道路レポート 国道231号雄冬岬旧道 上陸作戦 第1回

所在地 北海道石狩市
探索日 2018.05.24
公開日 2026.02.08


問う。

君は雄冬岬へ行ったことがあるか?

「YES」の人へ、再度問う。

それは、平成28(2016)年1月19日(火)午前7時より、前か、後か?



この2つ目の問に「後」と答える人は、何人もいないと思う。

なぜなら、平成28(2016)年1月19日(火)午前7時に、辿り着ける“道”がなくなったから。



ならば、ヨッキの出番である。

“西蝦夷三険岬”の一画、雄冬岬が、私を呼んでいる!


そんな、とってもシンプルな動機と目的だけが、この探索にあった。





というわけで、今回は雄冬岬(おふゆみさき)

まずはこの岬がどのような場所であるのかを、少し古い資料ではあるが、安定と信頼の『角川日本地名辞典』から教えて貰おう。

雄 冬 岬

石狩地方浜益村にある岬。日本海に突出し、北には留萌(るもい)地方増毛(ましけ)町雄冬の市街地が続く。雄冬岬がどの地点を指すかは明確ではなく、昭和45年の5万分の1地形図では、雄冬市街地と浜益村千代志別の中間に雄冬岬(タンパケ)と記している。松浦武四郎は「西蝦夷日誌」に「タンパケ(岩磯)、名義、海猟に来りし時、休息所にする故号く、此処西海岸第一の岬也」と記す。

岬周辺は増毛山地が海岸に迫り、輝石安山岩・かんらん石含角閃石などが高さ100〜200mの海食崖をつくり、奇岩や滝が多く、西蝦夷三険岬の1つとされ、航海の難所であった。昭和33年から国道231号の延長工事が進められたが、雄冬を挟んで浜益村千代志別〜増毛町大別苅間約26kmが開道工事の中心となり、ガマタ・タンパケ・雄冬岬などのトンネルが掘削され、昭和56年11月に開通、陸の孤島は解消された。

『角川日本地名辞典』より

印象的な“西蝦夷三険岬”の称は、北海道が蝦夷地と呼ばれていた明治以前からこの地方へ進出した主に和人の船乗りたちの間で恐れられた、三つの海の難所である。
茂津多岬神威岬雄冬岬を指し、前者二つを私は探索済で、レポートも発表済である。
その最後に攻略を試みたのが、この雄冬岬であった。

『角川』の解説にもある通り、雄冬岬の一帯はかつて札幌と留萌を結ぶ国道231号の不通区間として往来を阻んでいたが、昭和33年より始まった長い開道工事の末、昭和56年にようやく開通し、初めて雄冬岬へ陸路が達したのであった。

(↓)次に掲載する地形図は平成4(1992)年のもので、昭和56年に全線開通した国道231号の当初のルートが描かれている。
途中に存在したトンネル名と竣功年、全長も、手元の資料から記載している。


地形図の陸地が最も西へ張り出しているところに、「雄冬岬」の注記がある。
そしてその一帯の等高線の密度は、本当にヤバい。海岸線から最大400mくらいの高さまで、崖のような傾斜で描かれている。
今ではあまり聞かなくなったが、古い資料だと雄冬岬の景観を形容して、“西の知床”と書いているものがある。なるほど、陸路がなければそんな感じする地形かもしれない。

だがともかく、この時代には既に国道が通じている。
昭和56年開通というと、昭和52年生まれの私よりも若い道路なだけあって、地図上での存在感もガッチリとしている。
いわゆる“酷道”といった感じでは全くない。
一見して必要そうな場所には全てトンネルが配置されており、中には2kmを越える長大なトンネルもある。

「充分に、良さそうな道じゃないか。」

「これでなにか困ることでもあるのかい?」

北海道外の整備感覚から、そのような印象を持つ人もいると思うし、正直私もまだその感覚が抜けきらない一人だ。

だが、問題はあったらしい。

(↓)次に見ていただくのは、同じ場所の最新の地理院地図である。
カーソルオン(タップ)で、先の平成4年の地形図に変化するので、ぷにぷにして見較べてみて欲しい。


なっげーーーーーーーーーートンネルになってる!

