人口稀薄な山間部や農村部にはしばしば、地域を維持するためのライフラインという大義を以て、極めて少ない需要を念頭にしつつも、財政的に脆弱な市町村の手には負えない生活道路が、都道府県道として認定されているものがある。
もちろん、今述べたような“後ろ向きな認定理由”が公言されることはなく、資源開発のためとか、観光開発のためとか、正直実現性の疑わしい壮大な広域ネットワークの一翼を担うとか、表向きにはもっと前向きな認定理由が用意されるわけだが、そういうそもそもの需要が稀薄な道路は、必要以上に整備されることは普通ないし、災害をきっかけに荒廃し、万年閉鎖の事実上廃止状態となるようなこともある。
全長約40kmの道道占冠穂別線も、一見すると、そんな行政のお情けで認定された路線のような感じがする。
沿線の人口は、長大さに比して驚異的に稀薄だし、整備状態も決して上等とは言えない。
近年は災害をきっかけに万年閉鎖状態になっているようでもある。
しかし、本当にただそれだけの道ではないと感じる要素が、あった。
それは、要所要所に設置されている大型の電光式道路情報板や八幡覆道という大きな構造物の存在だ。
こうしたものの存在は、この道道がただの閑散路線としてのみ見過ごされてきたわけではないことを物語っていたように思う。
お金の掛かっているところと、そうではないところが混在する、ちぐはぐな整備状態だったが、これはつまり、改良の途中で放棄されてしまったのだとも解釈できる。
この道路については、Wikipediaに個別ページがあり、道路現状については不足なく述べられているが、その歴史については「1969年(昭和44年)6月18日 路線認定」とあるのみだ。
この机上調査編では、道道610号の歴史、あるいはその先代となって穂別と占冠を鵡川沿いに結んだ道の歴史について、文献を元に解説を試みたい。
第一章 道道占冠穂別線の前史
上図は、和人の手による開発や入植が本格的に行われるようになる以前(明治24年)の鵡川中流域(穂別〜占冠)を描いた20万分1地勢図だ。
チェンジ後の画像は、比較用の平成7(1995)年版で、赤線で塗った位置に道道610号が描かれている(今回探索したのは富内〜福山)。
明治24年版は、そもそも本格的な三角測量が行われる以前の図であるから、地形表現自体が相当に大雑把で不正確なのだが、この図の範囲内にある「道」の記号は、左下の「穂別」や「辺富内」(=富内)の下流にしかなく、それより上は「道」がない。カタカナの地名は沢山あるが(これらがアイヌのコタンであったのかもしれない)、カタカナではない地名は「辺富内」より上流に一つもない。現在は小都会を形成している占冠すら地名がない。
内地では既に町村制が敷かれていた時期であるが、北海道は対象外で、自治体としての町村がまだなかった。もちろん地図でもそうなっている。(明治32年に北海道一級・二級町村制を施行)
こうした状況から開発は始まったのであるが。、これは北海道の多くの地域に共通した開発前史である。
しかし明治末頃になると開発は少しずつ進展し、拠点と拠点を結ぶ道も整備されていく。
明治44(1911)年に地質調査所が発行した『鉱物調査報告 第五號』所収の「胆振国勇払郡鵡川流域調査報告」に次の記述がある。
鵡川流域、富内上流部の交通事情が分かる内容である。
似湾村より鵡川本流に沿いて遡れば累標(ルイシベ)、カイクマ、辺富内(ヘトナイ)等の諸村落アリ何れも鵡川西岸に位す、辺富内村字上辺富内より下流は通路概ね平坦にして交通便利なりと雖も上辺富内より鵜川上流に横たわるニニュー村に至る間は経路険峻にして交通殆んど杜絶せり、然れども是より尚上流に遡りて占冠村近傍に至れば地形緩にして運輸の便少なからず
上辺富内(今の富内の北部)からニニウまでは「経路険峻にして交通殆んど杜絶せり」とあり、川沿いの道路がまだなかったことが分かる。
さらに詳しい記述が続いているので、抜粋して引用する。
累標村、カイクマ村、辺富内村は皆一寒村にして人煙稀薄処々にアイヌ部落を交ゆ、然れども占冠村は鵡川上流地方の最大村落として地勢広闊道路平坦にして地味豊穣なり、石狩国金山停車場を去ること僅に五里、貨物の運輸常に絶えず、又一方日高国に通ずるを以て近傍交通の中心たり
上辺富内及ニニュー村間の険悪なる地形は鵡川流域を二分して南北に分ち、上流地方と下流地方との連絡を絶ち反て夕張山脈の支脈を越て石狩国金山地方にその交通を開くに至れり
このように、鵡川上流の占冠が、石狩と日高を結ぶ交通の要衝として栄えていることが出ている。これは現在の国道237号の経路(富良野〜金山〜占冠〜日高)が既に通じていたことを述べている。金山から占冠への交通が早くから通じたことは、以前のこちらのレポートでも調べていたことである。
地図を見ればわかるが、占冠は鵡川の上流にあり、今でも占冠村は下流のむかわ町と同じ勇払郡に属している。そもそも、占冠という地名はアイヌ語の「シ・ムカプ(鵡川の本流)」という言葉から来ているとの説もあるし、明治38年に分村するまで占冠は辺富内村に属していた。
しかし、上述の通り鵡川沿いの交通路が整備されていなかったことから、占冠と下流諸村の人文的繋がりは薄く、それゆえ明治39年に占冠村は室蘭支庁(支庁は北海道において複数の群を束ねるものとして明治30年から設置されていた、これが現在の各総合振興局のもとになっている)から上川支庁(支庁所在地は旭川)へ移管され、現在も上川総合振興局の管内となっているのだ(むかわ町は胆振総合振興局管内)。
