのブル道ではなかった!!
しかも、こんなしっかりした道形が残る旧道なのに、最新の地図では影も形もなくなっているというのがまたいじましいではないか!
こいつは、オブローダーの喜ぶところを的確にくすぐってきやがるぜ。
切り返して登っていく石垣の道をその下段から見上げると、道のすぐ上には櫛の歯の如く立ち並ぶ岩の稜線があった。
ここは地形図の上では全くのんびりとした尾根のようだが、実際はゴツゴツとした竜の背骨のような岩尾根であり、旧道はその傍らを九十九折りで勇ましくよじ登っていた。
最終的に、峠の附近でこの岩尾根を乗り越える局面に、目指す「石マンボウ」が待ち受けているのではないか。
そして、GPSが示す「現在地」は、その目指す穴がもうすぐなければならないところまで来ていた。
次の段の道の行く先を目で追うと、櫛比する岩尾根に追いつこうと、長い石垣を路肩に引き連れたまま相当の勾配で登っていた。
……遭遇の予感がした。
路傍にそそり立つ岩尾根の表面の一部は滑らかだが、別の一部はこの写真のような奇妙な模様と凹凸を帯びていた。
溶岩流なのだろうか。
この地域の地質についてなんら情報を持っていないが、青い森の中の尾根に岩の塔が点々とそそり立つ様には独特のものがあった。
路肩の石垣より見下ろす、歩き終えた3段の道。
なぜか明治の地形図にこの九十九折りは全く反映されておらず、直線的な道として描かれていたが、いかにも勾配緩和を肝とする“明治新道”らしい、こんな線形を隠していた。
現在使われている林道は、越える峠の位置こそ共通であっても、整備された時代は大きく違っているのだろう。
そしてこの直後、“予感”の場所に到達――
!!!
これが、花川原峠の名所 “石マンボウ”!
地潜る隧道(トンネル)というよりは、まさに峠を閾(しきい)する石門のような独特の佇まいに、興奮は最高潮に!
石マンボウの内部に残された、“遠き語り部”
2020/5/10 13:42
「石マンボウ」現る!
問答無用なレベルで奇抜な“隧道”だ。
まずシンプルに短い。
そして土被りが極端に浅い。
この2つの個性が合わさって、トンネルというよりゲートのような印象を与える姿となっている。
歴代の地形図に描かれなかった理由はもう明らかだ。短すぎるのである。
潜る前に来た道を振り返り。
車を降りたところから20分足らず、距離にして700mに満たない短い歩行だったが、それまでの車で登ってきた林道とは全く異なる時代の道であった。
もしこの旧道が林道として再整備されていたら、「石マンボウ」も残らなかったと思う。
改めて石門の全体像を観察していたときに、その一部がコミカルな水生恐竜のシルエットに見え始め、そのようにしか見えなくなってしまった。
それはさておき、この石門は岩の尾根を貫いているが、向かってすぐ左手に、その尾根が路面より低く窪んでいる所があるように見える。
そのため、敢えて石門を貫かずとも、もう少しだけ左に迂回すれば楽に通り抜けが出来るのではないかと思える。
だがこれは元来の地形ではない。
私が辿ってきた地図に描かれていない旧道と、その頂上に待ち受けていた石門「石マンボウ」の位置を示す。
石門は、市村境である峠の頂上からは僅かに東側の筑北村内に所在しており、すぐ南隣を現在の林道花川原線が通過してる。
石門の左側の窪んで見えるところの正体は、この林道の掘り割りである。
林道がいつからあるのかはまだ分からないが、石門が使われていた時代にはなかったはずである。
――奥行きの乏しい“内部”へ。
洞内でまず目を引いたのは、全洞の天井を真一文字に貫く顕著な亀裂の存在だ。
状況的に見て、“岩橋”と化している天井部の強度が不足して亀裂が生じたのではないかと思う。
当然、構造物的には良くないものだと思ったが、この隧道が古いものであれば古いものであるほど、このようなあからさまな故障を抱えながら長年遺存してきたことになるわけで、簡単に崩れるものならとっくに崩れ落ちているだろうという確率論的な考え方から逆説的に、実はこの状態でも良く安定しているのだと考えられる。
少なくとも、この日の洞内に落盤している様子はなく、むしろ涼しい稜線の風をそよそよと通じる様は悠久の平和を思わせるものがあった。
この石門、普通のトンネルのように“延長”を計測するのが難しいと感じる。
なにせ完全な素掘りであるから坑門が垂直ではなく、仮に天井の長さをトンネルの全長とするとしても、どこを計測するかで微妙に長さが変わってくる。その前提で一番短く測れば3mに満たないと思われるし、一方で頭上がハングした岩に覆われているという条件で洞床と見なされうる部分の長さを最大限に捉えれば10m程度はあろうと思われる。
それはそうと、天井の亀裂以上に気になるものを、この短い洞内で発見した。
この洞内には、素掘りのトンネルらしからぬ――
扁額のような壁画がある!!
