孤独の楽園 〜雄冬岬パーキング跡〜
2018/5/24 15:37 《現在地》
タンパケトンネルと繋がっていたタンパケ覆道北口を振り返って撮影。
トンネルと同じデザインの扁額が設置されているだけでなく、坑門左下の壁にも小さめの扁額と、銘板が設置されていた。
チェンジ後の画像がそれだが、銘板によると昭和56(1981)年11月完成、全長84.2mとあって、道路開通当初からの構造物であったことが分かる。
当初は短かったが、やがてタンパケトンネル北口まで200m以上延伸し、ひと繋がりの構造物となったのだった。
タンパケ覆道北口の緩やかなカーブから、ガードレール越しの海を眺めると、いくつかの岩礁が浮かんでいる。
これらは地形図にも描かれているが、地形図には岩礁と共に「雄冬岬」という地名の注記がなされている。
正直、この場所はあまり“岬感”がなく、すぐ隣にあるタンパケトンネルが潜る岬や、この先の(その名も)雄冬岬トンネルが潜っている岬の方がよほどそれっぽい地形だが、地形図を根拠とするなら、雄冬岬はここである。
それにしても、チェンジ後の画像で拡大した岩のシルエット、チェスのナイトの駒にとんでもなく似てるな。馬の上半身の後ろ姿に見える。耳もたてがみも完璧。ナイト石だ。
15:39
ひとしきり逆光の海を眺めてから、前進再開。
タンパケトンネルを出たところから唐突に、道路の両側に歩道が現われた。
歩道の海側にはオシャレな感じの手摺りもあり、北海道の中でもそれなりに著名である雄冬岬のネームバリューや、間違いなく美しいと思える風景は、ちゃんとロードサイドの観光地として取り扱われていたことを感じる。
だが悲しいかな、この道路の廃止と共に、雄冬岬は今や気軽に訪れることの難しい場所になってしまった。
こっ これはッ!!!
これこそは、雄冬岬旧道へ到達したら、ぜひこの目で見たいと思っていた――
“敵前上陸”の突堤跡ッ!!!
突然の“敵前上陸”というワードに、何のことかと思われるかも知れないが、これを読んで欲しい。(↓)

『北海道道路史 第3巻』より
一般国道231号浜益村タンパケ改良工事 ― 断崖に挑んで敵前上陸第一歩の海岸擁壁 ― 雄冬岬トンネル南側より望む(1979年)
探索前に読んだ『北海道道路史』にある、このインパクト抜群の写真とキャプションが、忘れられなかった。
この写真の撮影地がまさにこの場所であり、写真は建設初期の工事風景である。
「自然に挑む」みたいな表現は私もするが、ここまで明確に、自然を打倒すべき「敵」だと表現した行政史を初めて見た。
当初いかに歯の立ちがたき難工事であったかということが、伝わってくるようである。
そして、私がここで出会った、海上に突き出したコンクリート構造物の正体は、
千代志別〜雄冬間工事は、昭和48(1973)年度より、千代志別、雄冬の両側からはじまった。昭和49年には事業の進捗をはかるため、中間のタンパケに突堤を築き、資材を海上輸送し、昭和50年から本格的に、ここからも工事をすすめ、昭和56年11月10日に開通した。
昭和49年に、国道工事の資材運搬目的で設置された突堤であった!
陸から辿り着く道のない海岸への工事資材輸送のための突入を、“敵前上陸”と表現していたわけである。
なんとも言い得て妙ではないか!
工事用突堤跡と雄冬岬を振り返って撮影。
現存しているか不明であった、当道路建設の記念碑ともいうべき遺構の存在を確認できた!!
これは今回探索の大きな成果である!
私が、ここは海から攻略したいと普段以上に強く思った理由が、この上陸作戦のエピソードであったから、嬉しかった。
ほんと、ここに記念碑があってもいいくらいだよ…、タンパケ上陸作戦記念碑が……。
15:40 《現在地》
少し海上に意識を引っ張られ続けていたが、間髪入れず今度は山側に、出現!
ここはかつての雄冬岬パーキング跡であり、その背後の山には小さなトンネルが口を開けている!