しかし、伝説的な要素にまで目を向ければ、決して鵡川沿いに古い交通路がなかったとはいえない。
たとえば、『新穂別町史』に、アイヌに伝わるこんな伝説が採録されていた。
大崩の蝮(まむし)
鵡川の上流の大崩には最近まで蝮が多く、行器(シントコ)のように積み重なっていることがあり、気味悪いほど蝮の臭いがあたりにただよっているので、魔物がいるところと呼ばれていた。
この蝮は、北見の湧別から山越えをして来て、穂別に夜襲をかけるつもりで来た人々がここまで来ると、岩の上に子供を背負った一人の女神が、赤い布で鉢巻をして踊っているので、自分たちの夜襲を応援鼓舞してくれると思い、その夜はここに夜営したところ、急に両側の崖が崩れおちて来て、夜盗どもはひとたまりもなくその下敷になって死んでしまい、その魂が蝮になってしまったのであるという。そのとき子守について来た女の子が一人助かって逃げ帰り、今後穂別に夜討ちなどするものではないと知らせた。
大崩とは言うまでもなく、八幡覆道がある、あの大崩壊地である。
通らなければ見ることのない景色を見たから、伝説が生まれたのだと思う。
明治末までの状況が分かったが、実は鵡川沿いの道が整備されるよりも前に、今回のスタート&ゴール地点となった福山の開発が始まっている。
次は『穂別町史』(昭和43(1968)年発行)からの引用である。
明治41年室蘭営林区署が、当時長和の高橋市郎右ェ門を先導に、福山・長和の分水嶺火防線刈払いをしたのを造林のはじめとして、翌42年には王子製紙会社苫小牧工場が、原料材として国有林を払い下げられ、オロロップ(福山)奥穂別(長和)中穂別(稲里)の3地区において、一斉に造材を開始した。この伐採及び運材は(中略)当初760余人の労務者を入れ、事務所はオロロップ橋の河原におき、飯場を今の市街地に設けて造材にあたったが、常時でも100人くらいの人夫がいて、9月に小屋掛けをして10月末に杣夫を入れて伐木するという方法で年間約4万石の原木をここから出材、オロロップ川の上流6kmの地点からテッポーで出したという。
このように、明治42年から現在の国道274号稲里トンネルがある山を越えて、オロロップと呼ばれた福山の地に杣夫が入り、伐採が行われた。出材は鵡川に鉄砲堰を作って流送したとあり、ここからも川沿いの道がなかったことが分かる。
福山の開拓は、この王子製紙による伐採から始まったのである。
そして次に、この切り開かれたオロロップ原野へ国策として全国より募集された入植者の団体が入った。
福山集落の黎明であるが、これがいかに苦難の始まりであったかが次のように述べられている。少し長いが引用する。
王子製紙会社の原料木造材で賑わった福山地区も、ようやく殖民地として解放されるに至り、東金蔵を団体長とする和歌山団体及び岡田清蔵を団体長とする山形団体の移住を見たのも、この大正7年のことであった。さらに同10年には大阪の博愛社孤児院団体・岩手団体・滋賀団体等相次いで来住開墾を見ているが、しかし移住者の苦労にもかかわらず、その成績は必ずしも良好とは言えなかった。由来この地境は平坦なる地形といえども、標高実に300米の高原に位いし、殊に明治44年には一円山火に見まわれて焦土が含み、加えて交通不便は営農上きわめて困難に陥入れた。
すなわち、和歌山団体のごときは、当初26戸をもって団体を組織したが、実際に渡道したのは内25戸である。一行はまず家族を夕張線の楓市街の旅館に残し、移住民世話所の指示によって、登川から長和に越え道もない荊棘をかき分けて、当時オロロップ原野といった入植地をさがして到着したのは4月10日のことであった。ところが故郷ではすでに百花繚乱の季節であるのに、オロロップの山々はいまだ白雪におおわれ、満目荒涼たる姿に絶望を感じたばかりか、おりから解氷期の鵡川は激流濤々として物凄く、それにもかかわらず一つの橋一つの舟筏さえない状況に、一行はただ茫然として天を仰ぐばかりだったという。
(中略)
辛うじてこの地に踏み止まったものは、当初団体長東金蔵・大野要太郎・大野寅吉外2人の5戸であったが、大野寅吉も同年10月兵役検査で帰郷したまま帰らず、ほかの2戸も程なく郷里に引揚げ、最後まで定着したのは東金蔵・大野要太郎の2戸に過ぎなかった。
(中略)
山形団体・岩手団体・滋賀団体等、いずれも人一倍の苦労をしながら、営農計画がなりたたず、全員または若干を残して転住の止むなきに至り、福山地区の開拓は昭和の初期まで失敗の歴史を繰返している。
右図は、大正9(1920)年版地形図に描かれたオロロップ(福山)の状況だ。
山と川に挟まれた山間の小平地に、一戸の人家も描かれていない。地図上では入植前夜の状況なのか、それとも既に退転した後なのか。
辛うじて小径はあり、一つは長和・夕張方面へ通じる山道、あとは川に沿う道が一応ある。この小径が道道の原形となったものである。
次に、いよいよ本題というべき、鵡川沿いの道路整備について述べる。
『新穂別町史』(平成3(1991)年発行)からの引用だ。
辺富内・オロロップ・奥穂別間道路
明治45年に至って奥穂別(長和)地区の官林が解除され、いよいよ穂別の奥地にも入植者が増し農産物の増加にともなって、車馬道を開設してほしいとの請願が行われるようになった。だが、奥地での道路整備は諸般の事情からそう簡単に行われるものではなく、相当の歳月を要した。