この現国道の平成28(2016)年に開通した浜益トンネルの長さは、4744mに及ぶ。

これは北海道内の道路トンネルとして、国道336号のえりも黄金トンネル(4941m)に次ぐ第2位の長さを誇る。

だが、この爆長いトンネルと引き換えに、雄冬岬を通る道路が消えている!

歩道さえなく、完全に消えてしまっている!!



実はこの超長大な浜益トンネル、ゼロから掘られたものではない。

(↓)トンネルの周囲を拡大して描いた次の図を見て欲しい。


浜益トンネルとは、従来のガマタトンネルと雄冬岬トンネルが、新設の「新雄冬岬トンネル」によって地中接続された姿である。

さらにそれだけで飽き足らず、ガマタトンネルの南側に隣接している千代志別覆道と千代志別トンネルまでを一体化させて、この4744mという道内2位の長さになっている。

従来の構造物や、近隣のトンネルまでをまとめてしまうのは、トンネル長さ競争ではちょっとズルい気もするが、接続されたトンネルごとに別々の名前だと管理上いろいろと不便なのだろう。
開発局が公表している『現況調書』などの公式記録でも、1本の浜益トンネルとして計上されている。

この既存トンネル同士を新設のトンネルで接続して1本化するという、トンネル内分岐を日常茶飯事にする開発局らしい変態的手法のおかげで、従来はガマタトンネルと雄冬岬トンネルの存在していた明り区間が、まるごと廃道になった。

結果、ガマタトンネルの旧北口と、雄冬岬トンネルの旧南口、そしてタンパケトンネルが、私たちの交通の世界から切り離された。地形図注記上の「雄冬岬」地点と共に……。



見にいかねばなるまい。



……とまあ、私はとても興味を感じて、見に行くことにしたのだが、皆さまはどうでしょうか? 

ぶっちゃけ、私が探索を試みた2018年5月時点だと、廃道になってから2年しか経ってなかった。
それだけ新しければ当然だが、現役時代に国道として利用している走行動画がyoutubeにあったし(ちゃんと今もある、敢えてまだ紹介はしないが、探せばすぐ見つかるだろう)、当時はストビューでもまだ見ることが出来ていた。

さすがにそこまで新しいと、現道と変わらなすぎてツマラナイのではないかと、そう感じる人も少なくないと思う。
その感じ方も、もちろん否定はしない。
こんな「つまらなそう」なことに、血道を上げて、血河を渡り、辿りつこうとする私のひょうきんさを笑ってほしい。


まずは、偵察から…。


 まずは足慣らしの「二ツ岩トンネル旧道」へ


2018/5/24 10:58  《現在地》

札幌市の起点から国道231号をひた走ること72kmで、石狩市浜益区の中心地へ達する。
一帯は平成の合併まで浜益郡浜益(はまます)村であったところで、合併特例法の規定で浜益区となった。
(令和8(2026)年4月1日に特例を廃止し、地名からも「区」が省かれる予定だ)
そこからさらに10kmほど日本海に沿って北上すると、この写真の石狩市浜益区床丹(とこたん)の小集落に達する。

浜益からここまでも暑寒別岳連峰の裾野が海へ迫る山がちな地形だが、トンネルを要するほどの険しさはなく、ときおり丘陵を越えたりしながら上手く“いなし”ていた。だがこの先は、いよいよ地形が牙を剥いてくる。
国道231号が昭和28(1953)年に二級国道札幌留萌線として指定された当時、車が通れる道があったのは、この床丹までであった。
この先の留萌方向は、増毛町の雄冬集落まで、8.2kmに及ぶ自動車交通不能区間になっていたのである。

私はここに車を停め、自転車を下ろした。
これから雄冬岬の旧道を巡る探索を行うが、まずは前哨戦に立ち向かおうと思う。



ここ、床丹から北上すると間もなく、現国道は全長1793mの二ツ岩トンネルを迎える。
同トンネルを抜けたところが千代志別(ちよしべつ)で、旧浜益村最北の集落である。

