
再訪により、花川原峠頂上の石門“石マンボウ”の内壁に刻まれた扁額の解読に成功。
明治18(1885)年という開通年や、乱橋村が関係した工事であったことが判明した。
前回の机上調査でも花川原峠は明治中頃の開通という情報はあったが、具体的な竣工年の言明はなかったので、これは大きな成果であった。
とはいえ、まだ石門や花川原峠の来歴についての情報は足りていない。
石門にしても竣工年が分かったとはいえ、誰がどのような目的で建設したかとか、扁額の“遊岩”という文字との関係性など、知りたいことが沢山ある。
これらの謎の答えを求め、再訪前よりも調査の範囲を広げた文献調査を行った。
この中には、本レポートの執筆と並行しながら調べたことや、読者が見つけて教えて下さった文献もあった。
現時点における最新の調査結果となるものを、ここで報告したい。
果たしてどこまで、“石マンボウ”の深層に迫ることが出来るのか、見届けてほしい。
第1章 善光寺街道の明治時代の過ごし方
時間に限りがあった再訪前の文献調査は国会図書館デジタルコレクションを対象に限定したが、再訪後の調査ではまだデジタル化されていない文献に対象を広げ、図書館へ読みに行く手間を取った。
具体的なターゲットとしては、石門の所在地であり扁額にも名前があった「乱橋村」の後継で、明治22(1889)年から平成17(2005)年まで存在した東筑摩郡本城村(現筑北村)の村史『本城村誌 歴史編』および同『写真集』(いずれも平成14年刊)と、花川原峠で本城村と接していた同郡四賀村(昭和30年〜平成17年、現松本市)の『四賀村誌』(昭和53年刊)を選んだ。
いずれも期待した文献であったが、結論から先に述べると、残念ながら、どちらの書にも花川原峠に石門なり隧道なりがあるという言及はなく、明治18年にこの峠で何らかの工事が行われたことを示す記述もなかった。

とはいえ、花川原峠と直接の関係を有する立峠や善光寺街道に関する記述はあり、特に『四賀村誌』は交通史全般の情報量が多かった。
花川原峠が善光寺街道の難所だった立峠の新道として明治中期に整備された道であるという情報は前回の文献調査で判明していたから、善光寺街道に関する記述から花川原峠の状況を推測できる部分もあった。
なお右の図は、四賀村や本城村と(明治初頭の)善光寺街道の位置関係を示している。これから登場する峠名などの地名を出来るだけ入れ込んでいるので、地名が分からなくなったら見に戻ってきてほしい。
この図の通り、両村の中央を善光寺街道が貫通しており、それぞれの主要市街地はかつての宿場集落であったから、この道の盛衰と村の歴史の関わりはとても深いものがあった。そのことを念頭に、まずは『四賀村誌』から、明治以降の村内交通事情の変化についての記述を紹介したい。善光寺街道に関する記述は近世以前の内容が最も多いが、そこには花川原峠は登場しないので、今回の調査は明治以降に限定する。
明治維新直後(中略)交通は自由になり、北国西街道(善光寺街道)や東京往還の人馬の往来は益々盛になったが、いづれも峠道があり険しく道幅のせまかったから車の通行はできなかった。明治23年二線路(現在の国道143号線)が開通すると、が然車馬の交通がはげしくなった。これは当時中央線も通じていなかったから東京方面との旅客や物資の運搬は上田方面(明治21年信越線開通)から四賀村を経由するものが多かったためである。
明治33年篠ノ井線が西条駅まで開通すると、本村の交通事情は全く一変した。すなわち上田方面への交通量は急に減り、立峠経由の西条方面との交通が頻繁になり、それも僅か2年後の35年には明科駅・松本駅にも篠ノ井線が延長されて、四賀村は鉄道から見放されて急激に交通から取り残された。
そのまま明治も過ぎ大正時代に入ると、次第に自動車交通の時代になり、昭和初期から道路整備が叫ばれるようになったが、遅々として進まなかった。本村にとっては暗黒時代というべき年代であった。長い戦争も終わり自動車交通時代をむかえると、本村は南北信を連絡する重要な位置に位いし、道路も着々と整備されて、国道1線、県道3線が本村内を走り、交通量も年々増加して今日に至った。
