廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 第16回

公開日 2017.02.21
探索日 2017.02.07
所在地 千葉県君津市

“源流の隧道”内部探索


2017/2/7 8:08 《現在地》

果たして、“源流の隧道”は存在した。
スー氏のブログで見た通りの姿だが、実際に目にした感激は褪せたものではなかった。
それに、今日の私は隧道を探しに来たのではなく、素性を調べに来たんだ。目前のご馳走に涎が出る。

位置は、スー氏の記事の通りでおそらく間違いはない。私が入渓した田代林道の橋から約800mの地点だ。
これは、田代林道の起点に近い本日のスタート地点からだと5kmを超える奥地であり、まして林道を用いずに(スー氏のように)田代川の谷を通ったならば、6kmは歩かねば辿り着かないだろう。
こうした数字は、今回の探索の動機でもあった、“未知の軌道4km”に対しては、少しばかり過剰である。
仮に、この隧道が軌道用であったならば、問題がある。それは、実際には6km以上も未知の軌道が存在したか、或いは途中に軌道の分断があったか、そもそも私が従来把握したと考えていた「7.5km前後」という数字の方に誤りがあったのか…。

正直なところ、変数となる仮定や可能性が多すぎて収拾がつかない。
全体像の把握をここで試みようとするのは、いささか思考の無駄といえそうだ。
無駄な思索は諦めて、今回ここへ来た最大の目的である、“源流の隧道”が軌道に関係するものであるか否かを、調べることにしよう。


隧道の第一印象として、まずは軌道用として違和感ないサイズであると感じた。
これまで私が小坪井軌道で目にしてきた3本の隧道のうち、断面の大きさが判明している2本(【小坪井沢奥の隧道】【片倉ダム直下の隧道】)と比較して、天井の高さも横幅も少し小さいような感覚はあるが、手押し軌道の隧道として不自然な小ささではない。

とはいえ、このようなサイズ感は、房総の河川に頻出する川廻しの水路隧道であるとしても矛盾はないし、スー氏も(前回登場した切り通しと共に)川廻し用であろうと指摘している。

私としては、この隧道が軌道用であってくれれば嬉しいけれども、軌道説を採るうえでの最大の難点は、隧道内を沢の水が普通に流れていることだと思っている。
今日は水量が少なく、隧道を水が流れていることの違和感は少ないが、スー氏の写真を見るとこれよりも遙かに水量が多く、坑口前には小さな滝と滝壷まで出来ていた。しかも上流からもたらされる沢の水の全量が隧道内へ導かれており、完全に新河道として機能していた。

いくら源流部とはいっても雨量豊富な房総半島南部である。豪雨があれば忽ち鉄砲水のような水量になるだろう。そうでなければここまでの行程で私を幾度も邪魔した巨大な流木が堆積した自然堰の説明がつかない。そのような状況で、河道になりそうな位置に隧道を掘って軌道を敷設するなどということが、あるのだろうか。

軌道廃止後に土砂が堆積して河床が上昇し、そのため隧道内を川が流れるようになったのではないかという反論が考えられる。
だが、それにしても隧道の位置はいかにも低く、容易に想定できる水没という事態に対し、無防備過ぎると思える。
端的に言えば、はじめから川廻し用の隧道として作られたと考えたときに、違和感がなさ過ぎるのだ。軌道隧道以上に、水路隧道っぽく見える。

こうした私の考え方は、次の一文が根底にある。


水路隧道軌道隧道 という常識。






……さて皆さん。


この谷の経験則において、真実から最も目を遠ざけさせてしまう“害悪”とは、何であったか?







常識、死すべし!

今日もこの谷の“常識狩り”は絶好調。

坑口前の1mある落差を這い上がり、短くも薄暗い洞内へ踏み込んだ私が瞬時に見つけ出したのは、今まで飽きるほど見てきたものと瓜二つの、“孔”たち だった。

鑿痕も鮮やかな明確な丸孔。これまではずっと、軌道の桟橋を支えるための“橋脚孔”であると考えていたものが、隧道内にも存在していたという事実が示すのは――



一つの隧道を、軌道と水路とが上下に共用していたのではないかという、これまでの私が常識に囚われて説くことが出来なかった異説。

道路のトンネルが、水路トンネルを兼ねる(或いはその逆)のは稀に見る。水道用トンネルを道路として用いるなどだ。だが、その場合も水路には蓋がされていたり、管の中を流れていることが多い。
そして、林鉄と水路を兼ねたトンネルについては、寡聞にして知らなかった。

