隧道レポート 国道229号兜岩トンネル旧道 前編

所在地 北海道島牧村
探索日 2018.04.26
公開日 2021.07.15


《周辺地図(マピオン)》

狩場山が日本海に落ち込んだ西海岸最大の断崖を持つ茂津多岬は、かつて国道229号の15kmに及ぶ不通区間として、人々の往来を阻んでいた。
このうち北側を占める島牧村の不通区間は、栄浜集落から茂津多トンネル北口までの7.3kmで、昭和41(1966)年に小樽開発建設部が着工し、10年後の昭和51(1976)年11月6日に開通した。昭和49(1974)年にいち早く開通していた函館開発建設部担当の瀬棚側と接続されて、住民悲願の「茂津多国道」が全通。道内交通に一大革新をもたらした。

しかし、当時最新の技術を惜しげなく投入して作られた国道だったが、自然の猛威によって、思いのほか早く打ちのめされることに。




右図は、茂津多国道の島牧側区間の全体像、栄浜から茂津多トンネルまでの地図であるが、驚くべき長大トンネル連続道路となっている。北から順に白糸トンネル(1806m)、兜岩トンネル(1371m)、狩場トンネル(1648m)、茂津多トンネル(1974m)という4本が、100〜200mおきに連続していて、地上に道を作ることの無謀を諫めているかのよう。

次に、カーソルオンやタップ操作でチェンジ後の画像を見て欲しい。
そこに青線で示したのが、昭和51年の第一次開通当時のルートである。

昭和51年当時は、茂津多トンネルの他には1kmを越える長大トンネルはなく、中小のトンネルが多数連なっていた。
北から順に、第一白糸トンネル、第二白糸トンネル、オコツナイトンネル、ツブダラケトンネル、八峰トンネル、第二タコジリトンネル、穴床前トンネルという、名前に妙に統一感がない7本のトンネルがあって、最長は822mの穴床前、最短は65mの八峰であった。
この全てが現在は廃トンネルと化しており、地図から抹消されている。

さほど古くないこれらのトンネルが廃止された原因は、平成9(1997)年8月25日に発生した第二白糸トンネルの崩壊事故であった。
現役のトンネルが突如大落石に巻き込まれて圧壊したのである。幸いにも巻き込まれた人や車はなかったが、一歩間違えれば大惨事の“再来”であった。この事故の前年、同じ国道の同じ後志管内に属する同じ地質を持つ豊浜トンネル(昭和59(1984)年開通)が、同じように大落石で崩壊し、巻き込まれた20人が死亡するという大事故があった。第二白糸トンネルの崩壊は、この豊浜トンネル岩盤崩落事故を受けて、全国的にトンネルの強度についての総点検が進められていた最中の出来事であり、点検によって崩壊の危険性が認識された直後でもあった。

道路管理者である北海道開発局は、この事態を重く見て、崩壊した豊浜トンネルや第二白糸トンネルと近い悪条件下にあった一連のトンネル群を排除すべく、より安全な地中深くへ国道を移動させる計画が立てられた。この工事は平成9(1997)年からスタートし、平成11年、13年、14年に相次いで現在使われている3本の長大新トンネルが開通したのである。
茂津多国道は、生まれ変わった。


今回探索して紹介するのは、こうして誕生した第二次ルートの兜岩トンネルに対応する旧道だ。
前後には白糸トンネルの旧道と狩場トンネルの旧道があり、なぜこれらをまとめて探索しないのか疑問に思われるかも知れないが、全て探索自体は試みており、いずれ紹介することもあると思う。
しかし、今回は兜岩トンネルの旧道に絞って紹介したい。

また、こんな声も聞こえてきそうだ。
「また北海道の海岸の旧道か。見飽きたよ」。

……そんなつれないことは、言わないで欲しい。
それに、今回の廃道探索では、北海道に限らず、どこであったとしても非常にレアだと思える場面に出会った。
それを紹介したいというのが、このレポートを書く最大の動機だ。
あまり長いレポートにはならないし、机上調査もない。とにかく、私が遭遇した“ある非常にレアな場面”を見せたい。