明治期の善光寺街道の盛衰は、鉄道の延伸に大きな影響を受けており、特に直接の並行路線であった篠ノ井線の延伸は決定的な影響を与えた。
会田や刈谷原など宿場に由来していた村内の主要な集落も街道と浮沈を共にしたが、単純に鉄道の延伸に伴って交通量が減り続けたわけではなく、明治33年に篠ノ井線が西条まで開通し、同駅から松本までは未開通であった2年間には、西条駅と松本駅を最短距離で結ぶ「立峠」を含む善光寺街道の交通量が激増するという出来事があった。
なお、ここでは「立峠」とされているが、実際には花川原峠を含めた記述であろうと思う。
この文献だけでなく、立峠という言葉の中に、その新道である花川原峠の道が含まれると読めるものが多い。
ここでも私はそのように解釈している。
『四賀村誌』の運輸の節には、この明治33年の出来事について次のような記述もあった。
明治33年鉄道が西条まで開通すると、西条駅前に中牛馬会社の代理店が開業し、物資の輸送は西条松本間が盛んになり、二線路(上田街道、現在の国道143号地蔵峠青木峠)経由から北国西街道(善光寺街道)へと移行した。この頃の「信濃日報」(松本発行の新聞)によると、「東筑中の山間部たりし会田駅は篠ノ井線一部開通に付き立峠の新道に改修を加へ通行頗る容易となれり、これがため目下往来頻繁にして車馬織るが如し」とある。
ちょっとキタァ!

明治33年頃の地元新聞の記事に、「会田駅は(中略)立峠の新道に改修を加え通行すこぶる容易」となったとの内容があったのである。
残念ながら記事の詳細は不明だが、会田宿の関係者が立峠の新道を改修したことを連想させる。立峠の新道といえば、まず花川原峠のことだろう。
ここでの「会田駅」とは鉄道の駅ではなく宿駅というニュアンスで、街道の零落と運命を共にせざるを得ない村落が、新道の整備をすることで必死に時代に追い縋ろうとしたことが想像できるのだ。
なお右写真は、現在は閑静な集落となっている松本市会田に残る善光寺街道常夜灯から見上げる立峠の眺めだ。
このときの改修の具体的内容は伝わっていない。
峠頂上の石門に、「明治18年開通 乱橋村」という内容の扁額を発見しているが、もしこのときの工事に会田村も係わっていたなら、名前が刻まれなかったのは少し不自然だ。
この記事が明治33年頃のものであることも踏まえれば、西条駅の開業をきっかけに、今度は会田村が中心となって花川原峠に改修を加えたのだと考えられる。
石門の拡幅などが行われた可能性がある。
さらに『四賀村誌』には、「道路沿革年表」と題された年表が附属している。
そこから善光寺街道とその後裔となった路線に関する記述を抜粋して再構成したものを掲載しよう。
道路沿革年表 (※善光寺街道関連を抜粋) | |
明治6(1873)年 | 保福寺街道・善光寺街道第三道路となる。 |
明治9(1876)年 | 保福寺・善光寺の両街道二等県道となる。 |
明治12(1879)年8月 | 刈谷原峠(仇坂峠)の開さく始まる。 |
明治14(1881)年4月 | 竣工。 |
明治19(1886)年 | 道路等級廃止、保福寺・善光寺両道仮定県道となる。 |
大正8(1919)年4月 | 道路法公布。本村内は県道上田松本線、郡道会田刈谷原線となる。 |
大正12(1923)年4月 | 県告示、本村内は県道上田松本線、県道西条浅間線、県道西条明科線の3線となる。 |
昭和28(1953)年5月 | 本村内は二級国道松本上田線、県道塩沢西条線、県道原山明科線となる。 |
昭和42(1967)年 | 本村内は一般国道143号、県道矢室明科線、県道会田西条停車場線、県道下奈良本豊科線の3線となる。 |
明治期の善光寺街道は、その期間の大半を(仮定)県道として過ごした。
この時代、道路の最上位は国道だったが、各府県とも東京と府県庁を結ぶ路線1本程度しか国道を持たなかったから(参考:国道図)、地域の骨格となるような幹線も大半は県道であった。