もっとも、ここに描いた図は、想像を都合良く解釈したものに過ぎない。
向かって左側には橋脚跡らしい孔が点々と続いているが、右側の水が流れている部分にはそれが見あたらない。
水流に浸食されて痕跡を失ったのだと私は考えているが、そうでなければ、隧道内に桟橋状の軌道が敷かれていたとする説は怪しくなる。




なお、洞床にあるこれらの“孔”だが、明らかに丸い形をしている。 もし、枕木を敷いた形跡であるならば、丸ではなく角形に近いものになるはずだ。

隧道の長さは、10m程度である。数秒で通り抜けられてしまう。
これまで小坪井軌道で見た隧道はどれも長かったが、初めて短いものが現れた。(「洞門橋」の所にも隧道があったとしたら、これより更に短かったかも知れない)

壁面は粘土質で、触ればボロボロと砂が落ちる柔らかさだった。しかし大きく崩落した形跡はない。



隧道の出口へ近付くと、なんとこちらにも明瞭な“孔”の痕がいくつも残っていた。しかも今度は片側ではなく、両側に孔の列があった。

これにより私は、隧道内に桟橋状の軌道が敷かれていたとする説をいよいよ確信した。同時に、このような田代川の奥にまで軌道が及んでいたという想像の愉快さに、叫び声を上げていた。




叫びは、狭い谷と隧道の間で思いがけず大きく反響し、怪しげな残響さえ耳に残した。

それから私は気付くのである。

「あ、そういえばここは、登山者の多い“関東ふれあいの道”の近くだったな。」と。

山童でも出たかと思ったハイカーがいたら申し訳ない。出たのはいつものです。




8:12 《現在地》

わずか10mほどの隧道を通り抜けるのに4分もかけて、

妄想とも現実ともつかぬ軌道のラインが目蓋に浮かぶ、上流側坑口へ。

このアングルで見える河床の“孔”はひとつだけだが、洞内の光景と重ね合わせれば、図示したような桟橋を想像するのは容易い。

川の流れを受け入れる、そして軌道も受け入れる。そんな一挙両得だが前例のない二階建てトンネルは、実在したのだろうか。

私は、存在したと思う。



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↑ 360度写真。


さて、少し寄り道をして、上流側から蛇行した旧河道へと進んでみた。
左の画像が旧河道で撮影したもので、チェンジ前は入ってすぐに、チェンジ後は50mほど進んだ蛇行の頂点付近で撮影した。

旧河道の入口には、高さ2m程度の土山が堰のようになっており、水の浸入を防いでいた。これが新河道(隧道)に水を導くため故意に盛られた土なのか、自然の堆積によるものかは不明だ。

旧河道内部は全体的に土が滞積し、水は流れていない。しかし、植林地や炭焼き窯として利用されていた痕跡はみられない。水捌けが悪すぎるためか、植生も意外に乏しい。ただの死河川の風景だった。 旧河道の地形は穏やかで、隧道によって短縮された距離は、おそらく100m程度であった。

隧道を建設した目的として、100m程度の運材距離の短縮だけではいささか弱い気がする。旧河道を“何か”に利用したことが考えられていいが、その“何か”は定かでない。



旧河道の利用法に関する一説

右の写真は、前回紹介した“二ツ釜”下流側の新旧河道合流地点である。
右側に見える新河道が、天然のものなのか、人工的に開削されたものであるかは、未だ解決していない問題だ。
ただし、明治19(1886)年以前に作成された「迅速測図」に既に新河道が見えることから、軌道の敷設よりも遙かに早い時期に、河道の分岐があったことは判明している。

この新河道の成因問題について、前回の公開後、ある読者さまから注目すべき情報が寄せられた。既にレポート中でも一度登場している滝おやじ氏のコメントだ。少し長いが転載する(下線は私が付した)。

