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隧道レポート 新見市井倉の白谷隧道群(仮称) 後編

所在地 岡山県新見市
探索日 2026.04.22
公開日 2026.05.19

 隧道が辿り着いた、幻の鍾乳洞……!


極めて短命であったことが想定される隧道を事前の情報無しで見つけ出した瞬間が、この探索における私の気持ちの盛り上がりの頂点であって、見つけた隧道の内部探索は、こうしたことに慣れすぎている私にとって、ある種の確認作業に過ぎないものとの達観がなきにしもあらずであったが、実際の洞内へ足を踏み入れて奥へ奥へと進んでいくと、私の小賢しい予断は簡単に打ち砕かれた。

この知られざる隧道は、尋常のものではなかった。

前回この地域で探索した“鬼女洞”は、地図上にまるでトンネル(隧道)のように表現されながら、実際は貫通が出来る天然の洞窟(鍾乳洞)で、しかも近隣の住民の中には、かつて日常的に交通路(通学路)として利用している人が居たことを確かめた。それはそれは、衝撃度が大きな探索だった。

一方、今回のこの隧道は、人造のトンネルでありながら、洞内に夥しく鍾乳石が自然発生しているのみならず、天然の鍾乳洞である空洞を地中で掘り当てるという非尋常を見せてくれた。

“鬼女洞”との共通点は、どちらも石灰岩中に存在する貫通可能な地下通路ということで、天然の鍾乳石が観察できることも共通だが、本質は、天然と人工という風に大きく異なっている。



2026/4/22 18:08 (入洞4分後)

2本目の隧道を40mほど進むと、頭が擦りそうなほどの天井の低さはそのままに、左右の幅が妙に広くなっていた。
周囲の壁の様子はすべて人工の掘削ぽいが、なぜ広いのかは分からない。
ちなみに、左下に見える棒状のものは朽ちた細い丸太だ。これもある理由は分からない。

もしここを自動車が通っていたのであれば、この空間はすれ違いのための待避所を想定するが、ここ以外ではほぼドアを開けることも出来ないくらいに幅が狭く、そのうえ天井も2mくらいしかないトンネルを四輪車で通ろうとするのは、物理的には通れるのだとしても、慣れていなければ耐えがたい苦痛だと思う。徒歩で探索するのとは次元が違う、窮屈な怖さがあるはず。私は御免である。



18:09 (入洞5分後)

さらに進むと、再び天井に異変!

またしても天然の空洞にぶち当たっていたのであるが……



驚くべき大ホール!!

それまでの頭上すれすれの天井の高さと比べると、あまりにも異質に際立つ地下大ホールの天井の高さである。
しかも、人造のトンネル内で見られる1〜2cmの鍾乳石(それでも60年くらいは成長している)とは比べものにならない、有料の観光鍾乳洞にあっても遜色がないような立派な鍾乳石が、壁全体を瀧(滝)のように覆っていた!

鍾乳石の成長ぶりは、空洞が人造のトンネルとは比較にならないほど長い年月を地中で過ごしてきたことの証左である。
数千年……いや、数万年の単位で、人知れず地中に隠されていた空洞を、隧道は掘り当てていた!

なお、隧道が単純な直線であることから、この遭遇は意図的に掘り当てたものではないと思う。
ただ、トンネルとして短時間で廃止されたとみられるのは、こうした洞窟を保護する意図があったからか。あるいは全く別の事情からか。
鍾乳洞としての規模は小さく、観光化に耐えるものではなかっただろうが、それでも道路トンネルとの組み合わせはインパクト絶大で、もしこれが現役のトンネルであり続けていたら、相当に有名になっていたと思う。同種の例として知られる羽山第二隧道以上の鍾乳洞だ。




この場所のスケール感は、こちらの全天球画像の方が伝わりやすいと思う。

私の目線の先に照らし出された、怪しくも美しい天井を、堪能してくれ!




