
花川原峠の頂上に残る石門の如き隧道“石マンボウ”の探索を終えて遠征から帰宅した私は、すぐに再訪を計画した。
再訪すべき目的が、私に中にはっきりとあった。
だが、再訪の日が来るまでにやりたいこともあった。
それは、花川原峠や石マンボウに関する机上調査である。
今回の石マンボウとの遭遇は、旅先で偶然手にしたパンフレットをきっかけとした飛び込みであったため、普段にも増して情報を持たない探索であった。
再訪を行うのであれば、今度は万全な情報体制で臨み、獲得できる成果は全て獲得したいと思った。
……というわけで、初訪と再訪の間に行った文献調査の成果を紹介したい。
このときの主な調査対象は、国会図書館デジタルコレクションで読める文献であった。
これを書いている2025年現在では館内限定閲覧の資料以外は全て自宅で読めるが、当時は提携する図書館内のPCでしか読めない資料(送信サービス資料)も多く、そのため自宅最寄りの秋田県立図書館へ通っての調査となった。
最初は、印象的な「石マンボウ」というキーワードで国会図書館デジタルコレクションを全文検索したが、全くヒットがなかった。
これから紹介するのは全て「花川原峠」をキーワードに見つけた資料である。
発行時期が古いものから順に紹介しよう。
◆文献1◆ 『信濃教育 通巻977号』 「信濃の峠路(二二)花川原峠」 (発行:昭和43(1968)年)
長野県内の教職員向け雑誌『信濃教育』昭和43年4月号に掲載された連載「信濃の峠路」が花川原峠の回である。
これは昭和40年頃の峠道を実際に歩いた記録としてたいへん貴重な資料である。
この筆者は、南口の会田集落から峠を越えて乱橋集落へと下っている。

(会田を出て)立峠への別れ道を左に見つつ、少し登ったところで、山仕事をしている老人を見かけたので、日だまりの枯芝の上に腰をおろして、一息入れながら、話しかけると、若いころのことを語ってくれる。
「ここから三十分も登ると、石の洞門があるが、そこが花川原峠の頂上だがね。むかしの立峠よりずっとあとでできたので、村の人はみんな新道と呼んでやす。わしらの子どものときは、西条まで汽車が来てたが、白坂トンネルが難工事で、松本の方から工事に使う材料や食料、それから大勢の土方衆が、続々とこの道を越えていったのを覚えていやす。たしか鉄道が通じたのは明治三十五年だったかなあ……。」

老人の話の通り、この道は立峠の東を大きく回って乱橋へくだっていくので、傾斜もゆるやかだし、道幅も広い。(中略)落葉にうめつくされた坂道をのぼっていくと、道は右に大きくカーブして、行く手に洞門がぽっかりと口をあけている。ここが峠のいただきである。
苔むした岩をよじて、その頂上に立つと、西条から坂北・麻績に続く帯状盆地が眼下に展開し、聖山の連峰が指呼の間に望まれる。白坂トンネルを出た下り列車が、のろのろと西条駅にすべり込むのも見える。(中略)道はここからだらだらと乱橋にくだっていくのだ。里近い雑木林の間に見えがくれする、秋の山々のながめをたのしみつつ、夕陽の道を歩いた。
……このように、ひとむかし以上前の峠の様子が、よく描写されている。
現在との大きな大きな違いとしては、当時は車で越えられる道(林道花川原線)が開通しておらず、会田集落から乱橋集落までずっと旧道を歩いている。
そしてその頂上に、会田の古老が「石の洞門」と表現した石門が口を開けていた。
一緒に掲載されている写真を見ても、石門の姿は今と変わらない感じだ。
古老の証言もたいへん興味深い内容である。
花川原峠を、会田の人たちは(立峠に対する)「新道」と呼んでいたそうである。
また、篠ノ井線の白坂トンネルの工事用資材や作業員が大勢峠を越えたという話は、前回の「遭遇編」探索前から読んでいた『歴史の道調査報告書6 (善光寺道(北国脇往還))』(昭和56年、長野県教育委員会発行)にも近い話が出ているので、ついでに紹介しよう。
ここから真直に登れば花川原峠を越えて車で乱橋へ行くことができる。この峠は明治になって改修された道で、立峠に比べると距離は長いが緩やかである。明治33年篠ノ井線は西条まで開通したが、白坂トンネルが難工事で進まず、2年間は西条から、松本方面から、物資が沢山この峠を越えて運ばれた。
明治35年の白坂トンネルの開通によって、初めて長野と松本の間が鉄道で結ばれた。
その直前の明治33年から35年の期間は西条駅が長野側の終点であったから、そこから松本までの約20kmを最短ルートで結ぶ善光寺街道(或いはその新道)の利用者は特に多かっただろう。花川原峠が最も活躍した時期だったかもしれない。
◆文献2◆ 『信濃・山みち里みち塩の道』 (発行:昭和54(1979)年)
次に紹介するのは、昭和54年10月に山と溪谷社が発行した『信濃・山みち里みち塩の道』という「みち」をテーマにしたイラスト付エッセイ集だ。
昭和50年代の花川原峠の描写がある。