前述した8.2kmの自動車交通不能区間の解消は、床丹〜千代志別(2.7km)、千代志別〜雄冬(5.5km)の2段階に分けて行われており、前者は昭和39(1964)年の着工から11年の歳月と17億円を投じて昭和49(1974)年に開通した。(後者は昭和56年開通)
今から探索するのはこの昭和49年開通の国道である。
この区間内には全長587mの二ツ岩トンネルと全長120mのつばめ岩トンネルがあったが、平成14(2002)年に現在の1本の長い(新)二ツ岩トンネルに置き換えられたことで役目を終え、地図からも消えて廃道となっているのだ。

雄冬岬へ挑むにあたって、まずはこれをやっつけない謂れはない。
探索開始である。



10:58

床丹バス停前から留萌方向へ国道を走り始めると、直ちに床丹覆道が現われた。
全長約700mのこの覆道は、平成10(1998)年から平成22(2010)年にかけて順次建設された記録がある。
つまり、部分的には旧道時代の末期から存在していた構造物である。

(チェンジ後の画像)覆道の行く手を望遠すると、そそり立つ海食崖の下を通る旧道の姿がよく見えた。
海上に大小二つの岩場が並んで浮かんでいるが、あれがトンネル名の由来となった二ツ岩である。地形図にも注記がある。



床丹覆道内部。
ここに入った時点で、シーサイドドライブの風景は、しばしのお預けとなる。
床丹覆道南口から浜益トンネル北口まで7.5kmの区間には、トンネルでも覆道でもない“空が見える道路”は、千代志別のわずか1箇所150mしかない。
あの奥只見シルバーラインを彷彿とさせるようなトンネル覆道またトンネルの大連鎖によって、景色を犠牲に、災害への安全を確保しているといえる。

私はこの強制的な連鎖に抗うぞ。



11:14 《現在地》

覆道に入って700mで、そのまま途切れず二ツ岩トンネルへ入る。
扁額や標識を見せる余地がないせいで、北上するドライバーにはこのトンネルの名を知る手掛りがない。
トンネルが近づくと、覆道の外側には分岐していく旧道の路面が現われる。

(チェンジ後の画像)
トンネルの坑口前に覆道の側面通路があり、車も出入り出来る構造になっているが、探索時は鋼管のバリケードや小さな土嚢が邪魔をしていた。
自転車を持ち上げて外の旧道へ。



灰色の世界から、原色の世界へ、帰ってきた。
少し風はあるが、温かく天気が良いので、外はとても良い気分だ。

行く手には、これまで北海道の海岸沿いにある廃止旧道を集中的に探索してきた私にとって、あまりにも見慣れた、見飽きたと言っても良い、金網フェンスの封鎖ゲートが立ちはだかっていた。
書いてある警告の内容も、いつもと変わらない。開発局の管理用地であることが書いてある。
密漁防止の観点から、人目が及ばない海岸を解放しておきたくない地域の事情があるのだろう。北海道に限った話ではもちろんないが。



どうせ脇が甘いんだろ。

ペロッ。

にがっ! 

という感じで、甘くはなかったが、ワルニャの手を借りまして、二ツ岩トンネル旧道へ。



11:05

うん、イイネ。

こういうところを自転車で走りたくて北海道に来てるまであるからね(←困ったヤツだ)。

この旧道入口から、旧二ツ岩トンネルの南口までは、約1kmの道のりが想定されている。
自転車がないと、ちょっと長いかな…。
どうせ、往復することを強要されると思うので……。



ガードレールの類が、全て撤去されていた。
同じ様な立地にある廃道ではよく見る光景である。
そのおかげで、現役当時以上に、海を遮られない風景を楽しめるのである。

この区間が現道に置き換えられた理由は、この後のメイン探索の舞台である浜益トンネルと同じで、防災対策である。
平成8(1996)年2月に発生した豊浜トンネル崩落事故と、翌年の第2白糸トンネルの崩落事故を受けて、平成9(1997)年にこれらのトンネルに近い立地条件にあるトンネルの総点検が行われた結果、国道231号では滝の沢、二ツ岩、つばめ岩、千代志別、タンパケという5本のトンネルが、「危険があり対策を必要とする」と判別された。
この5本のうち4本が今回の探索区間内にある。

