隧道レポート 花川原峠の石マンボウ 再訪編

所在地 長野県筑北村〜松本市
探索日 2020.06.23
公開日 2025.07.16

花川原峠の頂上に残る石門の如き隧道“石マンボウ”の探索を終えて遠征から帰宅した私は、すぐに再訪を計画した。
再訪すべき目的が、私に中にはっきりとあった。

だが、再訪の日が来るまでにやりたいこともあった。
それは、花川原峠や石マンボウに関する机上調査である。
今回の石マンボウとの遭遇は、旅先で偶然手にしたパンフレットをきっかけとした飛び込みであったため、普段にも増して情報を持たない探索であった。
再訪を行うのであれば、今度は万全な情報体制で臨み、獲得できる成果は全て獲得したいと思った。

……というわけで、初訪と再訪の間に行った文献調査の成果を紹介したい。
このときの主な調査対象は、国会図書館デジタルコレクションで読める文献であった。
これを書いている2025年現在では館内限定閲覧の資料以外は全て自宅で読めるが、当時は提携する図書館内のPCでしか読めない資料(送信サービス資料)も多く、そのため自宅最寄りの秋田県立図書館へ通っての調査となった。




最初は、印象的な「石マンボウ」というキーワードで国会図書館デジタルコレクションを全文検索したが、全くヒットがなかった。
これから紹介するのは全て「花川原峠」をキーワードに見つけた資料である。
発行時期が古いものから順に紹介しよう。


◆文献1◆ 『信濃教育 通巻977号』 「信濃の峠路(二二)花川原峠」 (発行:昭和43(1968)年)

長野県内の教職員向け雑誌『信濃教育』昭和43年4月号に掲載された連載「信濃の峠路」が花川原峠の回である。
これは昭和40年頃の峠道を実際に歩いた記録としてたいへん貴重な資料である。
この筆者は、南口の会田集落から峠を越えて乱橋集落へと下っている。


(会田を出て)立峠への別れ道を左に見つつ、少し登ったところで、山仕事をしている老人を見かけたので、日だまりの枯芝の上に腰をおろして、一息入れながら、話しかけると、若いころのことを語ってくれる。

ここから三十分も登ると、石の洞門があるが、そこが花川原峠の頂上だがね。むかしの立峠よりずっとあとでできたので、村の人はみんな新道と呼んでやす。わしらの子どものときは、西条まで汽車が来てたが、白坂トンネルが難工事で、松本の方から工事に使う材料や食料、それから大勢の土方衆が、続々とこの道を越えていったのを覚えていやす。たしか鉄道が通じたのは明治三十五年だったかなあ……。

老人の話の通り、この道は立峠の東を大きく回って乱橋へくだっていくので、傾斜もゆるやかだし、道幅も広い。(中略)落葉にうめつくされた坂道をのぼっていくと、道は右に大きくカーブして、行く手に洞門がぽっかりと口をあけている。ここが峠のいただきである。

苔むした岩をよじて、その頂上に立つと、西条から坂北・麻績に続く帯状盆地が眼下に展開し、聖山の連峰が指呼の間に望まれる。白坂トンネルを出た下り列車が、のろのろと西条駅にすべり込むのも見える。(中略)道はここからだらだらと乱橋にくだっていくのだ。里近い雑木林の間に見えがくれする、秋の山々のながめをたのしみつつ、夕陽の道を歩いた。

本文・写真・図とも 『信濃教育 通巻977号』より

……このように、ひとむかし以上前の峠の様子が、よく描写されている。

現在との大きな大きな違いとしては、当時は車で越えられる道(林道花川原線)が開通しておらず、会田集落から乱橋集落までずっと旧道を歩いている。
そしてその頂上に、会田の古老が「石の洞門」と表現した石門が口を開けていた。
一緒に掲載されている写真を見ても、石門の姿は今と変わらない感じだ。

古老の証言もたいへん興味深い内容である。
花川原峠を、会田の人たちは(立峠に対する)「新道」と呼んでいたそうである。
また、篠ノ井線の白坂トンネルの工事用資材や作業員が大勢峠を越えたという話は、前回の「遭遇編」探索前から読んでいた『歴史の道調査報告書6 (善光寺道(北国脇往還))』(昭和56年、長野県教育委員会発行)にも近い話が出ているので、ついでに紹介しよう。