千葉県の滝・川廻し地形を調査していたものです。
田代川の「二ツ釜」の観察、興味深く読まして頂きました。かねて、迅速図を見て曲流短絡地形があることは知っていたのですが、地形の確認の必要があり、昔の元気はなく、とても現地に行けないと諦めて歳を過ぎていました。情報をあげて頂いてうれしく思います。
 以下に、私見を述べます。
(1) 人工の河川短絡地形であることは、地形の平面配置から確実です。
(2) 短絡河道(シンカワ)が立派な滝地形になっていますが、これも、短絡後の川の侵食作用によるものとして良いです。上総地方の川廻し地形では、河床岩盤が硬くないので、短絡後、侵食されて短絡部の人工滝が後退・拡大している例はよくあり、田代沢のように河床に円磨礫が多量に堆積しているような川なら、洪水時に研磨剤の礫が流れるので、十分掘り込む能力があります。短絡滝が拡大・後退している例:最近有名になった笹川の濃溝滝の滝面など。
(3) 谷全体の河床が異常に平坦なのもこの故で、「出る杭は打つ」+「打たれるとすぐヘタレる」という環境の結果です。
(4) フルカワの地形の様子からは、この川廻しは水田用には思えず、林業用と思われますが、江戸時代に遡る林業用の川廻し地形というのは、まだ確実な事例はないのでなんともいえません。ただ、江戸時代から、江戸を市場とする燃料、木っ端材の生産で、水運を利用した林業が盛んだったので、あり得る話と思います。
(5) 単なる可能性ですが、川廻しは軌道より前の人工物なのですから、残っていた岩盤の穴が大きいという点で、林業用の川堰の跡ということはないでしょうか。フルカワに主堰を立て、余水吐用にシンカワを掘るというのも考えられないことではないと思います。
(6) (後述)

滝おやじ氏の証言より


“林業用の川堰の跡”という説には、思わず膝を叩いた。

迂闊にも、私はその可能性をすっかり亡失していた。

だが、言われてみれば思い当たることがある。

……覚えているだろうか。

本日のスタート地点である田代林道の小坪井橋の上で4年前に得た、“第二の証言者”の発言内容を。

「“鉄砲出し”もやったと言っていた。」

“鉄砲出し”とは、水量の少ない川に堰を設けて一時的に水を溜め、それを解放することで水と一緒に木材を押し流して運ぶ、日本古来の運材方法である。
このような方法は、森林鉄道や林道が山奥にまで建設されて機械運材が行われるようになるまでは、日本各地で行われていた。
房総半島の河川は一般に規模が小さく、常に水量の大きな川は少ないため、鉄砲出しには適した環境だったといえるだろう。

古老は、私の誘導的な質問ではなく、自ら“鉄砲出し”という言葉を口にした。
ゆえに、田代川周辺で鉄砲出しによる伐出が行われていたことは間違いない。
明治期の記憶を古老が語るのは不自然と思うかも知れないが、もともと第二の証言者の内容は故人からの伝聞であり、本人の証言ではない。また、軌道撤去後にも鉄砲出しは行われた可能性がある。

“二ツ釜”は、軌道敷設以前の時代に建設された川堰の跡かもしれないというのが、滝おやじ氏の指摘である。

これは十分に説得力のある説だと思うが、これを認めるとしたら、“二ツ釜”の上流で発見された切り通しであるとか今回の隧道もまた、最初は軌道用に開設されたものではなく、川堰の余水吐き(不意の増水時に堰が壊されないように設けたと思われる)であったという可能性が出てくるのだ。


(6) 上総の河川河床に見られる穴の跡について、普通に言われているのは、柱穴の跡、あるいは林業用の川堰の跡と言われていました。今度発見された軌道跡の穴について、それらの穴との違いを区別する特徴・・・橋や堰は川を横切り、軌道は川沿いという点は明瞭です・・・穴の形状や寸法、配列などの点については如何でしょうか。

滝おやじ氏の証言より

この地方の河川には広く川底の孔が見られるが、従来それらは、橋の柱穴 林業用の川堰の跡だとされてきたという。

翻って私がこれまでに軌道跡と考えた方々で見つけてきた孔たちが、どちらに属していたのかについては、個別に検証はしきれない。

しかし、前後の連続性を持って並んでいたものは多く、桟橋に由来するものが多数であったと考えている。
例えば、今回の“源流の隧道”内部の孔などは、明らかに堰ではないと言える配置だろう。
一方で、まさに堰の存在が疑われる場所となった“二ツ釜”の滝口で見た孔(右写真)のように、堰跡の可能性を拭い去れないものも出て来た。