開発局は、この対策として国道231号雄冬防災事業を立ち上げ、順次開通した区間から供用を開始した。
当区間はその一部である。
幸いにしてと言うべきだろうが、実際に災害が起こる前に先回りで廃止された区間なのだ。



11:08 《現在地》《現在地(旧地形図)》

二ツ岩、近くで見たら、“三つ”岩だった(笑)。

平坦な舗装路での自転車の機動力を遺憾なく発揮し、旧道入口から早くも700mを前進し、地形図に「二ツ岩」の注記がある地点に到達した。

少し風があるが、今のところ大変穏やかな海である。(イイゾ)



そしてこの二ツ岩まで来ると、カーブの先にトンネルと、トンネルの存在を肯定するために用意されたような険しい露岩の岬が出現する。

言うまでもなく、これが(旧)二ツ岩トンネルである。


……やっぱり、塞がれていたな。



10:09

平成14(2002)年に廃止されたトンネルは、案の定塞がれていた。
ただ、その塞ぎ方には僅かに解放の可能性を感じるというか……、一面のコンクリートウォールではなかった。
とはいえ、中に入れない状況であることに変わりはないが…。

そしてこの坑門、背後に見える岩場の地山からは、200〜300mも大きく突出している。
実際、前掲した平成4(1992)年の地形図だと、ここはトンネルに通じる覆道の入口として表現されており、トンネルは地山に当たるところから始まっている。
この覆道部分には二ツ岩覆道という名称があるが、実質的に二ツ岩トンネルと一体化した構造物である。

チェンジ後の画像は、昭和63(1988)年に発行された『北海道の道路トンネル第一集』に掲載されている現役時代の坑口写真で、位置を出来るだけ重ね合せてみた。
これで初めて分かったが、現役当時は坑門の右側に扁額や銘板が取りつけられた翼壁が存在したのである。
自然に壊れるような構造物ではないと思うが、なぜか跡形もなく喪失している。



11:09

う〜〜わ……遠い。

いや……

別にこの先へ行く必要もなければ、アテもないのだけれど……、

なんか歩ける余地があると、歩いてみたくなるよね……。

わ、罠かも知れんが…。



沸き起こった好奇の心に突き動かされるまま、実に300mもある二ツ岩覆道海側の防波堤天端を歩き出した。

実は歩き出した時点では、そこまで長いと思っていなかったのだが……。



進んでいくと、やがて防波堤下の波消ブロックが減ってきて、深い海面と直接するようになった。
落ちたら二度と上がってこられない高さである。
波穏やかで天端が濡れてないことに救われながら、思いのほか長いと感じつつ後の祭りとなった“一本道”を、歩き続けた。



11:14 

おかしげなところを歩き続けること、約5分。

ちょっとだけ報われそうな、嬉しい発見があった。

覆道の外壁が地山に接する5秒前(“FGJS5”)に、現役当時からほとんど誰の目にも留まらなかったに違いない、“本来の坑門”らしき箱型のコンクリート体が見えて来たのである。
これは萌ユる!!



ようやく“目標”を掲げられるようになった私だが、私が常に膚を寄せあっている、先へ進むにはそうせざるを得ない立地にある覆道の外壁に、異変が…!



ぎゃあぁぁ!!!

キモイッチュ……。

ていうか、腐った鉄筋が邪魔で、凄く歩きづらいよ。
高波の影響で外壁が壊されつつあるのだろう。
幸い、低い位置は鉄筋が露出していなかったので、しゃがみ歩きを駆使しながら、どうにか前進した(引き返すのもめんどくせぇ…)。



11:16 《現在地》

結局7分もかかって、ようやく覆道と坑門が接するところまでやって来た。

ちなみに、このまま磯歩きへ移行して二ツ岩トンネルを迂回し、その先の旧道へ辿り着くことは、最初から考えていなかった。
このトンネルは587mもあり、地形的に海岸を迂回出来るとはとても思えなかったからであるが、図らずも自分の目でその“不可能性”を確かめることになった。
そもそもここから地磯へ乗り遷ること自体が難しい。
屈強な磯釣り師なら、縄ばしごでも持ち込んでアタックするのかもしれないが……。

(チェンジ後の画像)

と、そんなことを考えながら限界まで地山に近づこうとすると、

壁に横穴がッ!!




