道路レポート 林道樫山小匠線 第9回

公開日 2015.5.14
探索日 2014.3.27
所在地 和歌山県那智勝浦町〜古座川町

書き換えられた、案内板


2014/3/27 11:38 《現在地》

白洞への約20分間の寄り道を終えて、支線と本線の分岐地点に戻ってきた。
これからまた小匠川沿いの本線を進む。
目的地樫山まで、もう残り推定800mほど!
いったい樫山はどんな場所なのだろう? 特異な道の終着点に、私はどんな景色を期待して良いのか。

なお、現在はそうではなくなっているが、この道が開通した当時、車の場合はこの道以外で辿りつけない集落だった。
そしてこの道は那智勝浦町の小匠集落から始まっていたが、樫山は古座川町の集落であって、樫山集落の住民が自分の町の他の集落へ出るためには必ず隣町を経由する必要があるという、そんな不便な状況がほぼ無人になるまで続いていたと見られている。



本線を上流へ走り始めてすぐ、隣の小匠川がこれまでにない怒濤の風景を見せていた。
谷の両側は屏風のように切り立った黒い崖に狭められ、その底には未だ日射しが届いていない。
小匠川の全水量が幅2mに満たない岩の隙間に収斂する部分を核として、その前後50mほどが白い飛沫と青黒い深流の鬩ぎ合う怒濤の水流世界と化していた。

小匠峡などという名前はどこにもないが、そんな風に名付けて地図に書き記したくなるような素晴らしい風光である。




水勢の極めて激しい狭窄部の上流端辺り。
道もこの堅牢なコンクリート擁壁でなければ、数年で完全に削り取られて消滅してしまいそうだった。

思えばこの路面の鋪装といい、コンクリートによる鉄壁の擁壁といい、いずれも「出合橋」辺りから急に始まったものだ。その変化の理由は、単にこの区間の完成が新しかったからとも考えられるが、別の可能性として、出合橋からこちら側は樫山集落を擁する古座川町の区域だからというのも考えられる。つまり、古座川町は樫山の住民のために本腰を入れて道を整備したが、那智勝浦町はほぼ隣町の住民だけが利用する道の整備にあまり熱心でなかったかも知れない。

「道路法」は、市町村道に限って、市町村の外にも自らの市町村道を指定して整備できることを定めている。例えば、A村の隣にB村があり、B村に鉄道の駅が開業したとする。A村はB村に出来た駅へ通じる道を整備したいが、B村はその道をあまり整備したいとは思わないかも知れない。そんな場合を想定し、AB両村の協議のうえで、B村にA村の村道を指定たり、A村の予算で整備したりが出来るのである。樫山の道路についてこのような市町村道の取り決めが活用されたことがあるかは不明だが。






幸せな画像に

挟まれてみました。


もちろん、

現地へ行けば、

あなたもこの空間に、

身を置けるのですよ。



なんという幸せな道だろう。
この文句なく美しい峡谷も、私にとっては、
道がなければ殆ど意味を成さない。

道があるからこそ、この景色を眺めた誰かを想像することができ、
その誰かが見収めをした風景を、もう一度見たいと思えるのだから。



おおっ!

随分と久しぶりに、
「高さ制限2.2m」の道路標識出現!

道路標識自体本当に久々だけど、

どうやらこいつは、アレ、だな。



11:42 《現在地》

アレ(=隧道)でした!