河川隧道 ≠ 軌道隧道の常識が通用しないならば…

川であり軌道でもある隧道の存在を認めても良いならば、机上調査編で考察した、笹川湖底に沈んだ“坪井沢の隧道”の位置についても、再考の余地が大きくなる。

ツボイ沢の隧道は長さ100m程で(もう少し短かったかもしれない)、出口(上流側)に近付くと緩く右にカーブしていた。
ツボイ沢の水は隧道の中を流れていた。隧道内を地下足袋にワラジ履きで右岸の壁に沿って怖々歩いた記憶がある。入口の右側に川床らしきのもがあったが、水流はなかったと記憶している。

トビミケ氏の証言より(抜粋のうえ再録)

トビミケ氏が昭和52(1977)年に登山ルートとして用いたこの隧道については、内部を坪井沢の水が流れていたという証言から、川廻しの隧道であって軌道隧道ではない可能性が大であると判断していた。

同隧道は『房総の山(第2版)』に登山コースとして紹介されており、同書の地図には隧道の記号こそないものの、右図の青線で示した位置に道が描かれていて、説明文にも隧道の存在が出ている。
対して、第三の証言者によって提供された手書きの地図には、緑線のように軌道と隧道が描かれており、この二つの地図は異なる位置に隧道の存在を示唆していた。

従来の私は、あくまで軌道の隧道と川廻しの隧道は別に存在していたと考えていたが、両者を兼ねる隧道の存在を認めるなら、トビミケ氏の歩いた隧道が軌道跡だったという可能性は高まる。
とはいえ最終的な判断は、ダムの撤去でもなければ難しいと思うが…。




田代川源頭行。最果ての痕跡を求めて


8:16 《現在地》

ここは“源流の隧道”の上流側坑口前である。
ひとまず今回の源流探索の最大の目標を達成した。隧道が、軌道用に用いられていた可能性の高いことが分かった。
ここまでは極めて順調に進んでおり、出発からまだ2時間しか経っていない。

この後どうするかについては、隧道への到達後に、沢の状況を見て決めるつもりだった。
自転車を入渓地点に置き去りにしているので、最終的には必ず戻らなければならないが、どういうコースで戻るかが考えどころ。

そしてほとんど悩むことなく、私はこのまま沢を遡行し続けることにした。
スー氏の記録を見る限り、この先に隧道や切り通しはないようだが、やはり“橋脚孔”の続く結末を見届けたいと思ったのと、小坪井沢の終点と思われる辺りで発見した、レールという、最も決定的なアイテムに出会える可能性を期待しての決断だった。



隧道を過ぎてからも谷の様子に変化はなく、狭い部分と少し広い部分(写真は狭い部分)、河床に礫が堆積した所とそうではない所(写真は後者)、或いは蛇行と短い直線(写真は後者)などなど、いくつかの緩やかな規則性ある繰り返しの中で坦々と続いた。もちろん、ときおりに橋脚孔らしきものを見せてくれることも忘れなかった。

こうした景色は4年前の最初の小坪井沢の探索から繰り返し見てきたものであり、一連のレポートが18回目を迎えている今、読者諸兄も同様であるに違いない。
ゆえにこれからは、特別な何かとかキーになる地点が現れるまで、今まで以上の駈け足で紹介しようと思う。




8:20 《現在地》

谷が分かれていた。
ここは明確に左側の谷が太く、本谷と分かる。スー氏もそちらを辿ったようだ。

ここで私はちょっとした探究心から、敢えて右の支谷へ入ってみることにした。
地形図を見ると、右の谷の先にあるのは一帯の国境尾根では最も低い鞍部の一つで、そこまで高低差は30mもなさそうだ。距離は200mくらい。
どうせ戻ってくるつもりだが、スー氏が辿っていない谷に何か私の求める発見があるかも知れないという願いを込めて。



あっはっは!