塞がってんのか〜〜〜いっ!!

おそらく現役当時から閉まっていたであろう、頑丈な水密扉みたいな金属製の蓋が、ガッチリと収まっていたのであった。

ここさえ開けば間違いなく二ツ岩トンネルをこの手中に収めることが出来るであろうに……!

これからの波の頑張りに期待しつつ、ここは諦めだ。


↑なんてふざけて書いたら、本当に波が頑張っちゃったみたいで、2026年時点でゃこの覆道が倒壊しているとの情報が……。

……サイホウシナクテハナラナクナリマシタナ。



なんでこんなものに気付いちゃうんだろうなぁw

何の目的があったか知らないが、鋼管を組み合わせて作った工事足場のような梯子階段が、近くの岩場から坑門の上部へ通じているのを見つけてしまう。

それが、通って欲しそうな目で見てくるよ……。



ここまで来たからには、気になるところをトコトンまでということで、苦労しつつも岩場を登り、鋼管梯子に辿り着く。

これを登れば、坑門の上面に立てるだろうが、そんなところに立っても基本何の実りはないはずだ…(笑)。



高度を上げたことで、より遠くまで海岸を見渡すことが出来たが、やはり歩いていける地形ではない。

今いる二ツ岩トンネルを抜けた先には、さらにつばめ岩トンネルというのがあるはずだが、おそらくつばめ岩トンネルも塞がっているだろうから、両トンネルの間の短い地上区間にどうやって辿り着くかは、今探索の一つの課題であった。
雄冬岬旧道探索の前哨戦の中の大きな課題である。
幸い、つばめ岩トンネルは僅か120mしかなかったから、向こうの方が地形を突破出来る余地は遙かに大きいと思うが。



11:20

登りましたよ(笑)。

ここが、二ツ岩トンネル南口の天井裏だ。
足元の少し瓦礫に埋れている平場が同トンネル本来の坑口であるが、背後の地山に落石防止ネットが敷設されており、この工事やメンテナンスのために、私が登った梯子があったのかもしれない。

で、さすがにこれ以上は進みようがないので、来た方向を振り返ると……



おおお〜〜! 綺麗だね。

なかなか見ることのないアングルで、二ツ岩覆道の天井裏を一望することが出来た。
いわゆるドーム型の断面をしているが、海側に防波堤のような出っ張りがあり、実際に防波堤の役割を果たしているのが面白い。
また、覆道の山側には草地が広がっているが、ここは土砂崩れや雪崩の緩衝帯として利用されていたのだろう。

そしてこの直後、

もしやと思って、

ある場所を確認した私は、




うおーーー!!

という、喜びの雄叫びを上げたのだった。

覆道と坑門が接するところに、工事関係者以外は誰も存在を知らなさそうな扁額が存在していたのである!

果たしてこの扁額、利用者の目に留まった期間は、どれくらいあったのだろうか。
二ツ岩トンネル区間の開通は昭和49(1974)年らしいが、昭和52(1977)年の航空写真には既に二ツ岩覆道が写り込んでいる。
両者は開通当初から既に存在していた可能性があり、そうでなくてもトンネルだけが存在していた期間は最長で3年足らずしかないことになる。

地味なものではあるが、なかなかレアな“遺構”を、目にすることができたと思う。



少し遠くから振り返る坑門の全体像。
立派な扁額を取り外して、覆道の入口へ移設することを考えなかったのだろうか。
単にサイズが合わなかったという可能性も大きいが。



11:26

帰りは覆道の屋根裏を入口近くまで歩いてから、たまたまそこに用意されていた常設梯子(写真奥に見える)に縋って、地上へ降りることが出来た。
で、降りたところで初めて気付いたが、覆道の入口近くには塞がれた側面通路の痕らしきものがあった。
こんなものを用意してあるということは、将来的にさらに覆道を延伸する考えがあったんだろうか。