18:10 (入洞6分後)

天井の大穴を潜り抜けると、またもとの狭苦しい人工洞が再開する。

が、今度はすぐに左側(山側)の壁に細い狭洞が枝分かれした。
覗いてみると、入口が恐ろしく狭いが、一応大人の肩幅くらいはあるので、慣れた洞窟探検者ならば向こう側を確かめることができるかも知れない。
もちろん私はゴメンである。人工物じゃないところからは生きて帰れる気がしない。私の加護が効かない世界だ。



これも、あれも、穴。
横穴であったり、縦穴であったり。
本当にこの地中は、空洞まみれのスポンジ状態らしい。

洞床にだけ穴がないのは、おそらく洞床にあった穴は埋めたんじゃないかな。土砂で。
特に先の大ホールなんかは、もとは路面の下にも相当広い空洞があったんじゃないか。地形的にそんな感じがする。下には水が溜まっていて、地底湖だったりしたのかも。

そして、この地中で遭遇した空洞はどれも、本来は隧道以外の空洞によって地上と繋がっているはずだ。
地表に由来する水が作用して出来た空洞である以上、毛細の如き空洞であっても、地表と通水していたはず。



2本目の隧道を、1本目の全長と同じくらいは進んだと思う。
たぶん、入口から100mくらいだ。
いつの間にか洞床の泥濘はなくなり、歩き易い四角いトンネルになっていた。
素掘りにしてはえらく丁寧に四角いトンネル。

1本目と2本目を合わせて、200mくらいは地中を進んで来ている。
となれば、最終的な北口までの残りは100mくらいだと思う。
そのすべてが地下にあるのか、再び地上の区間があるのか、そこはまだ分かっていないが…。



18:11 (入洞7分後) 

完全閉塞。

2m四方程度の恐ろしく狭い隧道なので、隙間を探して足掻ける余地もない。
2本目の隧道を推定110m程度進んだところだった。

隧道が最終的にどこかで閉塞しているだろうことは、先の北口探索から予想できたことだが、しかし私が白谷橋から進んできた距離は、地上と地下をすべて合わせて300m程度とみられ、これは白谷橋と【北口擬定地】の間の想定全長450mに対して、だいぶ足りていない。

ということは、おそらくここは北口擬定地ではない、まだ崖の途中のどこかである。



閉塞地点を埋めている土砂は、土と大小の岩礫と枯れ枝が混ざったもので、天井部分に微妙な崩落による空隙もある(出入り出来るような隙間ではない)ことから、閉塞は人工的な埋め戻しではなく崩壊の結果であるように見えた。

さらに、閉塞壁近くの川側の側壁の亀裂から(最初ゲジゲジの触覚かと思った)植物の根が入り込んでいることから、おそらく閉塞地点は2本目の隧道の北口(坑口)だったが、一連の隧道群の北口擬定地には達していないというふうに私は考えた。



つまりおそらく、私はこの“地中位置”にいる。

地形図でも、この先の地上は川岸の崖記号が少しだけ途切れていて、谷のように窪んでいるから、連続する隧道の開口部となっている可能性は高かった。



先に撮影した地上写真に照らし合わせると、おそらくこの位置。



ただ、拡大して見ても、樹木が多く繁っているために、この部分の地上に開口部の痕跡があったかは見えない。
そして、地形的にほぼ間違いなく存在が想定される3本目の隧道についても、その開口部の有無の判断はできないのである。
(グーグルストリートビューでは、木々が葉を減らした3月撮影の写真も見られるが、やはり開口部を確認は出来ず)

……直接辿り着ければ確かめようもあるが、地上より近づくことはおそらく不可能。
冬場にドローンで接近撮影を試みるか、カヤックを使って水面から接近出来ないかを確かめることが、今後の計画として考えられる。
が、いずれにしても、ここから先へ進むことは出来ない。それは間違いがなかった。


撤収開始。




閉塞地点からの帰り道では、約3分30秒間にわたって、2本の隧道を通り抜ける全天球動画を撮影した。
暗い洞内なので、ライトで照らされた先以外は見えにくいが、天井の穴など気になる箇所をグリグリして確かめてほしい。
(グリグリするには、このサイトの埋め込みではなく、youtubeで動画を見てください)



 わ る あ が き 


既に日没時刻を過ぎた仄明かりの地上へ戻った私は、洞内閉塞によって絶たれた隧道群の完全踏破という目的の達成へ向けた、“最後の足掻き”を試みた。
これは、この時間、この状況から選びうる、泣いても笑っても本日最後の一手。その覚悟であった。
(翌日は朝から大雨の予報であり、かつ次の探索地への移動を予定していたから、延長は出来ない)

洞内の状況や、現地の地形を見る限り、上図に示したように、おそらく3本目の隧道(仮称「隧道B」)が、南口から続けて踏破出来た2本の隧道(隧道@・隧道A)と短い明かりを介して接続していたと思う。
そしておそらくこの隧道Bが、一連の隧道群の北端、北口であった。



隧道Bへ近づく術を模索すると、この探索の最初に訪れた場所について、改めて注目の余地があった。

そこは既に、国道180号井倉バイパスによって隧道へと通じる道が無残に絶たれていることを【確認済】だったが――

もしかしたら、もしかするかもしれない!