いったい私は、このオコツナイとツブダラケという不思議な名を持つ旧道で、何を見たか。



 オコツナイから旧道のオコツナイトンネルを目指す


2018/4/26 16:27 《現在地》

平成30(2018)年4月の第一次北海道遠征第4日目の最後の探索が、ここだった。(翌朝の1発目がここ
茂津多国道の白糸、兜岩、狩場という若い“三姉妹トンネル”の探索は、今回の国道229号の旧道と廃道を巡る旅の重要なターゲットして事前にリストアップされていた。
しかし案の定というべきか、この4日目にして計画の遅れが膨らんでおり、ようやく茂津多国道へと辿り着いたときには16時を回っていた。
この時刻から“三姉妹旧道”を全て制覇するのは不可能だと判断し、この中では最も与しやすいと予想された“次女”兜岩トンネルの旧道のみを先行探索することにしたのだった。

写真は、兜岩トンネルと白糸トンネルの間にある長さ200mの明かり区間である。
地名は、「オコツナイ」(アイヌ語で「海岸の凹部に川尻のあるところ」という意味だそう)と呼ばれている。
そして背後に見える、いかにも新しそうな岩の断面を曝け出している絶壁こそ、一連の旧道に引導を渡す重大なきっかけとなった第二白糸トンネルの崩壊現場である。
中央に見える坑口が、現在使われている白糸トンネルだ。



上の写真の位置から左にスライドして路肩から下を覗くと、廃道と化した旧国道が横たわっているのを見つけた。
前後に伸びているが、これから探索するのは手前の方向である。
無理に斜面を下って近づく必要はなく、このすぐ先にアクセスルートが用意されている。

それにしても、奥の崩壊した崖の禍々しいことよ。
ここで巻き込まれた人や車がなかったのは不幸中の幸いであったが、築25年目というまだ新しい国道トンネルが、突如ここまで破壊されてしまうという出来事は、大半の道路利用者に戦慄を与えるのに十分であった。




ところで、2枚上の写真にも写っているこの祠は、昭和8(1933)年にこの地の沖で発生した千代丸事件の慰霊碑である。
昭和8年2月24日、常習的密漁船であった岩内漁業株式会社所有の千代丸(32トン9名乗船)が、瀬棚漁業組合所属の監視船第二幸進丸(14トン5名乗船)に追跡を受けた際、これを沈没させる目的で故意に衝突し、さらに監視船に乗り込んで1名を惨殺、1名を溺死させ、辛うじて陸へ泳ぎ逃げた3名も凍死したという惨事であった。
碑は旧道の建設時に道路沿いに移転し、現道の建設時に再び移転されている。
そして現在も漁業関係者が慰霊に訪れているようで、新しい花が供えられていた。


白糸トンネル南口脇に車止めに塞がれた広い退避スペースがあり、その奥にはゲートで入口を塞がれた旧道への下降路が存在する。
自転車や歩行者であればここから簡単に旧道へ到達出来るが、開発局が設置した「立入禁止」の看板が設置されている。




16:33 《現在地》

公園の道路のように綺麗な下降路の先に、旧国道が待ち受けていた。
この丁字路の傍らにある小さな建物は、白糸トンネルの電気室である。

丁字路を右折すると、白糸トンネル旧道へ。左折すれば、兜岩トンネル旧道となる。
私は迷わず左折した。(白糸トンネル旧道へは、この翌日に挑戦した)