この場所は、雄冬岬旧道の中ではもっとも開けた、地形が優しい場所である。
とはいえ、この場所に山を越えて陸路で到達することが出来るかと言われれば……、少なくとも、そういう前例を耳にしたことはない。
私は地図を見ただけですぐに諦め、早々にカヤックの導入へ舵を切ったが、背後に聳える古道が通じる尾根から約300mの落差がある。しかも尾根の下は屏風のような岩崖になっているのが見える。
乗用車なら20台くらいは駐められそうパーキングエリアだ。
特に建物や観光案内板のようなものは見当らないが、特に後者はあってもおかしくない感じがする。
ここから眺める景色が、観光ガイドが紹介する雄冬岬であっただろう。
特に夕陽を愛でるには最高の立地だ。
安全と引き換えに、現代人が手放した価値ある景色はとても多いが、ここもその一つだ。
案内板は見当らないが、非常電話ボックスが設置されていた痕跡があった。
トンネル内のは放置なのに、屋外のは回収したんだな。
非常電話が外にあるのも珍しいが。
背後の壁には、「マムシ注意」の黄色いステッカーが貼ってある。残されたモノが、微妙に抜け殻感ある。
15:41
パーキングの山側で、先ほどから強烈な存在感を発揮している坑口の正体は、現道である浜益トンネルの横坑である。
現在は浜益トンネルの一部になっている全長1555mの新雄冬岬トンネルを建設するために準備された横坑であるから、廃止された一連の旧道より明確に新しい世代のものだ。
だから見た目も明らかに新しい。
このトンネルの工事が始まってからは、横坑前の駐車場も工事用スペースとして利用されたであろうから、もはや観光客を受け入れることは出来なかったと思われる。
その時点で一足早く観光地としての役割は終わったといえるかもしれない。
そして当然、工事中であれば、この横坑の入口には、警備員が目を光らせていたと思うが……。
ひゃっはー! フリーパスだぜ〜〜!!
って、 おいこれ珍しい物あるぞ!
↑これ、“化粧木”って言うんだけど、
昔から日本で伝統的に工事中のトンネルや坑道の入口に設置する、その名の通り飾りの一種であって、
(Google画像検索リンク:化粧木)
トンネル工事には付き物だから、これまで設置された総数は膨大であろうが、
工事終了後もそのままになっているのは、激レアだ!!
こういうのが残ってしまってるというのも、なんというか、トンネル工事の終了と同時にこの場所が一般の目から完全に遠ざけられ、関係者しか立ち入れない領域になったことの裏返しなんだろうなって思う。
本来一般の目に止まる場所であれば、こういう工事用の仮設構造物なんかは工事終了後に塞ぐとか何か処理をするんだろうけど、化粧木さえ外されないまま放置されているとは……。最後の工事関係者が撤収した日のママなんだろうなぁって…。
扁額や、銘板などはないけれど、化粧木あるし、こここそが、地上には存在しないはずの「新雄冬岬トンネル」の坑口って感じだなぁ。
それじゃあ、遠慮なく……。
旧道上のトンネルよりは明らかに小さな断面だが、それでも1台ずつ大型ダンプが通れるような広さがある。
内壁は素掘りにコンクリート吹付けのままで、格子状にNATMのボルトが露出している。綺麗な本坑とは違う、いかにも工事用の舞台裏って感じだ。
奥行きは短く、最初から突き当たりに見えている銀色の扉まで50mくらいだ。
地図を見てもそのように描かれているが、浜益トンネルの側面はどこも海岸線からそう離れていないのである。
あの扉の向こう側が現トンネルだと思うが、今は静かだ。
ヨッキがフニャフニャになっちまった!!!
15:43 《現在地》
横坑は、入口から30mほどで、小部屋に突き当たる。
部屋と言っても四角い空間ではなく、トンネルの断面が2車線道路くらいまで拡大しているだけなのだが、その広がった空間に1軒の建物がある。
建物の外壁には「浜益トンネル第2電気室」のプレートが掲げられているので、旧道ではなく現道のトンネルの関連施設であり、もちろん現役であろう。
つまり、現道側からこの施設にアクセスする経路が確保されている。
言うまでもなくその経路とは、背後にある、私には見覚えのある扉である。
私の前では、開かずの扉。
これさえ開けば片道3kmの決死の航海は必要なかった、曰く付きの扉。
二つのドアレバーと、両開きを制御する回転式ロックを有する頑丈な扉だが、こちら側には施錠という機構自体がない。
反対側に南京錠があることを偵察時に目撃していたから開くことは出来ないのだが、せっかく来たので、普段は触ることがない大きなドアレバーやロックレバーの操作感だけでも味わってみようっと。
どれどれ……
!
なんと、扉が開いてしまった。(動画は、初見の場面ではなく、直後に改めて撮影した2度目である)
私はこのとき、背筋が凍った。
私が扉のレバーを解除してから、開かないことを確かめるために、開く動作をしたことで、ほんの少し開いた事をきっかけに、強烈な風圧が扉を押して、例の南京錠を破壊しながら開いてしまったのではないかと、そう思ったのだ。
ようは、私が不用意に扉を弄ったことによって、現役の道路施設の一部を損壊したのではないかという可能性を考えた。
もしそうだとすれば、この探索はボツである。
……だが、このレポートを無事公開しているということは、そうではなかったと確かめられたのである。
実は、扉は探索前から開いていたという衝撃的事実!