もう笑い飛ばすしかないでしょう。
こんな軽めのウォータースライダーみたいな谷にまで、“いつもの孔”はあるのです。
もちろん、一つだけなんてことはありません。
いくつもありました。

小坪井沢と大坪井沢を連絡する長大隧道前の軌道跡も、瞬間的にはこのくらいの勾配の所もあった気がするが、さすがにこの支谷にあったのはレールを敷かれた軌道ではなく、木馬(きんま)などの簡易な運材通路だったと思う。
全体的に孔も小さいし、とにかく勾配が軌道向きではないからだ。

とはいえ、この谷にも人が入っていたことは間違いない。




支谷を10分ほど上り続けると、国境尾根が見えてきた。
GPSの小さな画面の中では、私を示すアイコンが完全に国境…いや、市境線に触れていたが、今ひとつ実感は湧かない。
軌道跡(とその類似物)を辿り続けた末に、旧国の境となるような高みにまで来たのだという実感が。
なにせ、林鉄探索は数多く経験してきたが、こんな経験は今までなかった。

歴史マニアでも旧国境マニアでもない私だが、こうした形で辿り着く国境には何か新しい高揚感があった。なんというか、単純に極まった感が……(笑)。

最後に尾根へ上る部分には、昔誰かが歩き固めたようなジグザグの踏み分けがあった。また、★印の部分には見馴れた炭焼き窯の痕跡もあった。茶碗の欠片も落ちていた。




8:32〜49 《現在地》

稜線だ〜!!

標高250mといえば拍子抜けをするだろうが、それでも山深いことについては一丁前な上総と安房の国境に立った。
そしてちょうど上り着いたその場所に、「黒塚番所跡」と書かれた、朽ちた標柱が立っていた。
やはりここは国境であり、そして昔から道があったのだと分かる。

期待通り、稜線上には良く踏まれた“関東ふれあい歩道”が通じていて、私をたちどころにリラックスさせてくれた。
この場所からは四方に道が分かれている。最も目立たないのは、私が上ってきた田代川からのルート。

隣は、国境尾根を西へ向かって鍋石(なべし)に通じるルートだが、これは(田代川ルート一緒くたに)「行けません」という封鎖のロープで閉ざされていた。
残る二方向の道が、“ふれあい歩道”である。


番所跡という名前から滲み出る古い交通の香りに気をよくした私だが、同じ広場の一角には、こんな可愛らしい道標石まであった。

膝丈ほどの小さな石標の正面には、左向きの手指しの絵とともに、「みつい志(し)」の行き先と「明治六年三月」などの記年がみられた。
古くから山伏の霊場として知られた三石山への道標石だ。ここからだと元清澄山の山頂を経由し、ずっと尾根伝いに向かったものだろう。

房総の山は尾根を歩き続けるのが基本であり、無闇に谷に降りれば極度の迂遠が待ち受けている。
敢えて谷筋を歩くのは、昔なら運材や炭焼きに関わる人々だけであったと思う。
私が辿ってきたのは、そんな日陰の道であり、鮮やかな旅の道では決してなかった。


明るい尾根があまりに気持ちよいので意味もなく少し歩いていると、歩道から僅かに外れたところから鴨川側の眺望を得ることが出来た。

2月とは思えないほど濃い緑の向こうに広がる青は、関東の南国、安房の国が誇る海の色。
山よりも高くそそり立つリゾートホテルらしい姿が、この眺めの中で今昔を隔てる唯一のものだった。
昔の山の仕事人たちも、こんな場所で弁当箱を広げたのであろうなぁ。

しばらく(10分以上)国境の気分に酔いしれてから、上ってきたのと同じ谷を戻った。




8:58 《現在地》

本谷へ戻って少しだけ上流に向かうと、またも谷が二股に分かれた。

今度は右が本流である。
その行く手を覗き込めば、相変わらずいくつかの“孔”が岩壁に刻まれているのを認める。しかし、入口が小さな淵になっていて、長靴の丈よりも深い。

ちょっとだけ気後れした私は、根本的な解決にならないのに、またしても支谷へ入り込んでいた。


今度の支谷は狭い。
さきほどのように急流ではないが、入ってすぐのところなどは、手を広げれば同時に左右の岩壁を触れるほどだった。
そしてこの谷には例の“孔”が見あたらない。