この東筑摩郡においては、明治23年に県の七道開削事業によって開通し、通称「二線路」と呼ばれた松本と上田を結ぶ松本街道(現在の国道143号)も、近世以前からの長い歴史を有した善光寺街道も、明治19年からは共に仮定県道となり、それぞれ仮定県道松本街道、仮定県道西街道と名付けられた。立峠(花河原峠)はその一部であった。
ただし、その整備状況や利用実態は鉄道延伸の影響を強く受けた。
大正8(1919)年に信濃教育会東筑摩部会が発行した『東筑摩郡誌』の交通の節には、この時代の県道について、「篠ノ井線開通後は西街道・松本街道をして殆んど廃道に近からしめ新に幾多の停車場道の県道に編入せらるるを見る」とある。
広域交通路であった善光寺街道(西街道)の役割が、鉄道の補完的なものへ縮小したことを示している。
大正8年の旧道路法の公布によって道路の種別が整理されると、元仮定県道松本街道が引続き県が管理する県道上田松本線(現在の国道143号)になったのに対し、元仮定県道西街道(善光寺街道)は東筑摩郡が管理する郡道会田刈谷原線となった。事実上の降格であるが、路線名から分かるように、会田と西条を結ぶ立峠(花川原峠)区間はこの郡道からも外れている。
道路界のヒエラルキーの最上位格から最下層まで一気に転落してしまったわけである。それだけこの区間の利用度は低下していたのだろう。
それから間もない大正12年には、郡制廃止に伴う郡道の削除という大きな変化があり、郡道だった路線は県道へ昇格、あるいは町村道へ降格した。
このときに郡道会田刈谷原線は県道西条浅間線へ昇格しており、再び会田と西条を結ぶ区間も県道へ復帰したかに見えるが、後に詳述するように、この県道は立峠(花川原峠)を経由するものではなくなり、東側の風越峠を越えるようになった。
その後も路線名の変遷はあるが、今日までずっと風越峠経由で会田と西条を結ぶ県道が通じている。
明治10年代の善光寺街道に整備された「馬飼新道」について
四賀村一帯を古くは嶺間地方と言ったが、四方を峠に囲まれた盆地性からそのように呼ばれた。
その南北を貫く幹線が善光寺街道で、北口が立峠、南口が刈谷原峠であった。
北口である立峠において明治18年に石門を含む新道が開削されたことが本項の究明すべきメインテーマであるが、これに関する文献的な情報はとても乏しい。
一方、南口である刈谷原峠については事情が異なり、『四賀村誌』にわざわざ項を設けて明治10年代の新道整備の記述があった。
前掲した道路年表にも明治12〜14年の出来事として短く記載されていたが、その詳細は次のようなものであったという。

馬飼峠の開さく
明治初年は各地に道路開さくの熱が高まったが、刈谷原町の中沢潤平、中沢杢郎の2人は、善光寺街道の刈谷原峠(仇坂峠)を改修して車馬通行可能な道路にしようと計画し、町の人々に相談したが工費が多額なため協議が整わなかった。そこで彼等は独力で開さくを企て県の許可を得て、明治12年8月着工し、種々の困難を克服して同14年4月遂に竣工した。延長は1里3町(4.2km)頂上はトンネルで貫通し、その他は掘割石積等工費総額8900余円の大工事であった。(中略)以後馬飼新道と呼ばれ、善光寺方面また東京方面へも新道を利用する者が多く、自動車交通時代を迎えるまでは交通量も多く重要な道路であった。この工事は一切公費を使用せず、個人の資金で開さくしたので、許可を得て料金を徴集した。いわば現在の有料道路の最初ともいうべきもので……(以下略)
一緒に掲載した写真は、令和2(2020)年8月に探索した馬飼峠頂上の様子である。残念ながら、当初存在した峠の隧道は電柱敷設のために開削されていたが、道形はとても良く残っていた。
このように、四賀村にとって立峠と対の存在と言える刈谷原峠では、馬飼新道という明治新道の記録がはっきりと残っていた。
しかもその規模は、峠の高さや頂上に隧道を建設している点など、全体的に立峠に対する花川原峠と似ていると感じた。
にもかかわらず、花川原峠の新道開鑿については、明治中期に行われたということの記録がせいぜいで、「誰が」「いつ」「どのように」行ったのかという内容が、なかなか見つけられないのである。
もはや伝わっていない記憶なのだろうか……。
この章の最後は、立峠一帯の交通の変化が歴代の地形図上ではどのように表現されてきたかのかを検証しよう。