当地においてこれがようやく具現を見たのはオロロップ(福山)では団体入植を見た後のことで、大正9年10月にはじめて夕張郡登川駅から奥穂別を経てオロロップに至る馬車道が完成した。
一方、穂別―辺富内間の道路は大正8年9月に出来ていたが、シマロップ(字富内)からイワナイ(字福山八幡)間は道がなく、川沿いを通るか、けもの道しかなかった。止むなく住民の自家労力によって駄馬道を開いて、辺富内との交通を図っていた。この辺富内―オロロップの殖民地道路の開さくが施行されたのは同15年で、同年辺富内―大曲間の第一工区を竣工、翌昭和2年12月には大曲からオロロップまでの第二工区が完成して全通をみた。
富内と福山を結ぶ道路は、昭和2(1927)年に殖民地道路として開通していた。
殖民地道路とは、北海道庁の拓殖計画に従って整備された道をいう。
この時点では占冠までは通じていなかったが、今回探索した区間の原形が、この時点で整備されたのである。
そしてこの整備の前段階、ほんの一行にも満たない記述だが、「止むなく住民の自家労力によって駄馬道を開いて」いたことも見逃したくない。
ともかく、昭和2年に最初の車道が富内から福山まで開通した。
個人的な印象だが、北海道の人口稀薄な山中の道路としては、思いのほか早く整備されたと感じた。皆さまはどう思われただろう。
また、北海道独自の官設休泊ならびに逓送施設である駅逓所が、大正8年の富内駅逓所に続いて、翌9年に居路夫(オロロップ)駅逓所も開設されている。
この時点のオロロップ(福山)は外部の旅行者が訪れる場所ではなかったと思われるが、後の道路整備を見越していたのであろう(昭和18年廃止)。
富内福山間の殖民地道路が開通した昭和2年は既に旧道路法の時代である。
同法によって道路整備の優先順位を決める大きな根拠である国道を頂点とするヒエラルキーが明確化したことで、沿線の人々は、この生まれたばかりの殖民地道路が、より上位の地方費道や準地方費道(現在の道道にあたる)へ昇格されることを目指しはじめる。
当然、より良い道となることを求めてのことである。
当時の穂別においては国道、地方費道はなく、鵡川村境界―【穂別市街】
間だけがわずかに準地方費道であったため、地方費道として改修工事や、奥地へ通ずる道路や連絡道についての準地方費道昇格運動が行われた。昭和6年には準地方費道を地方費道として改修し、同時に【穂別橋】
を架設する運動が、同7年には穂別市街から中穂別、上穂別を経て夕張町登川に至る路線を準地方費道に編入する運動が、同8年には似湾―知決辺間の道路を準地方費道に編入する運動が北海道庁長官に対して行われた。このうち穂別市街―登川間が同12年に準地方費道に昇格した。
昭和14年になると、穂別市街から辺富内(富内)を経てオロロップ(福山)に至る36kmと、辺富内から日高国平取村幌去に至る5kmを準地方費道に編入して改修する運動や殖民地道路開さく運動が行われたが、時は戦時下体制を迎え他に緊急を要することが多く、一部を除いてほとんど実現しなかった。
このように、昭和14年に富内〜福山間の道路を準地方費道へ昇格のうえ改修する請願運動が行われたが、戦時下のため実を結ばなかったという。
しかし、ここまで得られた情報だけでは、富内と福山を鵡川沿いに結ぶ道路の重要性は十分に見えてこない。
というのも、終点の福山は前述した通り、入植者たちが死ぬほど苦労した寒村であり、出入りする交通量などたかが知れている。
そんな道が、今日の道道に相当する準地方費道への昇格を目指されるほど重要視された理由が分からないのである。
実は、福山一帯の鵡川沿川には、ここで述べた特殊な地質構造に基因する、ある重要な“地球からの贈り物”があったのだ。
クロム鉱石である。
クロム鉱石は、地球のマントル物質に由来するカンラン岩の中に限定して産出する。
その用途は様々あるが、鉄にクロムを添加することで耐食性のあるステンレス鋼を作ることができる。これが最大の用途になっている。
旧穂別町の三大鉱産物が、石油、石炭、そしてこのクロム鉱石であった。

『北海道地下資源調査資料 (11)』(昭和28年)より
右図は戦後間もない昭和28(1953)年に北海道開発庁が発行した『北海道地下資源調査資料 (11)』に掲載された「沙流川・鵡川流域のクローム鉱山位置図」である。
左下の「穂別」から「富内」を経て中央上部の(占冠)「中央」まで、概ね鵡川に沿う道が描かれており、沿線の各所鉱山が示されている。沢山あるが、中でも「八幡鉱山」は主要鉱山として表記されている。その位置は、本編で通過した八幡地区の西の山中だ。
そしてこの資料には、鵡川沿いの道路の整備状態が次のように述べられていた。
穂別村富内市街は、国鉄富内線の終点で、ここから占冠村との村境に近い岩美鉱山まではトラック道路が通じている、さらに新入(ニニウ)部落を経て中央市街まで駄馬道あるいは馬車道がある。
ここに、現在の道道610号の全区間である富内〜占冠間の全線について、道路状況が明らかになった。
富内から福山を経て岩美鉱山まではトラック道路があり、そこからニニウを経て占冠中央までは駄馬道や馬車道であったという。
また、先ほどの地図をよく見ると、ニニウから占冠までは現在の道道のように川沿いを通らず、鬼峠を短絡している。
前掲の『穂別町史』は、町内クロム鉱山の盛衰について述べている。
それによると、明治27(1894)年に現在の福山発電所跡の近くでクロム鉱石が発見され、その後、明治、大正期に複数人の手を渡りながら小規模な採掘が行われた。