ところで、白糸トンネルと兜岩トンネル、そして狩場トンネルという“三姉妹トンネル”の開通時期は、それぞれ1999年、2001年、2002年と少しずつずれている。
したがって、99年から01年までの2年間は、白糸トンネル(現道)を出た国道は兜岩旧道へ繋げられており、01年から02年までの1年間は、兜岩トンネル(現道)から狩場旧道へ繋げられてるという、新旧道の混在時期がわずかながら存在した。
しかし、その際に使われた新旧道の“連絡路”は、いわゆる仮設路的なものであったようで、目に見える形では現存していない。
いま通った下降路は、その目的で使うには余りにも狭かった。



意気揚々左折すると直ちに、背丈より高いトゲ付きゲートが道幅いっぱい、
路肩の防波堤上にまで張り出して厳重に塞いでいた。
北海道開発局が封鎖した海岸の旧国道の多くが、この塞がれ方をしている。
つまり、私にとってはこの4日間、見飽きるほど見てきたということになる。

兜岩旧道へ、進入!

なお左上に見えるトンネルが今回の影の主役、兜岩トンネルだ。
全長は1371mで、“三姉妹”の中では一番短い。
そして、これから探索する旧道の長さも、トンネルの長さとほぼ同じだ。



二度と開ける気のなさそうな入口ゲートを過ぎると、すぐに1本の橋が架かっている。
わざわざ両側のガードレールを全て撤去してあるが、これも道内の海岸廃道でよく見る処置だ。なぜそうしているのかは分からない。
ガードレールごと銘板が失われ、現地には橋名を知る手掛かりがないが、資料に拠ればオコツナイ橋(全長30m)といい、下を流れる川は、この河口以外で人間世界との関わりを持たない原始河川のオコツナイ川だ。

この橋や、その奥に見える風景には、まだ険しさがなく、「なぜ巻き添えで俺まで廃止されなければならないんだ」という不満を、道が抱いていても不思議はなさそうな風景だった。
しかし、この平穏が入口だけの偽りであることを、地形図は如実に物語っている。

オコツナイ橋の上に立って見上げると、現道のオコツナイ橋と兜岩トンネル北口がすぐ近くにある。
旧道の橋の向こうは、早くも現道の喧噪が届かぬ世界となる。




この明るさ、空虚である。

開発局は、橋のガードレールのみならず、この道が開通当初からずっとに纏っていた、なけなしの覆道までも撤去していた。
開通当時の記録を見ると、ここにあったのは長さ310mの兜岩シェッド(覆道)である。

兜岩覆道は、後年に設置された防災施設ではなく、開通当初からあった。
そこには昭和50年代生まれというプライドがあった。
しかし、それでも防災力が足りないと判断されるようになったのが、20人の気の毒な犠牲と引き換えに現れた、平成9(1997)年以後の世界であった。

現役時代は、決してこのような明るい道ではなかった。
廃道となって初めて、この美しい海の眺めが生まれた。




次のカーブの先には、さらなる爽快の眺めが!




16:43 《現在地》

ズドーンと天衝く

おそらくこれが兜岩。

現道の兜岩トンネルの由来となった物体が、どこかにあると思ったが、おそらくこれ。

なんとも言えない造形である。強いて言うなら、海馬(とど)のスタイル。
しかしながら、義経北行伝説に彩られし西海岸線にある兜岩となれば、
これはもう、雷電岬の弁慶の刀掛岩の同類とみるべきであって、
おそらくは武蔵坊弁慶が兜をここに架けていったという伝説があると見た。
(マジで勝手な想像)

そして



完全封鎖

予想通り、オコツナイトンネルの封鎖が確定!

同トンネルの長さは386mとの記録があり、これを迂回して先へ進む行為の困難性が、当初より不安視されていた。

その不安を的中させてしまう、兜岩との危険な位置関係…!!