@ 明治43(1910)年 | ![]() |
---|---|
A 昭和12(1937)年 | |
B 昭和37(1962)年 | |
C 昭和51(1976)年 | |
D 地理院地図(現在) |
@は明治43(1910)年版で、当地の最も古い5万分の1地形図だが、既に立峠(花川原峠)にとっては斜陽化の時代である。図の上に見える西条駅と篠ノ井線の存在が善光寺街道を時代遅れにした。先ほどの年表に照らせば、この時点の花川原峠は仮定県道西街道であり、地図上の表現もこれを反映して、県道が「立峠」の注記がある花河原峠を越えるように描かれている。
Aは昭和12(1937)年版である。やはり道路制度の変化を忠実に反映しており、花川原峠は町村道以下を示す細い線になった。代わりに風越峠には県道を示す太い線が登場している。これが年表に登場した県道西条浅間線である。
Bは昭和37(1962)年版で、もはや前時代の存在となって久しい花川原峠は、その一部が小径を示す点線にまで落ちぶれ、立峠に至っては道自体が消えてしまった。この時期は趣味として旧街道を歩くような人はまだ少なかった気がするし、おそらく今以上に道は荒れていたことだろう。
Cは昭和51(1976)年版で、「歴史の道」ブームのおかげか、立峠に点線の徒歩道が復活し、花川原峠には現在の林道花川原線が車道として出現している。高度経済成長の余力は地方にも漲り、これらの古い道にも歴史資源や林産物開発などの一定の役割が与えられる形で復興した。
Dは最新の地理院地図である。花川原峠についてはCから変化はないが、立峠の地下には長野自動車道の「立峠トンネル」が出現している。明治の鉄道開通によって時代遅れとなった善光寺街道だったが、平成時代にはほぼ同じ経路で南北信を最短距離に結ぶ長野自動車道となって甦ったのである。
以上、地形図上での変遷を追ったが、花川原峠に石門が開発されたとみられる明治中期以前の当地を描いた地図が存在しないことが残念だった。この道が最も活躍していた時代を知る手掛りとしては、地形図では力不足である。
第2章 炭鉱の繁栄と、花川原峠の関係

私は今回の机上調査を行うまで全然知らなかったのだが、旧本城村の中心集落西条(現在も筑北村役場がある)の周辺にはかつて多くの炭鉱が稼働し、西条駅(右写真)は県内最大の石炭集積地としてたいへん賑わったそうである。
調査の結果、この地方の炭鉱の開発も、花川原峠の改修と関係している可能性が高くなった。
まずは西条炭鉱の全体像を分かりやすく説明した文章を紹介する。
本城村一円の西条炭鉱は、最盛期の昭和初期には、月産1万トンを記録する長野県一の炭鉱であった。明治初期に発見され、明治22年から正式に発掘、岡谷の製糸工場などへ車で運ばれた。大正時代は、村の半分の300世帯が炭鉱の作業に従事し、毎日13両編成の貨物列車で2回分が積み出されたという。しかし戦後のエネルギー革命で、昭和38年、75年の歴史をとじた。
続いて、西条炭鉱が繁栄に至った背景については次のような文章がある。
初期の西条炭は、駄馬で運んだため運搬費用がかさみ、マキや木炭より高くつくほどでした。このため炭鉱側でも、森林の乱伐で燃料不足に悩む岡谷地方の製糸業者に目をつけ、新聞広告をするなど盛んに売り込みを図りました。明治35年、篠ノ井線が全通すると、安い運賃で大量輸送が可能になり、一挙に石炭ブームとなりました。
鉄道でブームに火の付いた西条炭でしたが、産出量に限りがあり、やがて中央線を経由して運ばれてくる大手の常磐炭に押されるようになり、昭和の大恐慌を境にその地位は低下しました。
明治22年に正式な採掘が始まった西条炭はもっぱら、地理的に近い岡谷地方の製糸業者へ向けて卸された。明治期を通じて国内最大の工業であった製糸業は、繭を煮る熱源やフランス式繰糸機を稼働させる蒸気機関のエネルギーとして膨大な燃料を必要とするため、石炭の最大消費者となっていた。
篠ノ井線の全通によって近い産地と消費地が直結したことで、西条炭はブームとなったが、さらに鉄道網の整備が進むと大手の産地の廉価な石炭が大量に流入したため衰退していったのである。