18:22 

再び自転車に跨がり、国道180号の井倉大橋を渡りはじめる。
この橋を車で通ったことは数回あるが、自転車の速度で周囲へ目を向けるのは初めてだった。
橋の間際に凜と聳えるこの“答瀧”の岩壁が、天造と人造と、その両方の空洞を隠し持っていることを、今の私は知っている。
近い距離から、岩壁の表面に隧道へ通じる開口部がないかを探したが、それらしいものはなかった。



そしてそのまま、井倉トンネルの入口へ。

昭和52年に開通したこのトンネルの巨大な坑口は、昭和32年の地形図に一度描かれたきり、その次の昭和43年版では早くも消えた今回探索の隧道群を含む道を(その跡地を?)、切断している。

この切断によって隧道の北口は喪失したと判断したのがこの探索の前半だったが、今は別の可能性に期待している。
チェンジ後の画像に示したように、隧道は井倉トンネルによって壊されず、その山側に引き続き現存しているのではないかという期待だ。
私にとって甚だ都合の良い期待だが、南北両側からここへ向かってくる道や隧道の存在を確認できている以上、改めて念入りに確認する価値があると判断した。……というか最後の希望だ。



18:23 《現在地》

私と同い年である井倉トンネルの坑前へ。
全長1150mの長いトンネルは鉄仮面の様相で、井倉大橋と直接繋がっているこの場所は、普段なら人や車が立ち止まることのない場所だと思う。
実際、高速で行き交う車の邪魔にならないように自転車を停めたり、周囲の撮影をすることに苦心した。

坑門の右側は、直ちに井倉大橋の欄干が始まっていて、足場もないので、道を外れる余地はない。
だが、坑門の左側については、こうして意識的に探さなければまず気付かないと思うが、自転車を押し込める幅の隙間があった。
そこは狭いながらも地面であり、草木が生えていた。



その隙間に自転車を押し込んで停め、私はさらに奥へと入った。

これはそこで撮った全天球写真である。
足元の地面に、使われていない交通看板(「危険!トンネル内車間距離をとれ」と書いてあった)が捨てられており、表面に溜まった落ち葉を払って読み取ることを普段なら間違いなくしただろうが、今はとにかく暗くなる直前の時間が惜しいところで、隧道発見への足掻きを優先した。

この“空間”が目当ての道の跡である望みを賭けて、地形的に進める唯一の方向へと進む。




やったか?!

これは、マジでやったっぽい!!

灯台もと暗しというヤツか。
現道から一番アクセスしやすい場所に、正解があった?!
とりあえず隧道は現れていないが、今いる場所が、【最初に探索した部分】に繋がる道の続きであることは、その位置や幅、造りの感じからして、確定的だと思う。

切り取られた鋭い法面に沿って、幅2m程度の平場が続いている。
このまま行けば、間違いなく、隧道が現われそう。
もしもそれが開口していれば、サヨナラ大逆転勝利である!



18:24

キテル来てる!!

路盤が確かに続いている!
既に、隣を走る国道は橋の上だ。
となれば、この道も間もなく、国道の影響圏を外れるはず。

国道の影響圏の外に、目当ての坑口が存在することを、心から望む。
今はまだ国道が近いため、この道のためではない落石防止ネットが、路上を含む斜面全体に蓋をしてしまっているが、このネットさえなくなれば、手付かずの廃道に戻るはずで……。
それがとても楽しみである!!



!!!



18:26 《現在地》

坑口発見ダァー!!!!!

私の目論見は、見事に的中!

「現在地」の位置に、おそらく3本目の隧道の北口とみられる開口部を発見した!!!



だが!

これ以上近づけない!(涙)



クソーーっ!

こんな生殺し、許されて良いのか…!

ここは地獄だ。ネット地獄。
ネットを設置した者に私は言いたい。
ネットに探索者のためのバックドアを設置してほしかった!