現実逃避は許されないが、先ほどから見え始めたこの岬が、
古くから西蝦夷三険岬の一として恐れられた、茂津多岬である。
岬の上には、日本で最も海面より高い位置(海抜290m)で点灯する
茂津多岬灯台があり、この数字はほぼ崖の高さである。

世界の涯(はて)なるものが、もし目に見えるところにあるなら、きっとこんな姿をしているだろう。



オコツナイトンネルは、栄浜から穴床前までの旧道にあった7本のトンネルの中では、第一白糸、第二白糸、第二タコジリトンネルと並んで、豊浜トンネル崩壊直後に行われた緊急点検においてもっと緊急度の高い「対策を必要とする」という対応方針が示されたトンネルであった。
つまり、兜岩トンネルが建設された主目的は、このオコツナイトンネルの回避にあった。
結果的に一緒に廃止されることになったツブダラケトンネルは、オコツナイトンネルに対して、「お前のせいだ!」と言いたかっただろう。

で、具体的にオコツナイトンネルの何が拙かったのか、詳しい情報は得ていないが、見るからにこれが原因と思われる巨大な岩の出っ張りが、坑門直上の崖の上で虎視眈々と下を伺っていた。
落石防止ネットで囲われてはいるが、これが万能ではないことが発覚してしまった。



16:46 《現在地》

オコツナイの【旧道丁字路】から約700m。
距離のうえではこの兜岩トンネル旧道のほぼ中間地点まで到達したのだが、見ての通り、先へ進むためには口を開けていて欲しかったオコツナイトンネルは、完全に封鎖されていた。
これまでの経験上、この坑口が封鎖されているのは予想通りではあったのだが……。予想していたからといって、この先へ進む攻略のウラワザはまだ見つけられておらず、正直、困ったなぁという感じなのである。

既述の通り、この兜岩トンネルの旧道区間には、オコツナイとツブダラケという2本のトンネルがあり、これらのトンネルが共に封鎖済だと予想されるため、どちらかのトンネルの迂回に成功出来ないと、それらに挟まれた中間の明かり区間に到達出来ないということになってしまう。

どちらかのトンネルだけでも、迂回ルートを探す必要がある!



無表情、無機能、完全空虚の壁と化してしまった、オコツナイトンネル北坑門。
扁額も銘板も取り外されていて、本当に壁でしかないのだが、こんな壁にもわずかばかりの考察の楽しみが残っていた。

トンネル名の文字タイルを貼っていた跡に注目すると、明らかに文字数は6である。
「オコツナイトンネル」とするには文字数が足りないが、これはどういうことなのか。
おそらく答えは、「兜岩トンネル」の6文字だった。

当時の記録を見ると、オコツナイトンネルとツブダラケトンネルは開通当初から覆道で接続されていて、全体を兜岩トンネルと呼称していたらしいのである。
したがって利用者の目線からは、オコツナイやツブダラケという名前のトンネルは存在せず、現道と同名の兜岩トンネルだけがあったはずだ。




そしてトンネルに接続する覆道といえば、この北坑門も同様で、窓を一切持たない完全封印の覆道によって30m以上も延長されている。
この覆道によって落石を防ぐ算段だったが、今では力不足という判定をされてしまった。

……にしても、この先の岩の壁――兜岩の付け根――を乗り越えていくことは、明らかに無理があるな……。

あとは、海側からの迂回だが…………。




絶対無理だった。

……足掻くまでもなく理解した。

残念だが、可能性が絞られてしまった。

反対側にあるツブダラケトンネルを迂回できないと、旧道中間部分への到達は無理ということになった。
これで敗退という名のナイフを喉元に当てられた。
しかし、ここで無理をすれば、もっと鋭い刀で首ごと落とされかねない。
ここはグッと辛抱して一旦撤退、仕切り直しだ!




 タコジリからツブダラケトンネルの迂回を目指す


17:15 《現在地》

This is TAKOJIRI.