この図は『本城村誌 歴史編』に掲載されている村内の炭鉱分布図であるが、全部で24箇所の採掘地が表示されており、そのうちF番が立峠のすぐ北側、現在の地図だと【この辺り】に示されている。その名も「花河原炭鉱」といい、『東筑摩郡誌』(大正8年刊)には、野口庄一郎という人物の所有で、「坑口内は軌道を敷設し運搬す。炭量豊富なり」とあった。
が、この炭鉱から産出した石炭がわざわざ花川原峠を越えて運ばれる道理はないから、峠の開発との関係が疑われるのはむしろ村外の炭鉱である。

西条炭鉱と花川原峠との関わりは、本城村の資料には出てこない。
それが出てくるのは、花川原峠を越えた隣村の『四賀村誌』だ。(『四賀村誌』活躍再び)
四賀村の地下にも同じ炭層が存在し、本城村ほどの規模ではなかったが炭鉱が稼働した。
こちらは、岩井堂炭鉱と呼ばれた。
岩井堂炭鉱
岩井堂(会田地区)に石炭が発見採掘されたのは、明治初年(12年頃か)紀州の人、金森信一郎が善光寺参詣の途次に発見し、同16年鉱業法による鉱区の許可を得たのに始まるという。当時地元の人は油石と称し、燃える石として珍しがっていたという。以後、東筑摩郡の本城・坂北・生坂等に鉱区が設定され、盛んに採掘された。(中略)最初は小荷駄で、後には運送(荷馬車のこと)で松本・あるいは穂高・有明方面の製糸工場へ盛んに運ばれた。(中略)最盛期はロープウェイで西条駅まで運搬し、汽車輸送をした。
四賀村内で最初に石炭が発見された岩井堂炭鉱の場所は、右図(明治43年地形図)に「岩井堂」の地名が書かれている辺りで、立峠(花川原峠)から会田の宿場町へ下る途次にある。ここで金森信一郎という人物が明治12年頃に石炭を発見し、同16年に正式な許可を得て採掘をはじめたとされる。これは西条炭鉱より6年ほど早く、長野県最古の炭鉱とされる。

『本城村誌 写真編』より
販売先はやはり近隣の製糸場だったが、西条駅の開業後は同駅まで“ロープウェイ”で運搬したとある。即ち索道のことで、岩井堂と西条駅を直線で結ぶ径路上にある立峠附近を越えたことだろう。
写真は『本城村誌 写真編』からで、キャプションには「鉄索で運搬した石炭の貯炭場」とある。詳しい撮影地や時期は不明で、これが岩井堂炭鉱と西条駅を結んだ索道なのかは不明だが、参考として掲載した。
しかし本題は索道ではない。
私の頼もしい探索仲間の一人で、私と別個に石マンボウを探索しているペッカー氏(X:@hbf1xdmk2pcm)のブログに大変気になる記述があったので問い合わせたところ、平成28(2016)年に長野県立歴史館が開催した企画展「夢をのせた信州の鉄道」の冊子が典拠であると、親切にも誌面イメージと共にご教示頂いた。
その内容は以下の通り。
花川原峠の石まんぼう現況 (写真省略)
明治時代、荷車が通れるように峠の巨石を掘削。旧会田村(松本市)で採掘された石炭を西条駅へ運搬するためにも利用された。

このような解説と共に、私が現地で見た石マンボウの現況写真が1点掲載されており、石マンボウが「旧会田村で採掘された石炭を西条駅へ運搬するためにも利用された」ことが述べられている。
西条駅が開業した明治33年頃に会田村が花川原峠の改修を行ったという記事を第1章で紹介したが、岩井堂炭鉱の存在は、会田村がこの改修を行う理由を補強するものである。
また、現在の石マンボウは明治初頭のトンネルにしては少し断面が大きすぎる気がするが、これは落盤の結果ではなく、明治中期に拡幅が行われた成果という方がしっくりくるとも思う。
ここまでの第1章・第2章によって、花川原峠の改修は西条駅が開業する明治33年頃に行われたことが示唆された。
しかし、それ以前の事情については引続き情報が非常に乏しい。
「明治18年開之」とあった扁額の謎は、まだ解けていない。
第3章 地学者の紀行から、明治33年よりも昔の花川原峠を識る
これまで述べた通り、『四賀村誌』や『本城村誌』には、明治18年頃に花川原峠の開発を行ったという具体的な記録は発見できなかった。
開発に関する記録がないのであれば、せめて、当時の通行記録を見つけられないだろうか。