ネットは10mよりも上から斜面全体に隙間なく這わされており、ネットと岩盤の隙間に潜り込む余地はなかった。
万が一、斜面上から墜落するように侵入出来たとしても、今度は出られなくなるに違いない。
そうやって死ぬ動物がたまに居るが、アレは悲惨だ。



平場(=道)は確かに坑口の場所で終わっており、そこからさらに先へ斜面伝いに進もうとすると、もう取り付く島のない崖になっている。
そして、崖にも切れ間なくネットが仕掛けられているから、これはどうにもならない。

また、足元についても、ネットは路面よりも下まで設置されており、そこに長年分の崩土や灌木がネットを地面へ押さえつけるように固定しているので、ただでさえ重い金属ネットの下へ潜り込むことを不可能にしていた。



上もダメ、下もダメ、左もダメとなって、残る最後の可能性は右……すなわち来た方向だったが、改めて確認してみても、ネットは井倉トンネルの坑口に巻き込むようにボルトで固定されており、こちら側も鉄壁に入り込む余地はなかった。

もはや私に期待できるのは、将来いつかこの場所で土砂崩れが発生し、ネットが壊されることだけだった。
……坑口は埋まらず、ネットだけが剥がれ落ちるような奇跡が起きることを期待するしかない……。

いずれにしても今日の結論は、ここに開口していることは確認できたが、そこから洞内へ入ることは出来ないというものだ。
また、見つけた開口部に奥行きがあるかどうかも、ネットのせいで見通すようなアングルに立てず不明である。
ただ、空気の流れや冷気の存在が感じられないので、内部はどこかで閉塞している可能性が高い気がした。



そこにあると分かった後でも、国道の路上から、ネットの向こうにある開口部を目視することは容易ではない。
この写真の中央付近にあるのだが、分からないと思う。



だが、今から15年前の2011年3月に撮影されたストビューを見ると、当時は灌木がまだ低く、ネットに覆われている道形がよく見えるうえ、その末端には開口部が黒い影として観察できた。
そして、改めてネットの架かり方を俯瞰して、それが完全な鉄壁であることを理解した。

残念ながら、健闘もむなしく、最後は私の牙が折れた。にゃおーん。
現地踏査終了! 撤収。



 机上調査編 ……だが、文献的な情報はほとんどない


まずは探索成果のまとめだが、井倉大橋と白谷橋の間の高梁川右岸に聳える“答瀧”と呼ばれる石灰岩の岩山に、少なくとも3本の隧道を有する幅2m程度の道が通じていたことを確認できた。
図に赤線で示した一連の道の長さは約450mで、岩山に接する部分の大半にあたる約300mは、隧道である。
このうち「隧道A」は、内部で複数の鍾乳洞と交差・分岐するという、非常に珍しい景観を有している。

そして、「隧道A」北口の崩壊や、現国道に属する落石防止ネットによる妨害のため、「隧道B」を含む前後100mほどは未踏破のままである。
この区間内については、陸路からのさらなる追求は不可能とみており、今後高梁川をカヤックで横断しての第二次アタックを計画する予定だ。
実施したら追記する。

ここから先は、この道についての机上調査であるが、極端に短命であったとの推理から予想をしていた通り、やはり情報は極めて乏しく、現在も難航している最中である。
まだほとんど成果を得られていないといっても良い状況だが、現状報告として一旦まとめておこう。





まずはいつものように、歴代地形図や歴代航空写真の比較から、今回の道が利用されていた時期を絞り込んでみよう。
なお、地形図については、そもそもこの道の存在に気付いて探索を行うきっかけとなった唯一の情報源であったので、本編冒頭でも紹介しているが、探索後の知見も込みで改めて検証する。


@
明治31(1898)年
A
昭和26(1951)年
B
昭和32(1957)年
C
昭和43(1968)年
D
平成11(1999)年

@明治31(1898)年版は、当地を描いた最古の5万図である。図中を蛇行しながら南北に貫く高梁川と、川沿いに太く描かれた県道の存在感がある。後者は現在の国道180号の前身となった「新見往来」である。水色の○印で示した箇所は渡船で、後の「井倉橋」や「白谷橋」の架橋地点などに渡船があったことが分かる。

A昭和26(1951)年版では、昭和初期に開業した鉄道の伯備線が出現しているほか、「井倉橋」が登場し、同所の渡船を置き換えた。図の最上部に「井倉駅」が登場し、中央附近の「谷合」地区と共に、沿道の市街化が進行している。図左下の台地上にある「法曽」(ほうそ)地区と、新見往来の間は、依然として数ヶ所の渡船によって結ばれている。