昭和8年に福山で日の出鉱山が発見され、馬車で辺富内駅へ出した。
そして次いで主力となる八幡(やはた)、岩美(がんび)両鉱山が発見、盛況を迎える。
しかるに支那事変勃発のころから、軽金属原料としてのクローム鉱石の需要は、事変の進展とともにいよいよ強調され、おりから昭和12年八田鉱業所は、本町福山地区モトツに鉱区を得、岩美・八幡の両鉱を開き積極的な採鉱事業が行われた。(中略)最盛期と伝えられた昭和17年頃の出鉱量は、岩美鉱山・八幡鉱山ともに1日各々1000俵を数えるに至り……
重要資源として、強力な開発を要求されたクローム鉱搬出のために、昭和18年福山―雁皮原(がんびわら)間のトラック道の開さくがあり、また福山―富内間の全域にわたって改修が加えられて完全道となして、活発な輸送が行われ、地方物資もこのトラックの便に託するようになった。
このように、昭和18年に富内〜福山〜岩美鉱山の間に、鉱石運搬のためのトラック道路が整備され、昭和2年以来の殖民地道路は、占冠村境に近い位置まで延伸されたのである。
戦後も両鉱山の盛況は続き、昭和25年の朝鮮動乱期に最高潮を迎えた。当地方全体で、国内クロム鉱石80%を産するほどであったが、その後はフィリピン輸入鉱石の進出で不況となり、町内のクロム鉱山は全て昭和30年代までに閉山したそうである。
右図は、昭和33(1958)年版地形図の福山一帯である。
鵡川に沿って車道である道路が描かれており、福山には市街地が形成されている。学校もある。
また、八幡にも僅かに人家があり、その西側に「くろーむ」と注記された鉱山記号がある。これが八幡鉱山である。
本編で通過した【八幡橋】
の袂がその入口で、鉱山跡へ通じる道路は現在パンケオロロップ林道と呼ばれている。
昭和17(1942)年に発行された鉱山業界誌『鉱業之日本 13(11)』の記事「本邦クローム本山の全貌 八田鉱山視察記」に、岩美鉱山へ向けて建設が進められていたトラック道路の完成と鉱山の稼行を熱狂的に歓迎する、福山住民の姿が次のように描かれていた。
地元福山の部落は(中略)与えられた厖大な土地も痩地のためか耕すに耕せども家族の口を塞ぐに足らず働き疲れた移住民は、田畑を荒れるがままにまかせてどこともなく姿を消して行くのであった。今では残された三十幾戸の人々も、食わんがための土地を求めて移住の準備にかかっていた時、突然二十年振りで自動車の警笛を耳にしたのである。この時部落民は自動車が来たというので、トラックに駆けより、雀躍りして喜ぶやら感激の余りなき叫ぶものもあったということであった。このトラックこそは、岩美鉱山の開発車であり、地元民への福音を齎した第一便でもあったのである。爾来部落民は鉱山の開発に全力を注ぐことに一決、岩美鉱山が本年頭初より本格的稼行に入るに及んで、坑夫となり、選鉱婦となり、牛馬は荷車を引く等、ここにこの三十余戸は既墜に挽回されて、駅逓所には七千円の貯金を産するに至ったという向上振りを示している。
このように、鵡川一帯のマントルに由来する特殊な地質は、軟弱地盤や崩壊地というネガティブな要素だけでなく、鉱石の恵みというポジティブも同時に与え、道路整備を推進する力となった。
昭和10年代に準地方費道への昇格運動があったことも、当時のクロム鉱山の盛況を見れば決して違和感はない。
『官報 1951年10月25日』に、北海道道路令の規定により公共事業費より支弁する市道及び町村道の費用の支弁期間を定める告示があり、物凄い数の市道や町村道の路線名が掲載されている。その中に、穂別占冠線という路線名が紛れていた。
昭和25年当時、穂別村道や占冠村道として、穂別占冠線という道路が認定されていて、それが公共費から費用を捻出できる、実質的な地方費道のように扱われていたことが分かる。
着実に改良への歩みを進めているように思われたが、しかしこの道路を支えていたクロム鉱山の賑わいは、昭和30年代に終焉を迎える。
行き交うクルマも大幅に減少したであろう。
昭和27(1952)年に道路法が全面改正され、地方費道や準地方費道の根拠であった北海道道路令は廃止となる。そして、従来の府県道が拡張され都道府県道となった。
それから17年後の昭和44(1969)年6月18日、ようやく道道占冠穂別線が認定されている。
かなり時間が空いているが、この期間にどのような整備や、あるいは陳情活動が行われていたかは、記録が見当たらない。
クロム鉱山の衰退によって、路線全体の重要度が下がっていたことは理由として考えられるところである。
しかしともかく、ようやく道道が認定された。
それでどうなっていったのか、次の章で見ていこう。
本稿は鵡川沿いの道路を主題としているが、ここに鉄道が整備される可能性もあった。
北海道庁が明治23年から順次発行した北海道実測切図という20万分の1縮尺の地図があり、その最終盤である大正9(1920)年に印刷されたものはGithubで公開されており見ることが出来る。
そこには勇払の海岸線から鵡川を遡り、穂別、富内を経て、福山、占冠と鵡川沿いをひたすら遡って金山峠を越え根室本線の金山駅へ至る鉄道予定線が描かれている。
大正12(1923)年には実際にこの予定線に沿って北海道鉱業鉄道金山線が富内まで開業し、戦時中にこれが国鉄富内線となる。