ここから真直に登れば花川原峠を越えて車で乱橋へ行くことができる。この峠は明治になって改修された道で、立峠に比べると距離は長いが緩やかである。明治33年篠ノ井線は西条まで開通したが、白坂トンネルが難工事で進まず、2年間は西条から、松本方面から、物資が沢山この峠を越えて運ばれた。

『歴史の道調査報告書6 (善光寺道(北国脇往還))』より

明治35年の白坂トンネルの開通によって、初めて長野と松本の間が鉄道で結ばれた。
その直前の明治33年から35年の期間は西条駅が長野側の終点であったから、そこから松本までの約20kmを最短ルートで結ぶ善光寺街道(或いはその新道)の利用者は特に多かっただろう。花川原峠が最も活躍した時期だったかもしれない。



◆文献2◆ 『信濃・山みち里みち塩の道』 (発行:昭和54(1979)年)

次に紹介するのは、昭和54年10月に山と溪谷社が発行した『信濃・山みち里みち塩の道』という「みち」をテーマにしたイラスト付エッセイ集だ。
昭和50年代の花川原峠の描写がある。


会田からの善光寺街道はこの峠の頂上から本城村へと下りになります。なんでも以前はこの峠のやや左側にある立峠へ登り、そこから下ったらしいのですが今ではここへ登ります。スケッチでごらんの通り岩や土でできている小さな山をくりぬきトンネル状になっているところが峠の終点です。この岩の壁のところに何やら昔の人が筆で書いた落書きが見えます。

本文・図とも 『信濃・山みち里みち塩の道』より

今度もやはり峠の頂上の“トンネル”への言及がある。
それだけ訪れた人にもれなく印象を残す存在だったのだろう。
また、「岩の壁のところに何やら昔の人が筆で書いた落書き」があることも書いている。
おそらく今よりも明瞭に文字が見えていたのではないかと思う。
当然、私が目にした“扁額”もあったはずだが、そのことは書かれていない。



◆文献3◆ 『街道紀行 振り返れば道がある』 (発行:昭和56(1981)年)

昭和56年に刊々堂出版社が発行した『街道紀行 振り返れば道がある』という街道をテーマにした紀行にも花川原峠を訪れた記録がある。やはり今度も会田から峠へ登る。


角の小物を商う店のおばさんに道を聞いて花川原峠への道をたどった。
(中略)道沿いに細く耕されている田圃が消えるころ、立峠入口の一里塚があった。立峠は花川原峠の道が開かれる以前に歩かれていた昔の道だが、いまはほとんど廃道に近いという話だ。(中略)
花川原峠は明治の中期頃に開通した道と聞いた。車がやっと通れる程度の道で、ところどころ崩れたところなどがある。峠を下ると乱橋の宿だ。正岡子規も訪れて、『かけはしの記』などを著わしている。

『街道紀行 振り返れば道がある』より

今度は石門に関する記述も写真もないが、花川原峠は「明治の中期頃に開通した道と聞いた」とあるのが新情報。
これまで紹介した他の文献と同様、具体的な開通年への言及がないのは残念だが、篠ノ井線との関連を考えれば、明治30年代以前に開通しているのは確実。
花川原峠の旧道や、そこにある石門が明治中期の生まれであることは、ほぼほぼ間違いがなさそうである。



が、である。


これではやはり満足できない!!

隧道でも、石門でも、石マンボウでも、どう呼んでもらってもいいが、いろいろな文献に言及があるのに、はっきりとした竣工年の記録がないのは勿体ないし、惜しい。

しかも、洞内に意味深に掲げられた扁額という、明確に由来の手掛りになりそうなものがあるのに、そのことへ言及した文献が見当らない。
もちろん解読したという記録もだ。

惜しい。

惜しい。

惜しい。

だから、

読みたい!