B昭和32(1957)年版が、今回探索の道を描いた唯一の地形図である。
2本の隧道が連続する「幅2〜3mの市町村道」表現の道が、井倉橋の袂から高梁川右岸に沿って法曽へ通じており、代わりに渡船が1ヶ所無くなっている。

C昭和43(1968)年版では、もう隧道が消えている。そして、「白谷橋」が始めて登場する。以南の法曽までの道はBと変わっていないので、隧道の代わりに橋が現れた感が強い。この版で図中からすべての渡船が消えた。

D平成11(1999)年版では、かつて隧道があった附近に国道の井倉バイパスが出現している。白谷橋を渡って法曽方面へ通じる道路も県道へ昇格し、主要地方道北房井倉哲西線になった。また、白谷橋の西側に「白谷鉱山」が初めて描かれるようになった。

続いては航空写真である。


I.
昭和23(1948)年
II.
昭和39(1964)年
III.
昭和51(1976)年
IV.
令和2(2020)年

I.昭和23(1948)年版は、年代的には地形図Aに対応している。
問題の隧道があるかどうかを直接航空写真から観察することは出来ないが、前後の道が見当たらないので、まだないと考えられる。
また、地形図には描かれていなかったが、実はこの時代既に「白谷鉱山」が稼働している。これについては後の文献調査でも裏づけがとれた。

II.昭和39(1964)年版を I. と比較すると、隧道の前後の道がはっきり見えているので、隧道は現役である可能性が高い。地形図Bで見た通り、隧道を抜けた道はそのまま法曽方面へと通じている。また、伯備線との交差は、私が通った鉄橋を潜る道ではなく、橋の袂のこの辺りに踏切が存在したことが分かる(現存しない)。

III.昭和51(1976)年版は、地形図Cに対応しており、白谷橋が出現していたり、井倉大橋が建設中であったりするので、隧道は既に役目を終えていると思われる。前記の踏切も消失している。II. との大きな変化として、白谷鉱山の巨大な露天掘りが、隧道のある山の西側に出現している。これはかなり近接している(地中で150mくらの距離)ので、隧道の存続と関わりがあるかもしれない。

IV.令和2(2020)年版は、白谷鉱山の露天掘りのさらなる拡大が見て取れる。「白谷橋」も拡幅されているようだ。

以上である。
これらを総合すると、今回の隧道について、以下の3点のことが言えると思う。

  • 利用期間は概ね昭和20年代から30年代までで、40年代には廃止された。
  • 駅がある井倉地区と法曽地区を結ぶ役割を担っていた。
  • 隣接して白谷石灰鉱山が稼働したことが隧道の存続に影響を与えた可能性。



  • 続いて文献調査であるが、先述したとおり、今回の隧道に言及した文献はほとんど見当たらない。

    なので、外濠を埋める作戦を採っていく。

    まずは、本編中でもちょいちょい登場させた、今回の隧道がある岩場の名である“答瀧”について記述したものを紹介しよう。

    大正11(1922)年3月に岡山県史蹟名勝天然記念物調査会が発行した『岡山県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第2冊』という資料に、現在の新井市周辺の様々な名勝が解説されており、その中に現在も有名な「棚ケ瀬の滝(絹掛の滝)」や「羅生門」に並んで、「井倉ノ奇岩及答瀧」の項がある。(当時まだ発見されていなかった井倉洞や鬼女洞の記述はない)


    『新見市史 通史編 上巻』より

    第八  井倉ノ奇岩及答瀧
    井倉ノ奇岩ハ阿哲郡草間村高梁川ノ左岸ニアリ答瀧ハ同郡石蟹郷村高梁川右岸ニアリテ井倉橋ヲ挟ンテ井倉ノ奇岩ト相対ス共ニ石灰質絶壁ニシテ水ニ接スル所水蝕殊ニ甚タシク一朝洪水ニ際シテ激流岸ニ触ルル時断崖将ニ壊レントス(中略)石蟹郷方面ハ所謂千仞ノ絶壁ニシテ奇峭嶮崖ヲナシ巍然トシテ古城壁ノ如ク実ニ神斧鬼鋸ノ妙趣ヲ尽スココニコノ雄大ナル天工ニ接スルモノ誰カ雄壮美ノ威ニ打タレサルモノヤアル(中略)対岸ニ立チ絶壁ニ向ツテ大声叱呼スレハ忽チ反響シテ之ニ呼応ス所謂山彦ナリコレヨリ答瀧ト称セラル(此地方絶壁ヲ瀧ト称フ)。