9:03 《現在地》

支谷に入って100mほどさかのぼった所で、倒木や落石が多く進み難くなったので、大人しく引き返すことにした。
結局この谷では“孔”を見つけなかったが、100m程度では本谷でも“孔”を見ないことはあったので、何ともいえない。

ただ、この引き返した辺りで私は不思議なものを見付けた。

川底の砂利から金属製の棒のようなものが突き出ているのを見つけた瞬間は「レールだッ!」と色めいたが、良く見るまでもなく、レールと異なる形をしていた。
先に行くほど細い金属棒の周りにらせん状の加工がなされている。削岩機のロッド?
正体不明だが、地図を見るとこの支谷の上部に田代林道があるので、林道からの落下物かもしれない。



本谷合流地点に戻ってから、小さな淵は頑張って斜面をへつり歩き、足を濡らさずに奥へ進んだ。

幾つもの支流を分けた末に、いよいよ本谷の幅は小さくなり、流れる水が無いことと相俟って、河床がそのまま道路か軌道敷きに見えるような場所が多くなった。
しかし、相変わらずちゃんと“孔”は続いている。

右の写真の場所では、手前から奥へ三つの孔を綺麗に並んで写せた。
孔ひとつひとつは目立たないものが多いので、こうして遠くまで見通せる場面は珍しかった。

おそらくこの場所の孔は、ここからL字に組んだ横木を出して、そこに桟橋を架けたのではないかと思う。
これだけ孔があるのだから、一箇所くらい橋の原形を留めたものがあっても良いじゃないかと願いはするが、それが無駄であることも内心理解していた。
軌道は戦前の廃止といわれており、これはあらゆる木橋にとって絶望を通り越し、諦観しか生まない古さだった。




これはなんだろう?

金属製の小さな輪っかが、河床の砂利に紛れて落ちていた。

林鉄脳に毒された私が真っ先に思ったのは、トロッコを連結する連結リングだったが、私が見たことがあるものはもっと大きく太く、横に引き延ばされた「O」の形をしていた。これは「〇」である。

万が一、これが連結リングだったとしたら、ここまで軌道が敷かれていた有力な証拠となるのだが…。機材に詳しい方のご所見を伺いたいところだ。
なお、小坪井軌道では最後まで機関車は入線せず、人力乗り下げの単車運用だったという。
連結リングを用いるような場面は………、ちょっと思い付かないかな…。



「こうやって、“孔”を使うんじゃよ。」

そんな、ありがたいような迷惑なような天の声が聞こえてきそうな風景だった。

川の両岸にある“孔”に見事にはまり込んだ太い丸太による、ビーバーダムだ。

“孔”を堰として使う場合は、こういう風になるという見本だ。
私は、“孔”の正体を橋脚の跡だと考えたいのに、さすがにこの孔については、堰だったのかも知れない。
堰として使っていた当時の木材が、そのまま残ったわけではないと思うが…。




その先では、威圧感を覚えるほどの巨大なビーバーダムに行く手を阻まれたりもしつつ、

ひたすら前進を続け……


9:40 《現在地》

入渓地点から約1.5km奥にある、スー氏が遡行を終えて国境尾根へ出たという地点へ辿り着いた。
途中で色々寄り道もしたが、私はここまで入渓から2時間15分を要している。

この辺りは少し谷も広々としており、国境尾根という“屋根”に近いことが実感出来る。
具体的には、国境尾根の頂上まで40mの至近距離にあり、高低差も20mほどだ。
この周囲には杉の植林地も少しあり、林業上の拠点があったかもしれない。隧道を潜ってきた軌道も、ここまでは続いていたのではないか。




私は尾根に出ず、さらに本流の遡行を続行した。

隧道を過ぎた時点で、こうすることを決めていた。
最終的に自転車の地点へ戻るにしても、出来るだけ往復を避けて、新しいコースを開拓し続けたい。
少しでも広い範囲に足を伸ばした方が、何かを発見する可能性は高まる。

私はまだこの源流部で、軌道の存在を確信出来る発見を得ていない。
枕木か、レールか、犬釘か、そうしたものを見つけたかった。
また、軌道の終点も未確認である。
もっとも、川と路盤の区別がほとんどつかないこの谷では、終点を示す決定的な証拠など滅多にないことは分かっている。もどかしいと思ったが、仕方ない現実だ。