大正11(1922)年に公布された、国が建設すべき鉄道予定線のリストである鉄道敷設法の別表には、「膽振國鵡川ヨリ石狩國金山ニ至ル鐵道及ペンケオロロツプナイ附近ヨリ分岐シテ石狩國登川ニ至ル鐵道」が記載されており、この前段部分が鵡川沿いの鉄道を規定していた。なお、後段部分のペンケオロロツプナイは現在の福山周辺を指しているとされ、このことからも福山が鉄道予定地であったことが分かる。
別表は後に追加が行われ、昭和28年の改正で追加された「十勝國御影付近ヨリ日高國右左府ヲ經テ膽振國邊富内ニ至ル鐵道」を元に、昭和33年から39年にかけて富内線は日高町まで延伸された。
いずれの経路を採っても、最終的に富内線は占冠を経て金山へ達するはずであったが、以降の延伸は実現しなかった。
ただし、これらの予定線は、後に国鉄石勝線を建設する根拠として活かされている。
別表が「ペンケオロロップナイ」ではなく、「ペンケオロロップナイ附近」としていた柔軟性のためか、石勝線は福山を通らず、そもそもむかわ町内に駅を置かなかったが…。
鉄道敷設法は、各地に悲喜こもごもの鉄道誘致合戦を生んだ別表と共に、昭和62(1987)年に国鉄民営化に合わせて廃止された。
富内線の全線廃止は、その前年であった。
第二章 道道認定以降のあゆみ
残念ながら、この出来事の背景に言及した文献は見当たらないが、昭和44年6月18日に一般道道占冠穂別線が認定されている。
そして、ちょうどこの少し前頃に、富内〜福山〜ニニウ〜占冠の全線が、自動車が通れる道路で繋がったようである。
上に掲載したのは昭和39(1964)年版地勢図で、この時点では福山の北、かつて岩美鉱山があった辺りで車道は途切れている。
だが、チェンジ後の昭和47(1972)年版では、既に現在の道道610号の一連の経路が、都道府県道を示す二重線で描かれ、開通している。
福山〜ニニウ〜占冠間の開通は、おそらく昭和41(1966)年頃とみられる。
なぜなら、この区間に架かる多数の橋の竣工年を調べると、昭和39〜41年のものが並んでおり、その最も新しいものが41年であるからだ。
ここまでの経緯を踏まえれば、穂別町と占冠村が穂別占冠線という名の町道や村道として整備を進めたのだと思う。
現時点では福山以北の探索レポートは未執筆であるため、この区間の実態は省略するが、おそらく昭和41年が全線開通の年。
それから間もなく道道へ昇格した後の展開が、本章の主題である。
……なのだが、情報は多くない。
したがって、少ない情報を軸に、推測を交えて進めて行かざるを得ない。
![]() | ![]() |
『北海道道路粁程表』(昭和54年)より
昭和54(1979)年に北海道道路整備促進協会が発行した『北海道道路粁程表』という、なかなかマニアックな資料がある。タイトル通り、様々な道路のキロ程表が掲載されている。
右に掲載したのが占冠穂別線のキロ程表で、占冠村内と穂別町内で2枚の表になっているが、「支庁界」を介してちゃんと繋がっていることが分かる。
占冠村内が15.2km、穂別町内が26.4kmで、合計41.6kmの道のりだ。
現在、福山の路上に【24kmポスト】
が立っているが、この表から計算すると福山は起点から23.9kmとなりキロポストと合致するから、この年代のキロ程を反映しているのだと分かる。

『グランプリデラックス全日本道路地図』(昭和57年)より
そう! やっと繋がったのだ! 鵡川の上と下が1本の道路で!
これは歴史を考えれば、鵡川流域のみならず、胆振、石狩、日高の隣接する3国交通史上のエポックであったはず。
なにせ、前述した通り、開村当初の占冠は鵡川沿いの交通路がないばかりに、郡を越えて、山を越えて、石狩側の管轄に収まった経緯がある。「もしも」鵡川沿いの道路が最初にあったら、そうならなかっただろう。
流長135kmを数える鵡川の最大の難所だった中流部(富内〜占冠間)の道路が繋がったことで、河口から源流の占冠村トマムまで1本になった。トマムまで行けば狩勝峠は間近であり、道東の大平原へ道は繋がっていた。
上に掲載したのは昭和57(1982)年版の道路地図だ。
左端に札幌、右端に帯広が収まる、とても広い範囲を切り出している。
全長40km超という決して短くない道道占冠穂別線が、でっかい北海道を舞台とする広域交通網の中で、どんな立ち位置を持ち得たのかを考察する道具としたい。
この地図には、今は当然にある道路のいくつかが、まだ存在しない。
例えば道央と道東を最短で結ぶ高速道路である道東自動車道がない。
さらに、同じ役割を担う一般国道である国道274号も一部未開通である。
今よりも道路が少ない中だから、道道占冠穂別線の存在感は、当然今よりも大きく見える。
もちろん、後発の道であるための不利はあった。
繋がったばかりのこの道は、所詮未舗装1車線の山道だった。
だから、いくら便利な場所を占めたとしても、直ちにメインルートになることはなかった。
また、既に鵡川の隣を流れる平取川に沿って国道237号が整備されており、これが占冠穂別線に潜在する需要の多くを先取りもしていたことだろう。
だから、開通した占冠穂別線は、いきなり主役に躍り出ることはなかったが、それでも二番手、三番手のチョイスとしては、着実に存在感を有したのではないだろうか。
少なくとも、さらに整備して行こうという気にさせるくらいの需要はあった。
この点で、そもそも行き止まりである路線や、繋がっていても経路が余りに迂回的で沿線施設の利用者しか選ばない路線とは異なる、地の利があった。
地形的に、占冠まで峠を越えずに辿り着ける道は、これしかないのだ!