通常のトンネルの扁額は坑門に掲げられているが、これは洞内の天井近くの側壁に掲げられていた。
そもそもこれは扁額と呼べるのだろうか。
トンネルの扁額であれば基本的にトンネルの名が刻まれているが、これはどうもそう単純ではない。
扁額内に多数の文字が刻まれているのが見えるが、特に目立つ大きな文字は漢字二文字で、おそらく「遊岩」(右書き)ではないかと思う。
だが、これが隧道の名称なのかといわれると答えに窮する。
それに、遊岩が何なのかも分からない。地名的なものなのか、そうではないのか。
また、この扁額には書道や日本画などの作品に用いられる落款印などの印が伝統的な書式に則って精密に刻まれている。
さすがに小さすぎてその内容を読み取ることは出来ないが、この折り目の正しさは、実用重視のトンネル扁額というよりは、独立した1つの作品のよう。
とはいえ、敢てこの洞内に掲げられていることには意味があるとも思う。
扁額内の左の方に、縦書き3行分の“何かの書き付け”があるのも気になるポイントだ。
この文字列部分、最後の行にはおそらく3文字「乱橋村」と書いてあるのである。
しかし、他の2行はカメラのズームを最大にしても、あまりに凹凸が薄くて読み取れない。
竣工年など、この石門の重大な記録が刻まれている可能性もあるので、非常に気になった。
この読み取れない2行の文字をどうしても確認したくて、壁を無理矢理よじ登れないかとか、LEDライトの強い光を照射して陰影を強調することで読み取れないかとか、いろいろと試してみたのだが、どうしても無理だった。
口惜しいが、実はこの洞内で発見された“文字ソース”はこれだけではないので、他のものの紹介に移る。
なんと、隣にも扁額のような彫刻があった。
今度は縦書きのようだが、同じくらいのサイズ感である。これを“扁額A”とする。
やはり何かの文字が刻まれているが、こちらも読み取る術がない。
もっと近いところに掲げてくれれば良かったが、地味にこの穴の天井は高く、おそらく4mくらいもある。近くには寄れないのである。
そしてこの2つ並んだ扁額の下辺りは、壁面を整えようとした痕跡であろう幾筋もの鑿(のみ)の痕が刻まれていた。
人力で掘削されたことを物語る、(おそらくは)明治の隧道らしい遺物だ。
ただ穴を通ずるだけでも大変な仕事だが、関係者は扁額によって何かの情報を残そうとしたのかもしれないと思うと、それが読み取れないことが本当に口惜しい。
石マンボウの過去を伝える貴重な語り部かもしれないのに微妙に遠いのである
彼らの声を聞く良い方法はないものだろうか。
短小な隧道内での期待外の発見はさらに続いた。
今度は扁額のずっと下の洞床に近い壁面にも“何かの刻印”を発見したのである。
しかしこちらも扁額以上の謎である。何を刻んでいるのか、皆目見当が付かなかった。
縦に細長い楕円形をベースとした何かの図形らしく、あり得るかどうかを別に見たまんまの印象を述べるなら、スーパー戦隊のヒーローのマスクのようだが…。あとは何かスカラベのような甲虫を描いたものに見えなくもない。
これを石門の由来と無理矢理結びつけるなら、例えば功労者の家紋などと考えたいが、ぶっちゃけ縦に細長い円形というのは家紋ぽくはない。
“おかめ”でもないよね?