……といった具合で、

この初訪と再訪の間の机上調査でいくつかの新情報は得たものの、

同時に扁額が未だ解読されていない可能性を知ることとなり、

“読みたさ”を極限にまで高めることになった。






2020年6月23日 午前3時58分

花川原峠 “石マンボウ”



究極扁額読みたいマン出現!

こいつは、命をかけて読むつもりだぜぇ!!


 闇に乗じて情報を引き出そうとする試み


2020/6/23 3:58 《現在地》 

1ヶ月と2週間ぶりの石マンボウとの再開。

再訪の目的はズバリ、洞内に掲げられた扁額の解読だ。

そしてそのための秘密兵器を携えてきた。

脚立である。



この脚立は、秋田の自宅からエクストレイルに載せて持ってきた。
さすがに探索に脚立を持ってきたのは初めての経験だ。
探索の装備のほかにこれを背負って山道を歩くのは辛いだろうが、幸いにしてこの石マンボウは、ほとんど車で横付けができる現場である。

持参した脚立をさっそく扁額のある壁に立て掛けてみたところ、この脚立をセレクトした見立てはバッチリで、ちょうど良い高さのようだ。
私が登っている間、本当なら誰かに脚立の足を押えていて貰いたいところだが、そんな人はいないので、慎重に行動する必要がある。



ところで、なぜこんなに暗い時間に再訪しているのか、皆さん分かりますか?

もちろんこれも、今回の解読を成功させるための脚立と並ぶ秘策であった。



「光が多いところでは、影も強くなる」というのは、有名なドイツの詩人ゲーテの格言だが、この言葉は石碑を解読したいときにもまんま通用する。
これこそがヨッキれんに伝わる“オブローダー四十八手”の37番手『光と闇のdecipherer』――暗いところにある石碑に強力なライトを斜めから照射することで、刻まれている文字の凹凸を強調して解読しようとする技――である。

ここは一応トンネル内という環境だが、前回あまりにも外の光が眩しくて、全くこの技が通用しなかった。
それで闇に乗じることにしたのである。
決して人に隠れてワルサをするためではないぞ!

ちなみに、脚立を立てず洞床から光を当てただけでは、やはり遠過ぎて扁額の解読は難しかった。


4:00 アタック開始!



立て掛けた脚立に登ってみたが、扁額を顔の前に捉えるにはかなり上のステップに立つ必要があった。
だが、扁額がある辺りの壁面は天井へ向けて少しずつオーバーハングしているため、上体に壁が覆い被さってくる圧迫があった。
身体が壁に近いと解読の前提となる撮影が難しいから、上体を後ろに反らして少し距離をとる必要があった。
しかもこのとき、カメラを構えるのと反対の手ではLEDライトを持って斜めから光を当てることもしなければならない。

不慣れな脚立に立ちながら、この複合的な動作を行うのは、なかなかハードな仕事であったから、一度では上手くセッティングが出来なかった。何度か登り降りをして、脚立の位置や角度を微調整し、ようやく撮影を行える状況を作ったのである。
いよいよ、『光と闇のdecipherer』の成果をご覧いただく。




解読のためには、写真以上に動画を撮ることが有効だ。
動画の方が撮し損じを減らせるし、単純に情報量が多いから解読もしやすい。
ただ、動画の中で私が読み上げている内容は、その場の思考で言っていることだから、その後の検討で間違いに気付いた内容もある。

まず被写体としたのは、大きな字で「遊岩」と右書きに刻まれている、トンネルの扁額というよりは一つの書画作品に見える“扁額@”だ。
ここでは「遊岩」の文字の左側に見える3行の文章の解読が懸案であったが、その内容はズバリ――



【原寸サイズの画像はこちら】
















1行目、書き出しの「維旹」(旹は時の異字体)は、漢文表現で「これとき」と読み、年号を記す際の枕的な表現。「載」は訓読みだと「載(の)る」だが、「歳」と同じく「さい」の音があり、意味も「歳」と同じく「年」のこと。だから1行目は、「これとき明治18歳(年)」と読めるだろう。
2行目、「乙酉」は明治18(1885)年の干支で、「五月日」は5月のどこかという表現。
3行目は前回から読めていたが、「亂」は「乱」の旧字体で、現地に明治22(1889)年まで存在した旧村名「乱橋村」であろう。