この探索では4本目、本線上では3本目となる隧道だ。
これまでのものと同じく、素掘かつ狭隘な隧道であることが、
坑口を一目した時点で了解された。しかし、坑口前はこの道では極めて希少な
辛うじて軽トラ同士がすれ違い出来そうな余地があった。




隧道は短く、そして狭かった。これでもなんとか普通車が通行できる事は、過去に実証した人物がいるので間違いないが、やはり普通は軽トラ・軽自動車サイズの隧道と評されるべきだろう。
こんな門戸に前後を挟まれた道だからこそ、必要以上の道幅を設ける道理がないともいえる。これまで見てきた山手川も白洞も、人の住んだ村は皆、このような隧道を一つ以上はくぐらなければ辿り着けない場所であった。

それより面白いのは、このわずか20mほどしかない短い隧道が、前後の地上区間とは違って、凄い急勾配になっていることだ。
写真でもその登りっぷりが分かると思うが、おそらく10%くらいある。

これはまさしく、原始的な水路式水力発電所の原理である。川の蛇行を隧道でショートカットするものだから、その分だけ短い距離で河川勾配を消化しなければならなくなったのである。普通は地上部分の勾配と擦り合わせて吸収するのでこうも目立たないが、隧道内にだけ転嫁した結果がこれだよ(笑)。たぶん設計者は、道路線形設計の素人さんだったのではなかろうか。



写真だと少し分かりづらいのが口惜しいが、反対側に出て隧道を振り返ってみると、まるで地下へ降りていく斜坑のような下り勾配で始まっているのが分かる。

実際は地下に降りていくどことか、あっという間に反対側の川縁に突き抜けてしまうのであるが、「曲がるときもまっすぐのときも一緒にいるよ」と誓い合った川と道なのに、道がほんのちょっとだけズルをして、それでも何食わぬ顔でまた川の隣の定位置に戻ってくるのが、可愛らしいではないか。
…なんか、私の想像力が変な方向に発揮されている気がするが…。

なお、写真では隧道へ左折せずに直進する道が見えると思うが、これは旧道というわけではなく、その奥に家屋か何かがあったようだ。
行き止まりに小さな地割りを区画する玉石の石垣が残っていた。




隧道を過ぎて少し進むと、どういうわけか鋪装が跡絶えた。
そしてそれと同時に、路上が面白い状況になっていた。

道が数十メートルの長さをもった大きな水溜まりになっていた。

…という表現は、確かにこの場面の伝えてはいるけれど、得も言われぬ美しさと儚さを持ち合わせた状況までは、表現できていない。

ここに出来た巨大な水溜まりは、水溜まりであっても、溜り水ではなかったから。




少し上流の山側から、いつものように道へ直接注がれた滝の水の一部が、一段高くなった路肩擁壁のために川へ注ぐことが出来ず、路上を小川となってこちらへ向かって流れていた。

だから、普通の水溜まりのような泥を含んだ濁り水ではなく、サンショウウオでも潜んでいそうな明るい、浅い、透明な、水鏡のような、清楚な流れとなって、路上に新鮮な風景を作り出していたのである。

そして私の自転車は、“再び” 水面を切って走るのだった。

数時間前のそれが、秘境樫山へ挑む登竜門の試練であったのならば、今度のそれは、樫山が私を迎え入れるための優しい儀式のようだった。
“2度目の水渡り” は、本当に輝いた風景だった。



相も変わらず続く回廊のような峡谷と道。

半日も聞き続けた水の音は、多分当分耳に残り続けるだろうし、おそらく今晩の床でも蘇ってくるだろう。

名も無き小さな橋が現れたところで、既に路上の様相が、少し前までの廃道のそれではなくなっていることに気付いた。
GPSの画面を見ると、「樫山」の文字と8軒ばかりの家屋が一所に集まっている場所は、もう道なりに進んでも200mと離れておらず、もし右側の低い岩尾根を強引に乗り越えてしまえば、すぐさま待ち受けている筈だった。

ここまで近付いても集落の気配を見せないところに、不敵さがある。
私は、気心知れた遊び仲間が用意した会心の悪戯に、それと知っていて足を踏み込むときのような、晴れ晴れとした期待を感じていた。

見せて貰おうじゃないか。 この愛すべき道が目指した場所を。



刻一刻と迫るゴールに、高まる一方の期待感。

その傍らで、おそらく最後のものと思われる“罠”が、虎視眈々と私を待ち受けていた。

……

阿呆。

今さらこんな初歩的な“罠”で私が獲れると思ったか?
確かに、渓流に渡された天然の丸太橋には浪漫があり、美しさがあり、そして私を誘う引力がある。
そして現にかつての私はこの手の丸木橋に幾度となく捕らえられ(おいおい)、そしてある時は手酷い落伍によって負傷し、その後半年近くも探索の力を弱めたことがあった(マジで)。

だからもう俺は迷わない。
この手の丸木橋には近付かないと、あの日心に誓ったんだ!!