……謎である。
さらにさらに、謎の紋様の横の壁面には墨か炭で書き付けたような黒い文字が大量に残されていた。
この洞内で最も手近なところにある文字の情報だったが、この雰囲気には見覚えがあった。
おそらくこれは、昔の旅人たちが残した記念の書き付けである。
現代の感覚からすると非常識と思われるだろうが、木炭が筆記用具として普通に利用されるくらいの昔は、徒歩の旅行者が旅先の印象的な場所に記念の書き付けを残すことは珍しくなく、ある種の旅の風俗だったようだ。これはずいぶんと前だが、足尾から日光中禅寺湖へ越える戦前のメジャーな修学旅行コースである半月峠を歩いたときは、沿線の目立つ岩のそこかしこにこういう文字が書き込まれているのを見た。
しかし、もともと長く残すつもりで書き込まれてはいない、おそらく50年以上は古いものだろう炭文字を解読するのは困難だ。
そもそも岩の壁という保存には向かない場所に書かれており、たまたま天井のおかげで風雨を免れて僅かに残った痕跡に過ぎない。
頑張って解読を試みたが、文字単位ではなく文章として理解できたのは、チェンジ後の画像に示した「香川縣下」の文字くらいだった。
とはいえ、四国の香川県の人が信州の山中にまでやって来ているのは注目に値する。
当時この道が遠方の旅人も通るような主要な道であったか、あるいはわざわざ汽車を降りて立ち寄るような名所だったか、そのどちらかの可能性が高くなる痕跡だろう。
そしてこのような書き付けの痕跡は、2m四方くらいの範囲に大量に残っていた。(もとはさらに広い範囲に刻まれていたが、壁の剥落により失われた可能性が高いと感じた)
13:48 《現在地》
思いのほかいろいろなものが発見された洞内を東口より振り返る。
なぜか全ての発見は右側の壁に集中していたが、壁面の様子は左右で特に違いはない。
たまたまなのか、それとも何か意味があるのか。
「石マンボウ」西口全景。
反対側よりは幾分普通のトンネルっぽい外観だが、それでも極端な土被りの浅さは隠せていない。
ここまで浅ければ切り通しにしても良さそうだが、そうならなかったおかげで、この印象的な石マンボウという景色が生まれた。
今日では人通り稀な過去の遺物となっているが、内壁にこれ見よがしに刻まれている謎の扁額や、旅人の足跡らしき無数の書き付けといった存在をふまえれば、ただの通路ではない善光寺街道の名所として愛された景観だったのではないかという印象を持つ。
それくらい美しいと感じたし、ここを敢て切り通しではなく印象的な石門としたのも、伊達や酔狂ではないとしても、修景的意図を持ってのことだったかもしれないと思った。
(すんげぇふわっとしたイメージだけど、昔の善光寺街道の利用者は、こういう風景が好きそうだし)
石門を潜ると、目と鼻の先に見慣れた舗装路が待っていた。
800mぶりに再会した林道花川原線であり、一連の明治新道の痕跡もここまでだ。
この合流地点の50mほど西側の路上が、本来の花川原峠の頂上である。
うっかり写真は撮り忘れたが、この入口の林道側に白い標柱が立っており、「石まんぼう」「平成二十六年十一月建設」「筑北村教育委員会」と書いてある。
林道側から見るとこんな入口で、夏場は緑に覆われて石マンボウが見通せないが、春先ならばチェンジ後の画像のように見えた。
現在の石マンボウは、決して隠されている存在ではないが、そもそもこの花川原峠を訪れること自体がよその人には珍しいことで、かつ、姿を見ただけでは正体までは計り知れない神秘のヴェールを纏っていた。
道の未知を愛するオブローダー的にも、とても魅力を感じる存在だ。
これで石マンボウとの遭遇は果たしたが、最後にちょっとだけイタズラ心が発露した。
普段はあまり人が行かなそうな場所から、この変わった隧道を眺めてみたくなった。
まずは、西口を林道の反対側から見た景色だ。
巨漢の力こぶのようなもりもりたる岩尾根が奥へ行くほど高くなっている。
この尾根は林道の切り通しで一度切られはするが、その先もぐんぐん標高を上げて1km先の虚空蔵山の頂に至るものである。
これから岩尾根に取付いて、石マンボウの直上を乗り越えてみようと思う。
ご覧の通り、尾根の西側(右側)よりも東側(左側)が圧倒的に鋭く切り立っている。
先ほど旧道の九十九折りから【見上げた】
石塔の如き険しさが、まさにここにある。
西側からだと簡単に越えられそうに見える尾根だが、反対側はそうではなく、ここに車道を通すためには隧道なり切り通しなり、大掛かりな工事が必要だったことが納得出来た。
蟻の戸渡りのような危うい稜線をジリジリと移動して辿り着いた、ここが石マンボウの真上である!
特に道らしい痕跡や、石仏などの遺物は見当らないただの岩場であるが、危険な岩場である。
洞内天井にある巨大な亀裂は、案の定地表にまで到達しており、その隙間は土や枯葉で埋れていて分かりづらいが、強度的にはやはり危うい状況にありそう。
いくらなんでも私が歩いた衝撃で崩れることはないだろうと渡ったが、滑落する危険もあるのでオススメはしない。
石マンボウの直上より振り返る、今通った岩尾根の様子である。
右手の谷には先ほど登ってきた九十九折りの旧道がコンパクトに収納されている。
石マンボウを目指して登る道の頑張りがよく分かる眺めだ。
そして最後は――
林道の切り通しにぶち当たって、終わり!!
林道の方がよほど深く尾根を切っているが、トンネルにはなっていない。いかにも現代の道っぽい。
このあと私は花川原峠を後にした。
ある野望を、胸に抱きながら……
解読編へ