明治の善光寺街道を通行した紀行について、対象とする文献を再び国会図書館デジタルコレクションに広げて調べてみた。
まずは、明治時代の代表的な俳人として知られる正岡子規(1867-1902)である。
彼は明治25(1892)年の夏に東京上野から善光寺へ詣で、帰りは篠ノ井から善光寺街道を辿って木曽へと向かった。その途次で乱橋の旅籠に一泊し、翌朝会田へ向けて立峠を越えた様子が『かけはしの記』に収められている。
『子規全集 第十巻』から峠越えの部分を紹介しよう。
「隣の雑談に夢さまされてつとめてここ(乱橋)を立ち出づれば、はや爪さきあがりの立峠、旅の若衆と見て取て馬子が馬に乗れとのすすめは有難や、乗って見れば旅ほど気楽なものはなし。きのふの馬場峠はなぜに苦しみ。路の辺に白き花を何ぞと問へばこれなん卯つ木と申すといふ。いとうれしくて、(……短歌略……)峠にて馬を下る。」
このように、子規は乱橋から馬に乗ったまま「立峠」へ登っている。
明治18年には新道である花川原峠が開発されていたはずだが、子規が「立峠」と呼んだ道が果たして旧道なのか新道(=花川原峠)なのかの判別ができない。もちろん石門についての言及もみられない。
残念ながら、“名作”も調査の進展には寄与しなかった。

『八木貞助手帳 第5分冊』所収「信濃旅行 地質日記之部」より
だが、これとほぼ同じ時期に石門の存在に言及した紀行が発見された。
松代地震センターが昭和46(1971)年にまとめた『八木貞助手帳』は、長野県出身の地学者八木貞助(1879-1951)の手記をまとめたものだが、その『第5分冊』には、京都の鉱物学者比企忠(1866-1927)が明治24(1891)年の夏に長野県内の地質を巡検したときの手記「信濃旅行 地質日記之部」が収録されている。
彼の巡検も石炭の調査が目的であったが、手書きの紀行に含まれる「花河原越」というキーワードが、国会図書館デジタルコレクションの全文検索にヒットしたのである。
(これは完全に現代のテクノロジーの勝利であり、数年前までは絶対私には見つけられない資料だったはず)
明治24年8月13日の花川原峠越えの記録を以下に転載する。
13日 木曜日 朝曇り正午より晴
午前7時30分出発、吉田君の案内にて西条より西方に採掘せる第三紀石炭を見分せり。ここに吉田君に訣別して乱橋に向へり。西条より乱橋間に峠あり、これを中峠と称す。乱橋の村端において立峠および花河原越の端緒を開くものなり。立峠とは旧道の称にして花河原越とは新道の称とす。予らこの新道を取れり。迂回すること数町頂に達す。ここには第三紀砂岩天然に穴を掘り通行に便ならしむ、しかして一露店あり水を以て名あり。予ら憩ひて後に下ること半里、標柱ありて曰く
新道花河原越 三十町三十七間近道廿町三十七間
旧道 立峠 廿二町五十七間
キターーー!!!

これにより、明治24(1891)年8月13日時点で、間違いなく花川原峠の頂上には、道として使われる「穴」があったことが分かった。
しかも、立峠が旧道で、花河原峠が新道だということも言明されており、麓にある標柱によって新旧道の距離が旅人に案内されている状況や、新道の頂上には水を提供する露店があったことなど、鉄道によって衰退する前の善光寺街道の賑わいを伺わせる記述が盛りだくさんだ。
しかし、岩石のプロである著者が、「第三紀砂岩天然に穴を掘り通行に便ならしむ」と書いているのは、なんとなく引っ掛かる。
「天然に穴を掘り」には、天然の洞窟を加工して通路として利用したようなニュアンスを感じるのは私だけだろうか。
彼の目に当時の石マンボウは純粋な人工トンネルには見えなかったのだろうかという疑問が湧く。
今回探索時の姿を振り返ってみても、自然の洞穴に見紛う要素はあまりないと思うし、その内壁にはおおっぴらに「明治十八年」の竣工を伝える扁額が刻印されていたはずなのだが…。
この表現への“ひっかかり”は、この後の明治33年頃に石門が拡幅を受けたという推測を支持するものかもしれないし、単に私に思い過ごしかもしれない。
しかしともかく、明治33年よりもだいぶ前から石門があったことは、間違いがなくなった!