冬の積雪の面では有利であったはず。

『北海道雪害対策実施要綱 昭和51年度』より
北海道防災会議が発行した『北海道雪害対策実施要綱 昭和51年度』は、占冠穂別線の積雪面での有利さを感じさせる資料である。
これは、北海道内で冬季除雪を行う道路の一覧及び、その除雪体制をまとめたもので、右図は除雪路線図である。
この図の黒線は開発局が除雪を行う区間(国道や開発道路)で、赤線は北海道が除雪を行う区間(主に道道)である。
冬季除雪を行わない道は、そもそも描かれていない。
見ての通り、占冠穂別線は全線が除雪対象路線であった。
驚きではないだろうか?
昭和51(1976)年当時である。
本編で登場した【福山地先覆道】
こそ完成間近であったが、【八幡覆道】
はまだなく、おそらく市街地以外のほとんど全線が未舗装1車線道路だった時代だ。
その状態の道路を、冬季も除雪して通していたのだ。
確実に需要があったことが窺える。
単純に富内と占冠を結ぶという次元を超えて、道東と道央を結ぶ、あるいは太平洋岸と富良野盆地を結ぶ道路の一翼を担うものとして、広域交通に組み込まれつつあったのだと思う。
ちなみに、通年通行止となっている現在は当然ながら、除雪は行われていない。
| 国道 | 237号線日高峠〜日高町間の工事促進要望、274号線の完成促進、北海道横断自動車道の計画路線への昇格促進 |
| 道道 | 占冠〜落合線、占冠〜穂別線の改良鋪装の早期完了 |
| 村道 | 鋪装の伸長 |
| 林道 | 各路線の開削整備、占冠〜夕張線の道道昇格促進 |
昭和56(1981)年に公表された『地方振興対策調査報告書』に、占冠村が昭和53〜62年度を計画期間として策定した「占冠村総合開発計画」の要点がまとめられているが、道路の項目は右の通りであった。
「占冠穂別線の改良鋪装の早期完了」という項目がある。
また、一緒に掲げられている道道占冠落合線は、占冠からトマム・狩勝峠方面へ抜ける路線(現在の道道136号)のことであり、この二つの路線は一連のものと捉えられる。
このように、道道昇格後は急ピッチに改良が進められる趨勢であったものの、その実現が一筋縄ではないことは、本編を読んでくれた皆様ならお分かりいただけるだろう。
クロム鉱という地球の恵みと表裏一体にある、アレが、大きな障害となって立ちはだかったのである。
北海道の道路をテーマとした単一の文献としては最も巨大で総合的と評価される、平成2(1990)年に北海道道路史調査会が刊行した『北海道道路史』に、占冠穂別線の名前が1回だけ登場する。第2巻「技術編」第4章第3節「蛇紋岩と地すべり」第2項「蛇紋岩分布地域における土工」第3小節「地すべり」に、次のとおり……。(もうこの本にこうして個別に取り上げられているというだけで、いかに占冠穂別線が特殊な条件であったか分かる…)
・道道占冠穂別線
北海道のほぼ中央部を走る道道占冠穂別線では勇払郡福山付近で蛇紋岩分布地域を通過している。当該地区は地すべり地帯となっており、いたるところで法面の膨み出しなどの変状が認められ、絶えず緩慢な動きが継続している。そのうちの一箇所が昭和56年夏の記録的な豪雨により滑動するに至った。調査、解析の結果、最終的な対策工については抑止杭を考慮するが、地下水排除工によって安定性を高め、その動態を観測した上で効果を確認してから抑止工を検討をするという、段階的な対策工が適当であると判断された。この基本方針にしたがって表面排水工、集水井など徹底した水抜工が実施された結果、地すべりは小康状態を維持しながら現在に至っている。
内容が怖い!!😱😱😱
ここに述べられている昭和56年に地すべりが起きた現場は、今回探索した区間内であるかどうかも含め、はっきりしていない。
しかし、どちらにしても内容が怖い。
「いたるところで法面の膨み出しなどの変状が認められ、絶えず緩慢な動きが継続している」が怖いし、色々対策した後もなお「地すべりは小康状態を維持しながら現在に至っている」なのも怖すぎる。
そして、ここに書かれてるような地すべりの再発が、今回探索した区間が長期間封鎖されている直接の原因であろう。
富内から約7kmの地点で遭遇した、右写真の路盤沈下現場がそれだ。
八幡覆道のように対策工が建てられることもなく、崩れたまま放置されていた。
しかし、『道路史』の記述から、対策がとても難しいことも読み取れる。
不可能ではないとしても、コストは莫大なものとなるのであろう。
一帯が蛇紋岩地帯であることが、道道占冠穂別線の最大にして、かつ克服が極めて難しい弱点なのだろう。
それでも、危険度の高い部分から優先的に改良が進められていったのだろう。
今回探索区間内にあった福山地先覆道(昭和52年完成)や八幡覆道(昭和55年完成)は、その成果である。
この頃が、占冠穂別線としての全盛期ではなかったかと思う。
昭和58(1983)年7月に今回探索区間をバイクで走破された方からコメントをいただいたので紹介する。
リンク先で、当時の八幡覆道を見ることができるので、あわせてどうぞ!