ここは、アイヌ語っぽくない音だが由来不明のカタカナ地名である「タコジリ」だ。
現在の国道にとっては、兜岩トンネルと狩場トンネルの間にあるカーブひとつ分だけの短い明かり区間であり、実質的には長大トンネルの明り取り窓程度の場所でしかない。
だが、オブローダーにとっては値千金の所であり、ここから両トンネルの旧道へとアプローチすることができる。

写真は狩場トンネルを見ており、坑門の背後に半ば隠されるように旧道の八峰トンネルが見えるが、例によって封鎖されてしまっている。
狩場トンネルの旧道には八峰トンネルを始め3本の廃トンネルがあり、廃トンネルに挟まれた“孤立中間部”が2区間生じている。そのため、“三姉妹トンネル”の旧道3区間中で最も踏破が難しいと予想されていた。



だけど、いま行くのはそっちじゃない。
振り返った先にある、この兜岩トンネル旧道にリベンジだ。
先ほど越えられなかったオコツナイトンネルの南口を目指し、再び兜岩トンネル旧道へ、今度は南口から挑戦するぞ。

タコジリでは旧道と現道がほぼ高低差なく重なっており、アプローチは極めて容易いが、オコツナイにあったようなアクセス路はなく、ガードレールによって完全に切り離されている。
私は自転車ごとガードレールを乗り越えて旧道へ。




兜岩トンネル旧道へ南口から入ると、すぐに覆道がある。
『後志の国道』(平成元年/小樽開発建設部刊)によると、これは赤岩覆道という名前で、やはり旧道開通当初からの構造物だという。
この覆道はトンネルに繋がっており、そこがツブダラケトンネルである。
そして、赤岩覆道、ツブダラケトンネル、オコツナイシェッド、オコツナイトンネルという一繋がりの4つの構造物を総称し、利用者には(現道のトンネルと同じ)兜岩トンネルの名前で案内されていた。

なお、この位置から既に“兜岩”の偉容が見えており、目指すべきエンドが遠くないことを理解する。(直線距離で約600m)
しかし、おそらくツブダラケトンネルも封鎖されているので、これを迂回してオコツナイシェッドおよびオコツナイトンネル南口へ辿り着くことが、この探索の目標だ。
ここから見る限りは、ツブダラケトンネルがある岩場はオコツナイトンネルのそれよりはだいぶ与しやすそうに見える。突破可能であることを願いたい。



赤岩覆道の南口。
西日を受けてオレンジ色に発色している。
北海道の覆道でよく見る擬石タイル張りの前面だが、風化のためにタイルの半数が脱落し、6文字分の扁額タイルも全て脱落していた。「兜岩トンネル」と書かれていたはずだ。
さらに壁の右側部分に銘板があった跡もあるが、これも消失していた。

この先のトンネルが封鎖されているなら、敢えてここを封鎖する意味を感じにくい長さ132mの短い覆道であるが、杓子定規に槍付きの高いゲートで閉ざされている。

チェンジ後の画像は振り返って撮影した。
ここに見える分が、現道にとってのタコジリの全てだ。




17:18 《現在地》

やっぱり塞がれていた。

ツブダラケトンネル、全長153m。
海蝕洞の脇より地中に入っていくのが見えるが、追跡不能。

この封鎖を確認したことによって、ツブダラケトンネルとオコツナイトンネルの間にあった短い明かり区間が、他の道路と全く繋がらない完全な孤立状態となっていることが確定した。

数ある廃道の中でも、私は孤立区間というのが強烈に好きである。
いくら小さく短い区間であるとしても、そうした孤立区間の新たな通行人になることに強い欲を覚える。
囚われの姫君を助け出すことは、古今東西、英雄なるものの崇高な使命だ。オブローダーにしか出来ない(価値を見出さない?)仕事を、私はしたい。



ツブダラケトンネル迂回を目指し、幸運な位置に用意されていたスロープから海岸へ下りる。
その際に振り返ると、防波堤に一体となった路肩擁壁が、400mほど離れた狩場トンネルおよび八峰トンネルまで美しい曲線を描いて伸びているのが見えた。
昭和51年に開通した最初の国道の護岸を、いまの国道も活用している。
縁の下の力持ちだ。