第4章 花川原峠新道開鑿の当事者が、ついに判明?!
ここまでなかなか核心的な手掛りを掴ませてくれない花川原峠の新道だが、当サイトの文献調査にいつも多くの貢献をして下さる名誉読者(勝手に指名)るくす氏(X:@lux_0)より、新たな文献の照合情報が寄せられた。
そして、花川原峠における新道開鑿の当事者と想定しうる人物の名が初めて明らかになった。
その文献のタイトルは『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 別篇 (人名)』というもので、昭和57(1982)年に東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会が発行した、この地域の歴史に登場する主要な人物を取り上げた人物録である。
そして、問題の人物の名は、柳沢芳朗という。彼に関する記述の内容は以下の通り。
柳沢芳朗 (明治2(1869)年-大正14(1925)年)
東筑摩郡本城村に生まれ、明治12年12歳で村の書記となった。同22年から28年まで村の収入役をつとめ、28年から31年まで東筑摩郡会議員となる。彼の力を入れたのは産業振興であって、蚕種の低温処理の徹底を期すために風穴利用をはかり、桑苗の改良にも努めた。同33年から37年まで長野県県会議員となり、国鉄篠ノ井線の敷設が計画されるや、筑北地域の将来の発展を考え、政府案が犀川線であったのを廃案とさせて筑北地籍を通過するようにするためいく度か中央・地方の行政機関と折衝を重ね、遂に目的を達した。明治40年から大正3年まで本城村長に選ばれ、日露戦役後の困難な村政に当った。
特に東条地籍にあった本城小学校を現在地に移したことは彼に先見の明ありとされている。また乱橋・立峠の新道の開通についてもその努力に負うところが大であった。
大正14年1月1日没 享年56
キタのか?!
この人、めっちゃ凄いな。
12歳で村の書記となったなんて、いくらなんでも早熟すぎる!
そして最後にしれっと「乱橋・立峠の新道の開通についてもその努力に負うところが大であった」って書いてあるから、間違いなく花川原峠の歴史にとっての重要人物なんだろうけれど、
もし彼が明治18年の改修の当事者であったとしたら、18歳のころ、村の書記としてこの事業に関わったことになる。
もちろん、それはあり得ることなのだが、どうしても年齢的には、明治33年頃の改修の改修の当事者(県会議員として?)というほうがしっくりくる。
どっちなんだい!
おそらく執筆者はどっちかが分かって書いたんだろうけど、まさか将来このことでヨッキれんが悩み果てるなんて想像しなかったんだろう。
ここははっきり書いてほしかったなぁ……。
この章は、今はまだ短いが(いつか長くなったら良いなぁ)、以上である。
終章 風越峠の開発と立峠の沈黙

第1章でも軽く触れたが、大正時代以降、立峠や花川原峠の名はほとんど地域交通史に登場しなくなる。
本城村と四賀村を結ぶ主要道路が風越峠へと移ったためである。
この経過については、昭和11(1936)年に筑北通信社が発行した『本城村近世史』が明るかった。
まずは最初のパートを紹介する。
本城村における道路問題は村長山本音一郎氏及び柳沢芳朗氏時代から盛んにその改修速成を叫ばれていたが遅々として進行せず理想とすべき西条田沢線同西条浅間線も容易に工事開始の段取とならず行き悩んでいた。
ここにさっそく本城村村長として前章に名前が出た柳沢芳朗氏が再登場する。山本音一郎氏は明治34年から41年まで、柳沢氏がこれを継いで41年から大正3年まで村長を勤めている。つまり、明治30年代から本城村は“道路問題”を抱えており、その理想として、西条田沢線と西条浅間線の2線の開発を構想していたという内容である。
前者は現在の県道277号河鹿沢西条停車場線、後者は県道303号西条停車場会田線を指しており、風越峠は後者にある。
乱橋区により盛んに改修工事実現を叫ばれつつあった西条浅間線工事は西条田沢線の進捗と相俟って急転直下起工さるることとなり、村の運動待つまでもなく本県は直営工事を以て昭和6年12月その起工に着手した。