    『岡山県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第2冊』より

    このような解説があり、すなわち現在は井倉洞の所在地として知られている【左岸の絶壁】が「井倉の奇岩」、その対岸にある今回の隧道が掘られている絶壁が「答瀧」と呼ばれていたことが分かる。
    答瀧とは、反響して山彦が返ってくることにちなんだ名で、当地方では古来、絶壁を「瀧(たき)」と称していたとの説明もある。

    答瀧の名は、平成に入ってからの平成5(1993)年に刊行された『新見市史 通史編 上巻』にも、「答嶽」と少し字が変わっているが登場していた。掲載されていた写真を、【私が撮影した写真】と比較すると、確かに隧道が掘られている岩場である。
    が、市史の記述はこの写真だけで、そこに隧道が掘られたことには触れていない。



    『石灰石 (222)』(1986年7月号)より

    これは、石灰石鉱業協会が発行する雑誌『石灰石』1986年7月号に掲載されていたものだ。
    同誌は各地の石灰鉱山を毎号紹介しており、この号に「井倉化学工業株式会社白谷鉱山」が6ページにわたって取り上げられている。
    そこにこの「鉱山平面図」があった。

    よく見ると、高梁川に沿って、トンネルを示す点線で表現された道が描かれている。
    一緒に国道180号の井倉バイパスも記載されていて、この図を見る限り、意外にも両者が同時に存在していた時期があるのかもしれない。
    まあ、描かれている道が全て実際に使われていたとは限らないが。

    この地図(他の号にも数回、同じ図は再掲されている)は今のところ、昭和32年版地形図以外では唯一、今回探索の隧道を描いている地図である。

    このように鉱山平面図に描かれている以上、もともとが公道ではなく、鉱山施設として生み出された隧道という可能性も否定できないところである。

    ただ、本文中に、隧道への言及は全くない。

    沿 革 (一部抜粋)

    昭和15年12月
    土中釜方式にて生石灰及び消石灰の製造及び販売を開始
    昭和24年12月
    合理化により、岡山市から山元に本社を移転
    昭和45年12月
    岡山県共同石灰(株)に原石供給のため、採掘切羽を山頂よりベンチカット採掘法を採用し、選鉱設備を設置
    『石灰石 (222)』(1986年7月号)より

    このように白谷石灰鉱山の歴史は思いのほかに古く、昭和15年にまで遡れるようだ。
    ただ、操業規模が一気に拡大したのは昭和45年に露天掘りに切り替えてからのようで、これにより答瀧の西側が山頂から掘り進められることになった。
    逆に言えば、地形図に隧道が登場した昭和32年時点では、まだ小規模鉱山だった。

    立地的に、隧道は鉱山側が鉱石の輸送や出入りのために建設した可能性があるが、そのことを示唆する具体的な資料は見当たらない。
    ただ、私の印象としては、確かな技術を持った鉱山会社が建設した隧道という可能性はとても高いと思っている。
    なぜなら、現場は崖伝いの複雑な地形であるにも関わらず、地中を迷いのない綺麗な直線で掘り抜いていて、四角い断面にも迷いがなかった。
    これは明らかに村民の手掘りなどではない、プロの事業目的っぽい感じがある。また、一般の土建企業が掘ったにしては、全体的になんというか……エキゾチックすぎる印象が。

    そして、隧道の廃止についても、鉱山の規模拡大(特に頻繁な発破を伴う露天掘りの開始)によって通行が危険になり、封鎖・廃止されたことは自然と考え得る。
    その際、隧道の代替として白谷橋を鉱山側が設置した可能性もあるだろう。現在ある白谷橋の竣工年は昭和49年と記録されているが、昭和38年7月の水害で同名の橋が流されたという記録が『新見市史 通史編 下巻』に見られるので、今ある橋が初代ではないようだ。




    ……申し訳ない。
    今のところ、はっきりしたことが分からないので、書けるのはこのくらいだ。
    隧道を、誰が、いつ、どのような目的で掘って、利用し、いつ、どうして廃止されたのか。まだ明確なことは何も分かっていない。隧道名についてもそう。
    探索だけが先行した。誰よりも早く得体の知れない穴にこの身体を押し込んで、洞内の真に驚くべき風景を発見した。