これからこの岩場を波際に迂回して越えようと思う。
ここから見る限り、いい具合に波蝕棚の平坦な部分が通路として使えそうである。
波は結構荒れているが、いまは干潮なのか、海面が低いように見える。

もっとも、いま見えている部分は入口に過ぎないと思う。
問題は、回り込んだ向こう側がどうなっているか。
仮に反対側の道を見ることが出来たとしても、辿り着けるかはまた別問題だ。



この写真は、上の写真の同じ立ち位置からさらに左を撮影したもので、ここに写っている尖った岩に、地形図は「瓦斯燈島」の注記を与えている。
名付けられるほど変わった形の岩とは思えないが、もしかしたら昔は違った形をしていたのかも知れない。

なお、これは後から写真を見返して気付いたのだが、この写真には年代の異なる2つの“人跡”が写っていた。
1つは、岩場を掘鑿して作った人為的な入江である袋澗の跡と見られるもので、おそらく明治から大正時代までのニシン漁の遺跡である。
そしてその隣にある、所々がコンクリートで整形された平坦な土地は、旧国道建設の際に物資や人員を上陸させるために設けられた仮設上陸場の跡と思われる。

『後志の国道』によると、栄浜〜茂津多トンネルの工事では、途中のオコツナイ、ツブダラケ、穴床前、滝床前という4箇所に上陸場を作ったとされており、この場所がツブダラケ上陸場だったと思う。翌日の探索でもオコツナイで同様の構造のものを確認した。




磯に下りた途端、もの凄い海風だッッ!!!

ここはツブダラケトンネルを巻く岩場であるが、顔をしかめて歩いている。

潮の飛沫が目に入って痛い。地形的には問題なく前進できているが、風の強さに恐怖を覚えた。

だが間もなく先端を回り込むことができそう。


さあ、どうなってる?!




アレ?

道が、見えない?




これは、旧道の現役時代の地形図だが、

ツブダラケトンネルとオコツナイトンネルの間に、覆道の部分が描かれている。

覆道といえば、地上に構造物が露出していると思ったのだが……?




まさか、道を埋め尽くして崩れている?!

地形図に「だるま岩」の注記がある岩の塔の陸側、ちょうど道が描かれていた場所に、
崩壊直後のような風合いの土砂が、高く山盛りになっているのが見えた。

まさか、廃止後に大崩落に見舞われたというのか?




道は岩の向こうにちゃんとあった。

しかし、本当に崩れていた!




これは望遠レンズで覗いた景色だが、

旧道は無事ではない!

オコツナイトンネルの南口付近が、大規模に崩壊して埋れているのが確認された。



皆様、ご起立願います。

そして、私と一緒に、国土交通省北海道開発局に感謝の敬礼を捧げましょう。

前説で述べたとおり、この区間の旧道を廃止して新しい兜岩トンネルを建設した経緯は、いわば予防的措置であった。
ここにあった旧道のオコツナイトンネルは、豊浜トンネルの崩壊事故を受けて行われた平成9(1997)年の緊急点検で崩壊の危険性が指摘され、
何らかの対策が必要であると判定された結果、平成11年7月に新道の付替工事が始まり、13年11月に開通したのである。

明らかに、いま見えている崩壊は、平成13年11月以降に発生したものだ。
もし新道の開通があと数年遅れていたら、豊浜トンネルや第二白糸トンネル事故の再来となっていた可能性がある。
事故をギリギリのタイミングで回避出来たのだとしたら、これは見事なファインプレーではないか。

しかし、旧道化後の崩壊であったために、崩壊した事実が知られず、
ファインプレーがあったことも気付かれていない可能性がある。

私は、予想外にも崩壊していた旧道を前に、上記のことへと思い至り、
気付けば、爆風のような海風を背にしながら、長い黙礼を捧げていた。




次回、ありがとうを胸に、城塞のような旧道に挑む!



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