本県の設計は、この西条浅間線をして本県の主要路線として従来の中峠及び立峠の旧道を廃し、風越峠を突破して中川村に通し本郷村に通ぜしむる設計で本城中川間施工延長おおよそ3里、総工費19万円うち地元負担金5万7千円の見込みで工事に着手した
時恰も農村の不況は非常の深刻を極め失業者の続出は都会地のみならず一般農村も失業者の累増を見つつあったので本県ではこれら農村失業者を救済する目的を以て、この府県道西条浅間線工事をして失業救済土木工事と名を打ち本県が直営を以て該工事にあたったのであった。本村内土木工事として全く空前の大事業とすべく……(中略)……昭和10年度において完成され、ここに本村の2大路線は完成に至った訳である。
この風越峠の開発は、乱橋区が強く求めていたものであったというが、これはどういうことなのだろう。
明治18年に花川原峠の壁に名を刻んだ乱橋村の後裔たちは、大正時代になるともはやその発展を見限ったかのように、その僅か1kmほど東にある風越峠の開発を願っていたという。
少々不可解だが、この事情を明らかにする資料は見当らない。
単純に地形の問題で、花川原峠や立峠には良道開発の余地がないと考えられただけかも知れないし、あるいは炭鉱関連の用地問題が原因であったのかも知れない。

しかしそんな乱橋区の請願を待つまでもなく、長野県は風越峠の新道建設を昭和6年に開始し同10年に完成させている。
その目的は、当時全国的に大きな問題となっていた農村失業対策であった。
県側の目論見を想像すると、花川原峠や立峠の再改修ではなく敢えて工事量の多い風越峠を開発した目的は、大量の労働力の消費ではなかったかと思われる。
道を作るために労働を求めるのではなく、労働を与えるために道を作るというある種の逆転は、この時代の失業対策として常套手段だった。
もちろん、それだけが理由ではなかったと思う。
風越峠の頂上には全長135mの風越隧道が建設されたので、立峠や花川原峠よりも約100m標高を下げることが出来た。
これは自動車交通にとっても大きな利点であり、トンネルが掘りやすいことはルート決定の重要な要素だっただろう。
右写真は、令和2(2020)年5月10日に撮影した風越隧道だ。
平成6(1994)年に隣に新トンネルが開通し、当初の隧道は廃止されている。
この風越峠の開通により、立峠は歴史の表舞台からは完全に退場し、以後は昔を懐かしむ“歴史の道”としての余生を過ごしている。
花川原峠についても、昭和50年代に林道花川原線が開通したことで久しぶりに車道として復活したが、メジャーな存在ではない。
ただ、この林道が整備された当時には、きっと峠の石マンボウの存在が広く地域に“再認識”されたと思われる。
内壁の扁額の文字などは、郷土史家の恰好の研究対象になったと想像するが、今回その成果までは私が辿り着けなかった。
結局、これの解読が重要なのかも……

- 中沢潤平、中沢杢郎
- 野口庄一郎
- 金森信一郎
- 正岡子規
- 比企忠
- 柳沢芳朗
- 山本音一郎
- ヨッキれん・ペッカー
↑これは今回の調査に登場した、現地に関わりを持つ人物たちだ。(敬称略)
“遊岩”の扁額に刻まれた姓名印(右写真の上の陰影)と、頑張って照合ができないかを検討したが、どうもこれらの人物のものではなさそう。
明治18年に花川原峠頂上の大岩に穴を穿ち、そこに“遊岩”の書と“紀元貳千五百四十五年五月日開之”の刻字を残したのは誰なのか。
まだ謎は解けない。
数万文字を費やしても、石マンボウの来歴を巡る謎は解けていない。
明治30年代以降の経過については概ね解明に至ったが、道の一生で最も印象的かつ重要な場面である“開通”にまつわる記録を見つけることが出来なかったのだ。45点。
しかも、道路そのものの壁面に堂々と刻まれている扁額があった。
その謎に集合知の結晶である文献調査によって挑んだが、未だ扁額の僅かな文字がこの調査の最先鋭なのである。
扁額の主がどこかで笑っている声がする。悪戯をされているような遊び心が感じられる。
道路の歴史なんて識らなくても生きていけるから、遊びだから楽しい。
なにが“遊岩”なのかも分からないが、少なくとも私は楽しんだ。
面白すぎて引き込まれ続けている。
この謎、きっと解明したい。