それはともかく、色々な出入口があるのに全部ちゃんと塞いであるという、いつもながらカッチリとした仕事ぶりである。さすがは開発局。
私にとっては、もう少しユルくてもいいんだけどね……。


といったところで、二ツ岩トンネル旧道の南側半分を終えた。
今度は北半へ向かうぞ。



 トンネルの過去を見透かす“トンネル探偵”現る?!


2018/5/24 11:29

塞がれていた(旧)二ツ岩トンネル南口を引き返し、現道との接合点へ間もなく戻る。
接合点を左折し、平成14(2002)年開通の(新)二ツ岩トンネルへ。

――8分後――。



11:37  

1793m分の長いブラックアウトが明けると、そこが千代志別
だが、地上へ出る前にはもう次のトンネルが行く手に現われた。
2本のトンネルに挟まれた千代志別の地上部は、国道231号にたった150mしかない貴重な区間だ。

そして、次のトンネルは今回探索のメインの舞台……というよりはむしろ“最大の障害物”というべき、北海道第2位の長大トンネルにしてトンネル界のフランケンシュタインの怪物ツギハギモンスター全長4744mの浜益トンネルである。



11:38  《現在地》《現在地(旧地形図)》

千代志別の地上へ。
千代志別川の河口に開けた穏やかな小平地であり、橋の袂にある千代志別バス停のまわりに、片手で数えきれるくらいの数の民家や倉庫がある。
旧浜益村の北端に位置する集落であり、昭和49(1974)年に二ツ岩トンネルが開くまでは、車の通わぬ山道か、漁船を使った海路の外に訪れる手段のない土地だったが、ニシン漁が賑わった昭和30年代頃までは人口100人を優に超える大きな集落があったそうだ。

バス停や脇道はあるが、ほとんどの車は脇目も振らずにトンネルからトンネルへ駆け抜ける。
国道の“おにぎり”と、遠い街の名を記した青看が幅を利かせるこの場所は、私の今回の探索の最重要拠点となる見通しだったが、今はまだその探索の方法を最終決定するための偵察の段階だ。
引続き偵察を完遂させる。

まずは、先ほど引き返した二ツ岩トンネル旧道探索の続きである旧道の片割れを、探していこう。
一見すると、この視界に旧道らしきものは見当らないが、振り返ると――。



いた〜〜〜!!

旧道の路面は意図的に剥がされてなくなっていたが、塞がれたトンネルは隠さないし、隠せない。

こうなると、さすがに「通行止」もクソもないらしい。

道ならぬ場所と化したかつての旧道敷きをMTBで強引に踏越えて、坑口前へ。



11:38

これはつばめ岩トンネルの北口で、昭和48年竣功、全長120mの記録がある。
例によって塞がれているが、扁額も【銘板】も取りつけられたままになっている。
これらが剥がされている廃トンネルを良く見るが、このトンネルのは珍しく無事だ。
ちなみに前回書いたように、豊浜トンネル事故後の全トンネル検査で“問題あり”と評価されたトンネルの一つだが、トンネルそのものというよりは、海食崖の崖下にあるという立地条件が問題視されたものである。

チェンジ後の画像は、昭和63(1988)年の『北海道の道路トンネル第1集』に掲載されている写真を、位置を出来るだけ重ねて表示してみた。
短いトンネルを透かして、その向こうの短い明り区間と、さらに向こうのトンネルが見えるが、この奥に見えているのが(旧)二ツ岩トンネルの北口である。
つばめ岩トンネルさえ開いていれば、ものの1〜2分で辿り着けただろうが……



アレレレーーー?!

地味に行けなくない?!