会田からの善光寺街道はこの峠の頂上から本城村へと下りになります。なんでも以前はこの峠のやや左側にある立峠へ登り、そこから下ったらしいのですが今ではここへ登ります。スケッチでごらんの通り岩や土でできている小さな山をくりぬきトンネル状になっているところが峠の終点です。この岩の壁のところに何やら昔の人が筆で書いた落書きが見えます。
今度もやはり峠の頂上の“トンネル”への言及がある。
それだけ訪れた人にもれなく印象を残す存在だったのだろう。
また、「岩の壁のところに何やら昔の人が筆で書いた落書き」があることも書いている。
おそらく今よりも明瞭に文字が見えていたのではないかと思う。
当然、私が目にした“扁額”もあったはずだが、そのことは書かれていない。
◆文献3◆ 『街道紀行 振り返れば道がある』 (発行:昭和56(1981)年)
昭和56年に刊々堂出版社が発行した『街道紀行 振り返れば道がある』という街道をテーマにした紀行にも花川原峠を訪れた記録がある。やはり今度も会田から峠へ登る。
角の小物を商う店のおばさんに道を聞いて花川原峠への道をたどった。
(中略)道沿いに細く耕されている田圃が消えるころ、立峠入口の一里塚があった。立峠は花川原峠の道が開かれる以前に歩かれていた昔の道だが、いまはほとんど廃道に近いという話だ。(中略)
花川原峠は明治の中期頃に開通した道と聞いた。車がやっと通れる程度の道で、ところどころ崩れたところなどがある。峠を下ると乱橋の宿だ。正岡子規も訪れて、『かけはしの記』などを著わしている。
今度は石門に関する記述も写真もないが、花川原峠は「明治の中期頃に開通した道と聞いた」とあるのが新情報。
これまで紹介した他の文献と同様、具体的な開通年への言及がないのは残念だが、篠ノ井線との関連を考えれば、明治30年代以前に開通しているのは確実。
花川原峠の旧道や、そこにある石門が明治中期の生まれであることは、ほぼほぼ間違いがなさそうである。
が
が、である。

これではやはり満足できない!!
隧道でも、石門でも、石マンボウでも、どう呼んでもらってもいいが、いろいろな文献に言及があるのに、はっきりとした竣工年の記録がないのは勿体ないし、惜しい。
しかも、洞内に意味深に掲げられた扁額という、明確に由来の手掛りになりそうなものがあるのに、そのことへ言及した文献が見当らない。
もちろん解読したという記録もだ。
惜しい。
惜しい。
惜しい。
だから、
読みたい!
……といった具合で、
この初訪と再訪の間の机上調査でいくつかの新情報は得たものの、
同時に扁額が未だ解読されていない可能性を知ることとなり、
“読みたさ”を極限にまで高めることになった。
2020年6月23日 午前3時58分
花川原峠 “石マンボウ”

究極扁額読みたいマン出現!
こいつは、命をかけて読むつもりだぜぇ!!