    今後は現地の再調査だけでなく、文献調査も深めたいと思っているが、なにぶん家から遠いので、すぐに進めることは出来そうにない。
    もしも地元にお住まいで、私の手足となって調査をお手伝いしてくださる方がいたら、次の2点についてお調べいただきたい。

    1. 白谷橋の袂にある石碑に何が書かれているのかを教えて(あるいは撮影して)欲しい。(確認済 →追記
    2. 岡山県立図書館や新見市立図書館が所蔵する、『ほうそ』(1976年発行)と『ほうそ 続』(2005年発行)の2点の郷土資料に関連する記述がないかを調べてほしい。(一部ページ確認済 →追記


    鬼女洞を通学路としていた、あの伝説の女学生は、今回の隧道も通学路に組み込んでいた可能性がある。

    中学生時代(推定昭和34年〜37年)、高校生時代(推定昭和37年〜40年)とも、おそらく今回の隧道は存在していた。
    彼女は、渡し船を利用したという話はしているが、それは鬼女洞を通った場合で、鬼女洞を通らず高梁川の右岸を行く場合(平水時)も渡し船を使ったかは、確か言明していなかった。
    もし今回の隧道が使えるなら、渡し船を使わずに自宅から井倉駅や井倉中学校まで右岸のみで辿り着ける。

    今回の隧道も通った蓋然性が、ある。


     郷土誌『ほうそ』に、隧道に関する記述を発見!
    2026/5/19追記

    昭和51(1976)年に地元の法曽小学校創立百周年新館落成記念実行委員会が発行した郷土誌『ほうそ』に、隧道に関する記述があると、岡山県新見市で新しい発見!?? 新見を勝手にPR「非公式」氏(@nakano_hito_jpよりタレコミがあった。記述は次の通りである。前半と後半に分けて引用する。まず前半。

    昭和35年に至って井原氏が老体のため(出石の)渡し守を引退してからは、上流の白谷橋(白谷川口に出石と同じ様な舟渡であったが、昭和17年8月に巾員4mの木橋を架設した。しかし洪水のためたびたびの流失の難を被ったが、白谷の地に石灰工場があることと、熊野線が昭和35年に県道に編入したこと等によって、そのたびに復旧した)へ通じる自転車道程度を、河原伝いに応急的に作って昭和37年春の大砂利谷林道の開設まで利用した。

    『ほうそ』より

    上記内容は、白谷橋周辺の道路整備史である。主な内容を右図にまとめているが、文章にすると次のようになるだろう。

    当地には古くから高梁川を横断する白谷の渡しと、出石の渡しがあったが、前者には昭和17年に最初の白谷橋が架設された。この橋はしばしば流失したが、白谷にある石灰工場(鉱山)へのアクセス目的や、昭和35年にこの道路が法曽方面へ通じる県道に昇格したことで、都度架け替えられた。後者は昭和35年に廃止され、一時的に高梁川の河原に仮道を設置して白谷橋に接続した。この区間は昭和37年の大砂利谷林道の開通に合わせて車道化した。

    そして続く後半には、今回の隧道に関する、短いが注目すべき、次の記述が現れる。

    この頃に白谷橋が流失したため、答滝に小型自動車が通れる程度の隧道を掘り抜いて、永久橋(昭和40年7月に高梁川で初めてのPC橋を架設した)が完成するまでこれを通って井倉橋のたもとへ通じた。これはまさに九州の耶馬溪に似た観であった。

    『ほうそ』より

    “この頃に白谷橋が流失した”と、前半の内容を受けているから、これは『新見市史』にある、昭和38(1963)年7月の豪雨で白谷橋が流失した出来事を指しているとみられる。
    この流失を受けて、答滝(答瀧=答嶽)に小型自動車が通れる程度の隧道を掘り抜いて井倉橋へ通じた。そして、昭和40年7月に白谷橋を再度架設するまで、この隧道を利用した。

    ――このような内容だが、正直疑問符が付く。

    最大の疑問点は、この記述だと昭和38年以降に隧道が建設されたことになるが、実際は昭和32(1957)年版の地形図に隧道が描かれていることだ。
    また、昭和38年に流失した橋が昭和40年に架け替えられるまで、その僅か2年間のために300mを超えるような長い隧道を掘ることは、工期的にも工費的にも少々常軌を逸している。