行けた人、いる? これ……。

いやいや! たった120mのトンネルだろ?!
なんとか海側か山側か迂回して辿り着けるやろ〜〜?!
そんな自問の声が心の中に響くのだが、いやいやいやいや、



地味に、行けないんだよなぁ……。

いや……、海を泳ぐという選択肢を除外しなければ、まあ行けるだろう。
行けるんだけど、しかし着衣のまま、このカメラを持って、泳いでいきたいかというと……ちょっと………。
いまこそ秘技“WFK”しろってか……? もう浮き輪新90型フローティングドーナツを処分しちゃったよ…。


これは保留とする!



つばめ岩トンネルの問題は一旦保留して、偵察を続ける。
また振り返って、本来の進行方向にある浜益トンネルへ向かう。

なお、今は海岸に居るが、相変わらず泳げそうなくらい海は穏やかである。
ただし風がないわけではなく、北寄りの海風がビュウビュウと、頬を押されるくらいの強さで、常に吹いている感じだ。
こうしたことのチェックも、この偵察の重要な任務だった。



11:48  《現在地》《現在地(旧地形図)》

平成28年に開通した北海道で2番目に長い「浜益トンネル」の南口である。

が、見た目はとても地味で、公称されている4744mという長さの表示は、どこにもない。
これは冒頭の説明で種明かし済みである通り、この坑口は本来、昭和56年に開通した千代志別トンネル(このトンネル自体の竣功年は昭和52年)のものであり、トンネル内の坑道もそっくりそのまま千代志別トンネルの流用である。だから、ほぼ同年代である対面のつばめ岩トンネル北口と同じ外観をしているのである。
ただし、坑門上部の【扁額】はちゃんと「浜益トンネル」へ取り替えられており、銘板については撤去されていた(痕だけがあった)。

チェンジ後の画像は、千代志別トンネル時代の坑口写真だ。
扁額だけが異なる、全く同じトンネルである。
こういうの、探偵になったみたいで、なんか楽しいよね(笑)。



あら、見慣れないキャラがいるわよ? 楽しそうな、いい職場だね!

どうやら、現在この先のトンネル内で、「床丹改良外一連工事」というのが行われているらしく、その案内の工事看板が坑口に設置されていた。

願わくは、私の探索の邪魔になりませんように……←オメーが工事の邪魔しねーようにだろうが! スンマセンそうでした…。



11:49

千代志別トンネル改め、浜益トンネルの内部へ。

4744mあるとされるトンネルだが、敢えなく? 346m先に外の明りが見える。
千代志別トンネル時代の出口である。
1本の直線からなるシンプルな線形だった。



トンネル内の設置物にも、トンネル名変更に伴う混乱が、多少見られた。
“赤矢印”の部分にあるキロポストには、「千代志別トンネル」と旧名が案内されているが、すぐ隣の“黄矢印”の位置にある非常電話の現在地表示には、「浜益トンネル」としての位置が表示されているのである。
防災上は後者のみ利用者の目に止まることが期待されていると思うが、なまじ両方見てしまった人は混乱するだろうな。
キロポストの下にある壁面を削った部分も、千代志別トンネル時代の防災設備を撤去した痕だと思う。



11:51 《現在地》

自転車の速力で、すぐに千代志別トンネル時代の出口へ迫ったが、そのまま覆道となって空のない道が続いている。今はこの千代志別覆道も含めて浜益トンネルの一部である。

この出口の直前に側面通路があって、地上へ出られるようになっていた。
例によって、コーン&ポールで塞がれていたが、ちょっと覗いてみよう。
まあ、海しかないと思うが……。



海しかなくて、というのは正解だったが、ここが例の予告されていた工事現場だった。
たまたま、お昼休みだったようで人気なく静まりかえっていた。

写真は、南方向を撮影している。
海岸に旧道となるような別の道はないが、単調な岩礫海岸が続いていそうなので、千代志別の浜までは歩けそうだった。



一方こちらは進行方向の海岸風景だ。
覆道の屋根の上に発泡スチロールの巨大な衝撃吸収材や、コンクリートの土留壁を新たに設置する工事中のようだ。
この千代志別覆道も、豊浜トンネル事故後の検査で要対策とされていたが、これがその対策なのだと思う。
豊浜トンネルクラスの落盤に襲われても、覆道が圧壊しないようにならんといかん。(大変な仕事だ)