デーン!! 惨・劇・回・避!




11:54 《現在地》

最後の罠を高笑いとともに華麗にスルーした私の前に、全く唐突に袋小路の行き止まりが現れた。

マジでそう見えたのだが、よくよく近付いてみれば、ここで道が直角に右に折れ、これまで随伴していた右の尾根を貫く覚悟を決めたらしかった。
つまり、このカーブを過ぎれば、いよいよ樫山の腹中に入るということらしい。

今さらに申し訳程度のAバリが現れたけれど、そんなものよりも私の心を突き動かしたのは、樫山側から私が来た道を逆進しようとする人に向けて設(しつら)えられた、次の立て札だった。(矢印のところ)



“ 剣神社 →
 ←小匠へ(道狭い通行不能 ”

泣かせる。

「道狭い」という表現では、多分無知なドライバーの進入を防ぎきれなかったのだろう。
その結果、どんな惨劇が発生したのかは怖ろしくて考えたくないが、結局、「通行不能」という表現が無難だということに書き直したものと思われる。
本当は「通行不能」なんかじゃなく、道は多少荒れていてもちゃんと血を通わせていたのであるが、確かに一般的な感覚の「道狭い」だけでかたづけられては堪らない状況ではあった。
現状では、歩行者と、自転車やバイクのような2輪車までしか通り抜けが出来ない。

こんな味わいある手作り看板に出迎えられて、これより私…



樫山に入るっ!




終わりの地、樫山。



「 うわぁ、まぶしい。 」


それが誰にも聞かれなかった、樫山での第一声。




日が昇る前からずっと谷の中に居た私が、今日という日の半分が終わろうとする時間になってようやく辿りついた、

とても明るい、空いっぱいの空だった。

そしてその下には、いまにも細い煙を立ち昇らせそうな小さな屋根が見えていた。

これまで親しんだ道を無視するかのように、突然目の前に現れた立派(といっていいだろう)な橋は、

見慣れた白い欄干で、秘境に至った心持ちを楽しみたい私を少しだけ萎えさせはしたけれど、

ともかくも私は、防災ダムの厚い壁を貫き、水濡れる死闘をも制して、目的地へ辿りついた事を知る。





当然、このあとの私は樫山の地平に飛び出していくのであるが、
その先の模様は次の「最終回」に譲るとして、ここでは先に、
樫山集落について私が知り得た机上調査の成果を紹介しておこう。

なお、これらの情報の多くは、私も探索前に読んでいたものであるので、
あなたが先にこれを読んでも、探索中の私の心情から離れる心配はないだろう。



樫山を知る資料1: 「紀伊続風土記」に見る近世末頃の樫山村



「紀伊続風土記」は、紀伊藩が江戸幕府の命を受けて19世紀の初頭に編纂した紀伊国の風土記であり、全195巻からなる。
藩内の村々について郡毎に個別の記述があり、樫山村は牟婁郡の中で紹介されている。
内容は「KEY SPOT」に現代語訳されたものが掲載されているので、そこから転載した。
近世における当所の風俗について記した貴重な内容である。


樫山村
小匠村の戌の方45〜46町にある。小名山手川は谷を異にして本村の艮(うしとら)34町にある。
当村は三前郷の古座浦からわずかに3里であるが、僻地なので風俗は太古のようである。土地の人は酒を御みきと称して正月と神事の時の他に飲むことはない。最近まで女子が嫁ぐときは薪木を戴いて適したとか。村中で羽織を着ることはない。荘屋のみ羽織を着るので荘屋殿羽織と称して規模とする。その他推して知るべし。