    おそらく、『ほうそ』の記述にある“この頃に白谷橋が流失した”の“この頃”が間違っているのではないかと思う。
    隧道が建設されたきっかけは、確かに白谷橋の流失だったかも知れないが、昭和32年よりも以前の流失時(例えば昭和23年の航空写真でも白谷橋は流失状態に見えるから、この年代の可能性もある)の出来事なのではないだろうか。
    その一点を修正すれば、記述に矛盾はなくなると思う。

    白谷橋が昭和17年という早い時期から架設されたことも驚きだったが、昭和23年の航空写真でも、39年の航空写真でも、この橋は流失状態である。『ほうそ』も書いているように、この橋はよほど流失を繰り返したらしい。
    橋の流失という出口の見えない問題への抜本的対策として、絶対に流失しない道である隧道が建設されたとすると納得がいく。



     白谷橋袂の石碑の正体と、新たに発見された隧道写真
    2026/5/20追記

    どたなか私の代わりに見てきてくれる人がいないだろうかとお願いしていた、ストビューに写っていた白谷橋袂の石碑であったが、早くも(レポート公開の翌日!)願いを叶えてくださる方が二人も現れた。
    晴れの国の男氏と、マリオ氏X:@strangelove0848)である。

    画像(→)は晴れの国の男氏が撮影されたもので、題字には「白谷橋架設費寄附者碑」とあった。
    碑文にあたる部分は、寄附者名と寄付金額の羅列で、おおよそ70名程度が記されていた。
    そして最後に、「昭和十七年八月竣工」とあった。

    したがってこの碑は、私の期待通りとは行かず、隧道に関係したものではなかったことになるが、『ほうそ』以外にも白谷橋が昭和17年に初架設されたことの根拠を得た意義がある。同橋と隧道の間には補完関係があった可能性も高い。


    さらに晴れの国の男氏は、この後に新見市立図書館へ足を運ばれ、そこで隧道が写り込んだ写真が掲載された新たな文献を見つけて下さった。
    それは、樹林舎が平成25(2013)年に発行した(古写真ファンにはお馴染みの「写真アルバム『昭和』シリーズ」の一冊)『新見・高梁・真庭今昔写真集』だ。
    見つかった写真は、これである(↓)。




    石灰岩地帯の景勝地として知られる井倉峡の一角を収めた一枚。右手の絶壁は通称・答え嶽と呼ばれ、オーイと声をかければこだまが答えるという。高梁川をまたいでいるのは伯備線と国道180号。昭和52年に開通したバイパスがないので、それ以前の写真である。

    『新見・高梁・真庭今昔写真集』より当該写真のキャプション

    一緒に掲載したキャプションの通り、撮影年がはっきりしない写真のようだが、昭和52年のバイパス開通以前というのは、確かにその通りであろう。
    かつ、昭和11(1936)年に架けられたアーチ形式の井倉橋が見えるので、それよりは新しい写真ということになる。
    さらにキャプションでは、写真右手に写る高い絶壁「答え嶽」の由来に触れているが、そこに隧道があったことについての言及はない。

    が、写真には明らかに隧道が写り込んでいる!
    踏切を渡る手前のアプローチルートや、奥の白谷鉱山とみられる大きな建物群の前にある道と共に、隧道の北口部分が見えるのである!

    なお、この画像にはボールペンで謎の落書きがされている。
    まるで隧道の位置をなぞっているようにも見えるが、意図は不明だ。
    ただの偶然か、ここに隧道があることを伝えたかったのか。どちらにせよ落書きはダメゼッタイ!


    隧道の北口部分を拡大した。

    “赤矢印”の位置にある黒いものが、坑口だと思う。

    現存しているものの生殺しを食らっている、【あの憎らしい坑口】の在りし日の姿である。

    また、この坑口へ伸びていく崖際の道の下に、まるで崖錐のようにズリが堆積して見えるが、これは現在では見られない光景だ。
    今はちょうどこの辺りに井倉トンネルの坑口が存在しているのだが、それはともかく、これらのズリ山がよく目立つのは、まだ隧道や前後の道が開鑿されてからあまり時間が経っていない時期の撮影であることを示唆しているかもしれない。


    以上、献身的な読者諸兄より賜った成果である。








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