それはそれとして、

こっちは地形が険しくて、とても海岸を歩いていける感じではないと思った。

まあ、この判断は既定路線である。

なにせ、この先再び海岸線に道が現われるのは、2km以上も先である。
そしてその道というのが、今回最大の到達ターゲットである“雄冬岬の旧国道”である。
私もさすがに、ここから道のない、道が作られたこともない、そんな海岸線を2km以上も歩いていけると考えるほど、楽天家ではない。
ないないづくしである。

覆道内へ、引っ込む。



11:53

改めて、かつては千代志別トンネルと呼ばれていた部分の出口である。
そのまま覆道に接しているので、扁額は見えない(あったとしても隠されている)が、“矢印”の位置に千代志別トンネルの銘板が残っていた。

チェンジ後の画像がそれだが、全長454.7m、竣功はトンネル部が昭和48(1973)年12月、覆道部が198■年10月という風に、分かち書きされている。
なぜか覆道部の竣功年の4桁目が欠落(意図的だと思う)しているので読めないのだが、同時でないのは確かである。
また、『北海道の道路トンネル第1集』には、千代志別トンネルの全長が346.0mとされていたから、銘板にある全長との差の108.7mという数字が、覆道部分の長さであろうと推定できた。

探偵みたいで楽しいが、読んで楽しい人いるのかな……(苦笑)。



11:53

そして、前記地点からおそらく108.7m進んだところが、これだ。

覆道が、次の覆道と繋がっているのであるが、手前側の覆道の天井が流線型に拡大している部分がある。
これは、ベルマウス式坑口であった名残である。
その証拠に、この旧坑口位置にも銘板が取りつけられていた。

銘板の内容は、先ほどのものと全く同じで、やはり覆道部の竣功年の一桁だけ消されていた。何か都合の悪い事実が? 笑



この写真は、ちょっとレアだろう。

例によって『北海道の道路トンネル第1集』の掲載写真だが、千代志別トンネル北口(現在地)を撮影したものだ。
確かにここにベルマウス式に開いた覆道の坑口があって、手前側は明り区間であったことが分かる。
写真では車が止まっている路側帯も、その奥に見える電気室らしきシャッターが降りた空間も、今では埋め殺されて行くことができなさそうだ(覆道の上を跨ぐ手段があれば行けるが…)。

なお、同じアングルの写真を私は撮っていないので、代わりにストビュー画像



11:54 《現在地》

全長270mほどの千代志別覆道が終わると、再びトンネルが始まる。
かつてはガマタトンネルと呼ばれていたトンネルだ。
ガマタトンネルとしての諸元は、昭和56(1981)年竣功、全長2060m。
地味に、開通時点では北海道で最も長かった道路トンネルである(昭和58年に国道273号の浮島トンネル全長3332mに抜かれるまで)。
かつて全道一長かったトンネルを腹に収めて、その倍以上の全長まで育っている今の浜益トンネルの長さが光る。

チェンジ後の画像は、トンネルと覆道の接続部分から外を撮影した。
ここから2060m先にガマタトンネルの北口が地上にあるはずだが、その場所へ行くことが簡単ではないのである……。
海岸線に道のない区間が、全道一を思わせるレベルで長いので……。



こちら、『北海道の道路トンネル第1集』に掲載されている、覆道が接続する以前のガマタトンネル南口(現在地)だ。
一時期全道一の長さながら、飾らない至って普通の外観を持った坑門である。
この上部に掲げられた扁額や、“矢印”の位置に見えている銘板は、覆道と接続したことで二度と見ることが出来なくなってしまった。



11:55

ガマタトンネル部分へ突入!

かつての全長2060mのうち、ここから約1900m地点までが浜益トンネルに流用され、残りの僅かな部分が旧道として放棄されたという、坑口を失ったトンネルである。

ここに至り、偵察はいよいよ大詰め。
このトンネル内部の偵察結果によって、この後に予定している本探索のやり方を決定する。






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