さほど詳細な内容では無いが、「僻地なので風俗は太古のようである」という表現が全てを代表している感じがするし、僻地の刺激に乏しい生活を酒で紛らわせることさえも許されない赤貧の村といった印象を受ける。生業についても記述が無いが、薪が嫁入り道具の代わりになるくらいだから炭焼きであったろうか。
藩の学者たちもあまり深入りできないような山奥だったのか知らないが、「その他推して知るべし」では、とりつく島もない。山手川など小名(字のこと)として名を挙げられただけである。



樫山を知る資料2: 「角川日本地名大辞典」に見る樫山村の衰退



当サイトでもお馴染みの「角川日本地名大辞典」の三重県の巻にも樫山は紹介されている。
近世までの樫山村と、近現代の大字樫山の2項目が収録されており、内容も充実しているので、要点を年表形式で転載しよう。


樫山
  • 太田川上流の山間に位置する。地名は、樫の木の多い山の意によるという。
  • 近世の樫山村の生業は、谷間の僅かな水田を耕し、シイタケ・薪炭を生産。砥石の産地として著名だった。
  • 明治6(1873)年 戸数18、男58、女47(計105)。
  •  〃 11(1878)年 樫山小学校開校。
  •  〃 22(1889)年 東牟婁郡高池村の大字となる。
  •  〃 24(1891)年 戸数23、男70、女59(計119)。
  •  〃 33(1900)年 東牟婁郡高池町の大字となる。
  • 大正3(1914)年 樫山小学校が高池小学校の分教場となる。
  • 昭和22(1947)年 高池中学校樫山分校開設。(26年に古座中学校樫山分校に改称)
  •  〃 30(1955)年 世帯数19、男39、女47(計86)。
  •  〃 31(1956)年 東牟婁郡古座川町の大字となる。
  •  〃 43(1968)年 古座中学校樫山分校 休校。
  •  〃 50(1975)年 高池小学校樫山分校 一時閉鎖。
  •  〃 57(1982)年 世帯数 2。
  • 近年那智勝浦町小匠より自動車道が通じたが、過疎化は進行し、振興策として勧(ママ)められた養蚕も思わしくなく、砥石の生産も行われなくなった。

シイタケ、薪炭、砥石などを産出し、僻地ではありながら一個の独立した村落として長期にわたって存続してきたらしい樫山の衰退は、過疎問題の典型であったようだ。
明治中頃までは人口も安定か微増で推移していたようだが、昭和30年までに緩やかな減少に転じ、それから27年後には「世帯数 2」というのっぴきならない状況になっている。
行政も自動車道の開削や養蚕の定着などの振興策を打っていたようだが、力及ばずといったところか。
もちろん、ここに記された自動車道というのは、私が今回探索した道の事を指している。
また、最後に残った2戸が離村した時期は定かでない。



樫山を知る資料3: 小説「炭焼と魚」に見る昭和40年代の樫山



「炭焼と魚」は、探鳥サークルとして昭和52(1977)年から1997(平成9)年頃まで活動していた「烏合の会」の会報紙に、平成3(1991)年前後に連載されていた寺嶋経人氏による小説で、全13章からなる。
内容は、紀伊半島の僻村に赴任した教員と、そこに暮らすある炭焼き稼人の交流を味わい深く描いたものだが、書き出しが「今から約二十年ほど前に、私は和歌山県の古座川町、高池小学校樫山分校なる僻地の学校に赴任し、ここで四年間を過ごした。昭和四十四年四月一日から昭和四十八年三月末日までの四年間である。」とあることからも分かるとおり、舞台を昭和44(1969)年から48年の樫山集落に設定している。著者の注記に、「この作品に於ける固有名詞は、事実に即しているが、登場する人物および内容はあくまでフィクションであることを改めてお断わりしておく。」とあるので、フィクション作品であるが、詳細に描き出されている樫山集落の様相は、上記1、2の資料の内容や、私が探索によって見聞きした内容と一切矛盾しないことから、著者が実際に樫山での綿密な取材や体験を通じて執筆したものと私は判断している。
それでも著者はフィクション作品としているので、樫山についての記述が全て事実とは限らないものの、参考として、本文に書かれている樫山集落に関わる内容を(登場する順に)列挙してみた。