読者さまコメント
さて、今回も拝見してましたら見覚えのある景色がありましたので調べましたら、昭和58年7月に逆ルートで走っておりました。当時はR274が全通しておらず、夕張からこの道を抜け、県道131からR237を通り、R274に復帰して日勝峠を超えていました。フイルムカメラの時代で一写入魂の時代でしたが景色を気に入ったようで、「八幡覆道」の写真を1枚とっておりました。リンク先の真ん中あたりに写真がありますので、よろしければご覧ください。43年前の事ですが、当時からかなり崩れていたようですね。今後も楽しいレポートをよろしくお願いします。
しかし、平成に入ると間もなく、占冠穂別線の需要は減少に転じることになる。
その理由は――
『むろけん40年のあゆみ』(平成4年)より国道274号「石勝樹海ロード」の全線開通(平成3年9月19日)だ。
国道274号「石勝樹海ロード」は、開発局が25年の歳月と610億円の巨費を投じて完成させた全長32.4kmの道路で、当時の鳩山政務次官ら8人がテープカットを行っている写真の現場は、現在の福山PA附近である。
この道路の開通によって、札幌帯広間は従来主に利用されていた札幌→苫小牧→平取町→日高町→日勝峠→帯広の経路から約40km、時間にして1時間短縮され、道央と道東を結ぶ新たなメインルートとなった。
蛇紋岩地帯である山々を、多数の橋とトンネルで貫通するこの壮大な新道は、昭和40年に予備的地質調査が始まり、41年に開発道路(町村道)日高夕張線を指定して事業をスタートさせている。
つまり、占冠穂別線が道道となるよりも前から工事は始まっていた。
昭和45年に町村道日高夕張線は、都道府県道を飛び越えて国道274号へ昇格し、そのまま開発道路の指定を継続して建設が続けられた。
昭和59年に福山の西側、稲里トンネルの区間が部分開通し、平成3年に残りの区間の開通を以て、全線開通となった。
これにより、福山は国道と道道が十字に交差する地となり、最後の繁栄の機会を得たと思われるが、令和現在の状況は本編の通りである。
なお、国道274号の新設工事についても、蛇紋岩地質との苦闘に明け暮れた記録が沢山あるが、見事に克服している。道道占冠穂別線とはコストの次元が違うと思う。技術的にやれないことはないが、コストは掛かる。やる道と、やらない道があるというのは、当然だろうな…。
| @ 昭和45(1970)年 |
|
|---|---|
| A 昭和59(1984)年 | |
| B 平成3(1991)年 | |
| C 平成19(2007)年 | |
| D 平成23(2011)年 | |
| E 現在 |
右図は、道道占冠穂別線の認定以降の道路の変遷を図示したものだ。
@は道道認定の翌年、国道274号認定の年(昭和45(1970)年)の状況。
Aは国道274号部分開通の年(昭和59(1984)年)の状況。
Bは国道274号全線開通の年(平成3(1991)年)の状況。
Cは道道占冠穂別線の支線が開通した年(平成19(2007)年)の状況。
Dは道央自動車道の夕張IC〜占冠ICが開通した年(平成23(2011)年)の状況。
Eは現在(令和8(2026)年)の状況をそれぞれ示している。
@からBまでの期間が、占冠穂別線の全盛期であったと思う。
というのも、この期間は道東を目指す一部のドライバーが、札幌→夕張→稲里→穂別→富内→幌毛志→日高→帯広のように通行した。
確かにこのルートは苫小牧まで迂回するよりもだいぶ近い。
そして占冠穂別線は、このルートのバリエーション、あるいは抜け道であった。
このような交通流を念頭に、穂別から富内へ向かう道道131号の路上に、先触れとなる【占冠穂別線の道路情報板】
が複数設置されていたのだと考えられる。
B以降、占冠穂別線の重要度は下がっただろう。
もちろん、沿線の富内や福山、ニニウにとっては重要だろうが、全線を通して利用する需要は少なくなったと考えられる。
とはいえ、この時点で整備を中止したわけでもなく、航空写真を見てみると、この年代に今回探索区間内の【ここ】
や【ここ】
の拡幅工事が行われている。東西方向の需要は減っても、鵡川に沿った南北方向の需要は変わらなかっただろうし、少しずつ整備を進める方針は変わっていなかったと思う。
CとDは連動している動きである。
平成19(2007)年に道道占冠穂別線は突如4.5kmの支線を供用開始した。
この支線の目的は、国道274号の札幌方向と道東自動車道の占冠ICを接続する目的があった。同ICは平成23(2011)年に供用開始し、同時に日高山脈を横断する初めての高速道路が開通した。
支線の開通によって、本線の福山〜ニニウ間の潜在的需要が奪われた形だ。
Eは現在の状況で、富内〜福山間と、福山〜ニニウの間が、それぞれ長期間にわたって通行止になっている。
この2つの通行止は別々の道路災害を原因にしているのではあろうが、根源的な問題として、現在の道路管理者に復旧する意思があるのかどうかが気になる。
通行止が長期継続しているというのは、そういうことである。
しかし、具体的には、いつから通行止が継続しているのであろう。