この内容を現代風に表せば単に「明治18年5月 乱橋村」とあるわけで、なにをしたのかという動詞はない。
だが、刻まれている場所をふまえれば、この扁額もしくはこの石門を作った時期と建設者名であると考えるのが自然だろう。
しかし、扁額に大きく刻まれている“遊岩”という文字の関わりははっきりしない。
“遊岩”は石門の名称(トンネル名)を意図したものなのか、あるいは石門を讃えるためのものなのか、はたまた石門を作品発表の場としただけであまり関係がないのか。

この疑問の解決のためには、“遊岩”の文字の周りに見える“三つの印”の解読が有用と思われる

書き出しの文字を当初「維昔」と読んでいたが、より正しいと考えた「維旹」に修正。
2行目の冒頭は当初解読出来ていなかったが、「乙酉」に修正。



これは前回撮影した写真だが、“遊岩”の文字の周りに“三つの印”が刻まれている。
これらは書画の完成を示す伝統的な押印で、作者に係わる「引首印」「姓名印」「雅号印」の三つを決められた位置に捺すことが作法であるらしい。→解説
“遊岩”は、書画としての格式が揃っている。



【原寸サイズの画像はこちら】

これが引首印で、通常は作者の成語(座右の銘や好きなことわざ・吉語・詩句・熟語など)か、作者の屋号・店名などを刻む。
撮影はしたが、未解読である。篆書で2文字が刻まれているようだ。解読出来た方がいたら教えて欲しい。



【原寸サイズの画像はこちら】

この二つの印が姓名印と雅号印で、合せて落款印(あるいは落款)と総称される。
姓名印は作者の姓で、雅号印は作者の雅号(ない場合は名)を刻むものとされる。
どちらも未解読である。やはり篆書のようだが、文字数が分からないものを読むのは特に難しい気がする。解読出来た方がいたら教えて欲しい。




次は隣にある縦長の“扁額A”の解読だ。

こちらは下からだと1文字も読めなかったので、何が書いてあるのか大いに注目したが――



【原寸サイズの画像はこちら】
元紀













冒頭の「紀元2545年」とは、明治5(1872)年から終戦まで日本の正式な紀年法とされていた皇紀による紀年で、西暦に変換すると1885年……これは明治18年である!
そのまま全文を書き下すと、「紀元2545年5月日之(これ)を開く」となり、「これ」とはこの石門に違いないから、この扁額こそはシンプルに、花川原峠の石門は明治18(1885)年の開通であることを伝えるもので、私が一番欲していた情報だった!
おめでとう、俺!!! やったぜ!!!!


嬉しさついでに手前味噌の自慢話になってしまうが、これを執筆している時点では、この石門が明治18年の開通であると言明している資料や文献、ウェブサイトは未発見である。
もちろん、私が見つけていないだけでどこかにはあるだろうが、それでもこの石門の存在を紹介する記録の多さに比べれば圧倒的に、このあからさまに存在しているが妙に読みづらい扁額が教える明治18年開通という情報は知られていないし、語られていないと感じる。
少なくとも、私は間違いなく自分の解読によってこの情報を知ったのであって、それがとても嬉しかった。



この写真は、扁額@と扁額Aの間の内壁にある、謎の文字痕跡だ。
筆と墨で何かを書き始めたが途中で止め、あるいは失敗に気付いて塗りつぶした痕のようにも見える。
目的も経緯も由来も不明である。

再訪の目的だった2枚の扁額の撮影&解読は概ね成功し、最も欲した石門の竣工時期(明治18年5月)と建設当事者(乱橋村)を得ることが出来た。
花川原峠の石門は、あの清水国道と同じ、明治18(1885)年の開通だった。
またひとつ素敵な明治隧道の存在を確定させることが出来たのだ。
私が見つけたわけではない既知な隧道だったが、これはよい成果である。

本当にこれのためだけに再訪していたので、撮影が終わった後は速やかにまだ暗い山をおりた。






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