小説「炭焼と魚」に描かれた昭和44(1969)年〜48年の樫山集落
  • 樫山へ至る道路は2本あり、1本は古座川町の中心部から、1本は那智勝浦町の小匠から通じている。ただし前者は峠の上までしか開通しておらず、そこから3〜40分歩いてようやく樫山へ辿りつける。  ………@
  • 人家は7戸で人口17人くらい。
  • 電気は昭和33(1958)年に点灯した。
  • 炊事にはプロパンガスを使用。那智勝浦のガソリンスタンドで購入する。
  • 風呂の燃料には薪を使用。
  • 村民全員が山林業に従事(炭焼き含む)。
  • 高池小学校樫山分校の生徒は2名。
  • 村を定期的に訪れるのは、2日に一度配達に来る郵便局員のみ。
  • 村には電話は赤電話が1台だけ設置されていたが、滅多に利用されない。
  • 小匠へ出るためには防災ダムをくぐる必要がある。  ………A
  • 村では4輪の自家用車よりもオートバイが普及していた。命知らずの運転をすれば、村から那智勝浦の海岸までオートバイで片道40分。
  • 村で病人が出ると、バイクの後に荷台を付けて、その荷台に病人を括りつけて、太田(小匠の近く)の医者へ運んだ。

これらの情報のうち、特に信憑性を裏付けていると感じるのは@とAである。

右図は昭和40年と現在の地図の比較だが、確かに昭和40年当時は古座川町側から来る林道が樫山集落の2kmほど手前の山上で終わっており、そこから集落まで歩けば3〜40分と思われる。( この道はその後に開通し、樫山集落跡へ至る現在のメインルートになっている)
これに対して昭和40年当時から樫山まで通じていた唯一の車道が、今回私の探索した道であった。

こうした事情は、現地の綿密な取材無くしては分からないことと思われるのだが、さらに極め付けはAについての記述である。
作品中、樫山で長雨に降り込まれた主人公が、次のように述懐するシーンが登場する。

雨勢は衰えるどころかますます激しく、住宅の雨戸に弾け、渦巻く風が家全体を揺すぶっては駆け抜けて行く。この調子だと、たぶん明日からはこの地も陸の孤島になってしまうに違いあるまい。食料のためおきはどうだったろうか?などということがふと頭を掠める。太田川線を車で下るには、小匠という下流にある防災ダムを通過しなければならない。道路はダムのコンクリート壁を貫徹して下っているのであるが、大雨で雨量が増せばシャツターが降りて、道路は水中に没してしまう。

「太田川線」という呼び方は主人公が便宜で名付けたとしているもので、本来の路線名とは異なる模様だが、「小匠という下流にある防災ダムを通過しなければならない。道路はダムのコンクリート壁を貫徹して下っているのであるが、大雨で雨量が増せばシャッターが下りて、道路は水中に没してしまう」という描写は、日本広しと言えども、樫山の住民の外には体験できないものではなかったろうか! 

このオンリーワンの述懐を読めただけでも、私はこの小説を心の底から評価するが、折角なのでお時間が許す方は全編をお読みになる事をオススメしたい。物語の部分も含めて私はとても満足した。嬉しい事にこの小説は「き坊の棲みか」というサイトで公開されている。→【炭焼と魚】







よし! 樫山についての予備知識はみんな十分だな。

それでは、あの青空の下へ戻ろう。