本流は、しばらく国境尾根に沿って続き、その間に何カ所か気軽に登れそうな斜面を見せてくれたが、その全てを無視して谷底を進み続けた。
やがて谷は険しさを取り戻し、国境尾根にも背を向けて、田代林道のある方向へ進み始めた。
本流沿いでは今回初めての事前情報なき区間である。
しかし、大量の倒木で谷が塞がっている所が多く、前進するペースはだいぶ遅くなった。


9:51 《現在地》

写真は、入渓地点から1.7kmの地点で見つけた“孔”だ。

そしてこれが今回見つけた最上流の“孔”となった。

ここまで源流に近付いてしまうと、もはや谷には堆積した土砂や倒木を押し流せる瞬間最大水量がないようで、“孔”のありそうな河床近くの岩盤は、ほとんど埋もれてしまっていた。
ゆえに、これが発見された最後の“孔”になったことには、さほどの意味がないかもしれない。(“孔”が橋脚の痕なのか川堰の痕なのか、その判断も不可能だ)




唯一の楽しみになっていた“孔”も全く見られなくなったことで、遡行は苦行に変わり始めた。

いよいよ谷底もジャングル化が始まり、前進ペースは遅くなる一方だ。
GPSを注視しなければ忽ち進路に迷いそうなりそうな谷が、幾度も幾度も合わさってくる。
もはや、レールを発見するなどという奇蹟を期待出来る状況でないことは、よく分かっていた。

もしも、林道がすぐ近くに来ているならば、さっさと切り上げて脱出したのだが、憎たらしいことに、この辺りは林道が尾根の裏側に遠ざかっている。
林道と反対側の斜面も、一際高い元清澄山山頂に蹴り上げていて、こちらにも脱出し得ない。



10:13 《現在地》

苦難だがエキサイティングではない遡行に耐え、入渓地点から2.1km前後(最後の“孔”から0.4km)までやって来た。
まもなく、向かって左側の斜面上に林道が、田代林道が現れるはず。

つうか、

助けて林道!

もうこの谷イヤダヨ!!。
昔の山人たちは、切り出した丸太の間を歩くのを、とても怖れたという。
崩れてきたり、転んだり、とても危険だからだ。
今の私が、そんな状況にある。



上記写真の地点をどうにかこうにか切り抜けて、2.2km地点付近。

いままでずっと自らの作った檻に閉じこもってきたかのような谷が、ついにどこにでもありそうな明るい源頭の風景に変わった。
同時に河床の勾配も連続した小滝のようになり、ここに至るどこかの地点で軌道は終点を迎えていたのに違いなかった!

遡行終了!

願いを込めて見上げた左の斜面上には、さっきまでは見えなかった蒼井そら青い空。
結構遠くて「うえっ…」となったが、あそこが林道の在処である。
そんな地図の言葉を信じて、斜面の直登を開始する。もう未練はない。




10:23 《現在地》

田代林道に脱出成功!!

3時間ぶりの林道は、入渓地点の橋から1.5kmほど終点に近い、標高290mの地点であった。
馬背状になった尾根上の道は、這い上がってきたのとは反対の南側に展望が優れ、
鹿野山を遠望する特等席という感じだった。林道自体も、廃道探索の対象として上等の気配あり。


……まだ、探索は続くぞ。




源流探索は終わったが

源流部の探索では結局、レールや枕木や犬釘といった、軌道の存在を決定づけるアイテムを発見することは出来なかった。
しかし、明瞭や切り通しと隧道が1個所ずつ確認され、その断面の大きさからして、“運材用の車両”を通していた可能性は高いと思う。
そこでいかなる“車両”を想定すべきかと考えれば、やはり軌道であった可能性が最も高いと思う。

また、軌道が存在していた場合でも、その終点がどこであったのかは、小坪井沢の場合と同様に、はっきりしなかった。
正直、現地調査だけで終点を確定させるのは無理があると感じた。

こうして、小坪井軌道田代川支線(仮称)の終点側探索は、大きなトラブルもなく完了したが、

なおも大きなが残っている。

私の中では今朝生まれたばかりの、新たな謎。



田代林道でショートカットした中間部の軌道跡は、

どうなっているのだろうか?


遠い帰路になりそうだ…。