今回探索した富内〜福山間のネット上にある一番新しい通行記録(解放時)は平成18(2006)年11月3日で、WEBサイト「自己満足北海道」でレポートされているので、ぜひご覧いただきたい。
ダートではあるが、それほどワルい道ではない。
もちろん、路体の欠壊もまだ起きていなかった。
そして、このレポート内で筆者のふよ氏が、次のように書かれていた。
この道は、蛇行する鵡川沿いを進む崖に沿った道幅の狭い道部分もあり、頻繁に崖崩れがおき、不定期に通行止の時期が続くことが多かったが、2024年現在、2016年の台風10号の被災後?占冠村ニニウの一部を除き通年通行止めになって久しい。紹介する富内〜福山間はそれ以前から長期の通行止めとなっている。
北海道新聞データベース「どうしんDB」を占冠穂別線をキーワードに検索してみたところ、平成24(2012)年9月19日号朝刊の「穂別福山の道道 通行止め一部解除」という記事が最も新しく、内容は、「18日、路肩や路面の決壊などで10日から通行止めとなっている道道占冠穂別線の2区間のうち、穂別福山160―穂別富内間(11.6キロ)の通行止めを解除した。穂別福山支庁界―穂別福山157間(8.6キロ)は通行止めを継続。復旧まで数週間かかる見込み。
」というものであった。
記事からは、この後で全区間が解放される見通しのように読めるが、続報はなく、またその解放後に現在まで継続している長期通行止へ陥った際の記事も見当たらなかった。
また、当レポートへの読者さまコメントの中に、「突入ありがとうございます。平成20年ぐらいまでは通れる時もあり何度か通っています。特に紅葉時期のオロロップ渓谷は綺麗でした。最近はずっと通行止めでしたが、放置されていたんですね。平成20年頃を境に通行止め道々が増えた気がします。
」というものがあり、平成20(2008)年頃に通れたということであった。
むかわ町議会平成27年第3回定例会の会議録に、次の内容が見つかった。
- ○3番(中島 勲君)
- ……2番目は、穂別地区福山のオロロップ渓谷についてであります。これは、場所は国道274を通って占冠方面に向かい、福山大橋を手前で右折し、少し進んだところにオロロップ渓谷というものがあります。皆さん御承知だと思いますけれども、このオロロップ渓谷というのは、非常に奥深い森全体が、秋になると、鮮やかな色、深紅色になると。その景観は隠れた紅葉スポットとして全道的にも知られているそうです。(中略)
- ○地域経済課長
- ……しかし、このオロロップ渓谷は、沿道を通過しつつこの景色を鑑賞できたものでありますが、道道占冠穂別線がたび重なる道路災害によりまして、穂別富内から穂別福山の間においては、平成21年より現在も通行どめとなっているところでありまして、再開の時期も不明とされ、観賞ができない状態となっております。 また、付近は険しい地形であるため、徒歩であっても、道路を除いてはその場まで行き着くことが非常に困難でありまして、現状では利便、また安全対策上の問題から、景観、観光面での利活用は控えているところでありますので、御理解いただきますようお願いいたします。
オロロップ渓谷とは、まさに今回探索した富内〜福山間の沿道にある【鵡川の景勝】
を言っている。
そして、この区間の道道は、平成21(2009)年より通行止となっていて、再開の時期も不明ということが述べられていたのである。
福山以北については、情報がないが…。
これは「どうしんDB」で調べた内容と矛盾するように思うが、むかわ町の認識はこうなっているようだ。
あるいは、記事が間違っているのか、記事のとおり再開通した後に、むかわ町が認識できないほどの短期間でまた被災したのか。ここがどうもはっきりしない。
さらに翌年の平成28年第1回定例会にも次のような内容があった。
オロロップ渓谷へ通じる道路、道道占冠穂別線のみであり、平成21年より現在も通行どめとなっているところでございます。御質問の現地調査につきましては、道路管理者でありま す北海道から通行どめ区間の道路使用承認を得た上で、昨年の9月の末に、道路の現況確認とあわせ、オロロップ渓谷の観光資源調査を私も含め道路及び観光を所管する職員にて現地 確認を行ってきているところでございます。道路状況につきましては、土砂の埋塞あるいは地滑りによる道路決壊箇所というのが多発されていることを確認しております。復旧に対し ては相当多大な費用を要することも想定され、再開は非常に困難な箇所と思われているところでもございます。
これを見る限り、現状からの復旧は相当に厳しそうな印象である……。
道路管理者である北海道に対し、復旧へ向けた強い働きかけをして行くみたいなことも述べていないし…。
もしかして、もう諦められている…………?
昔、福山に入植した人たちが必死に造り、穂別村としても積極的に改良を陳情したり、鉱山会社による整備をサポートした道だ。
昭和40年代には遂に道道となり、本格的な改良の緒に就いたかにも思われた道だったが、哀れ、“足場が悪かった”。
そのうえ、もっと便利な道が作られてしまっては、退転もやむを得ない。
道の世界の現実は、相も変わらず、シビアである。