とにかくまずはこの画像を見て欲しい。(↓)
これは、本編第2回の12:08に撮影・公開した、この扉の現道側の写真である。
実は私はここで重大な思い違いを冒していた。
自転車でトンネル内を走行中に、この扉の存在に気付き、撮影をしつつ目視をしたが、その際、金色の南京錠が付いているという事実をもって、扉は施錠によって閉まっていると即断していた。
だが実際はこの時点で既に南京錠でロックされている留め金の部分が破断しており、施錠はされているのに扉の開け閉めを妨げないという状況になっていたのだ。
もしここで南京錠の状態を詳しく見ていれば、当然この故障にも気付き、臆面もなく扉を開けて、そのまま旧道へアプローチしたことだろう。
当然ながら、カヤックが登場する余地はないか、あっても「つばめ岩トンネル」の探索のみに使用されたであろう。
時間的にも、とうに探索を終了できていたはずだ。
この事実は、うっかり扉を壊してしまったのかと震えた私が、自分の動作を冷静に振り返り、そこに南京錠が壊れるような衝撃がなかったことを自覚して、改めて撮影した写真をカメラ上で精査した結果、判明した。
探索の省コストという意味では、あまりに大きな不要のリスクを負ってしまった後ではあったが、この探索のレポートを没にするという最悪の事態は回避出来た。
鍵は、誰かが破壊した後だったのである。
この写真は、まだ少し納得がいかなかった私が、この北海道遠征中の2日後に改めて扉を訪れて撮影したものだ。
このように、南京錠が掛かったまま、留め金の付け根が壊れていて(おそらく故意に壊されている)、扉は実質的に無施錠の状態になっていたことを再確認した。
なおこれは完全に余談だが、本レポートを公開し始めてからこれまでに、この扉が実は開いているということに言及した読者コメントはゼロであった。
そのため、この南京錠の故障は一時的で、現在では管理者によって修理されている(=閉まっている)可能性が高いと思うが、2018年の探索以降の実態を、私は未確認である。
15:46
ふにゃふにゃふにゃふにゃふにゃ…………
あまりに予想外の展開に、もうフニャフニャだよ。
鍵を破壊したのが私でなかったのは良かったが(当然、壊さないように扉を操作したつもりもあった)、あの冒険的ロマンに満ちた、本編レポートの核心というべきカヤックシーンが、実はまるきり不要なものであったとは、さすがに落胆と衝撃は大きかった。
……まあ、慰めるよ俺は自分を。
カヤックによって上陸したからこそ得られた旨味というのも、確かにあった。
それ自体は掛け替えがないものだし、今から無価値になるとも思わない。
とはいえ、扉が開いていたら絶対に負わなくて済んだリスクを負ったことは、単純に探索者として注意力不足だったと反省せざる得ない。偵察をなんのために行ったのかを考えるべきだ。
扉が修理されれば、その時点で海路によって辿り着いた記録は再評価されるであろうから、とにかく複雑な心境ではあるが、このまま残りの探索を全うし、その後は、
またカヤックを漕いでスタート地点まで戻らなければ!
折りたたんだ状態でもカヤックはくそ重い(14kg)ので、それを持ち運びながら何キロも浜益トンネルを歩くのは無理だからね…。車を扉の前に横付けすることも出来ないし(非常駐車帯なので)。
よし!
ここから外へ出ると同時に、元気なヨッキに復帰するぞ!!
15:46
ふぅ……
記憶がいまいち定かでないが、何か心に傷を負うような衝撃的出来事が起こりそうな横坑だったぜ…。
げんき げんき…… げ ん き……
雄冬岬パーキング跡を出る。
地形は、この先また全力で険しくなっていく。
行く手に残された未探索領域は、既に見えている雄冬岬トンネル南口までの約300mの明り区間と、同トンネル内部閉塞壁まで推定100mほどの、合計400m程度である。
パーキングを振り返って撮影。
一連の旧道区間内では最も地形的に恵まれている場所ではあるが、それでもこの程度の広さである。
周囲が、唯一、絶壁ではない、というだけで、やはりここから陸路で外と出入りすることは、到底無理なように見えた。
歩き出してすぐ、1本の橋に出会う。
これは旧道区間内にある唯一の橋らしい橋である。
その名も、タンパケ橋という。
タンパケは、トンネルも、覆道も、橋も、全てのネームを獲得している。さすがはタンパケ、タンパケ、タンパケ……げんき……。
で、このタンパケ橋だが、実は奇妙な特徴があることに気付いた。
チェンジ後の画像は、この橋の四隅にある銘板を「A」〜「D」の見出しで表示した。
これから各銘板を1枚ずつ見ていただく。
橋の南寄海側にある銘板には、「タンパケ橋」と書いてある。
橋の南寄山側にある銘板には、「タンパケの沢」と書いてある。
トンネル、覆道、橋の名前だけでなく、沢の名前をも制覇していたことを知る。
橋を渡り終え、北寄海側にある銘板には、「昭和56年10月完成」と書いてある。
この道路の開通は昭和56年11月であるから、本橋の完成は、その直前であったことが分かる。
橋の北寄山海側にある最後の銘板には、「ニシン橋」と書いてある。
え?
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
おれはタンパケ橋を渡っていたと思ったら、いつのまにかニシン橋を渡っていた…
な… 何を言ってるのか わからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった… 頭がどうにかなりそうだった…
種明かし。実はこうなっている。
実際は、短い橋が2本、短い間を空けて、連続して架かっている。
南側がタンパケ橋、北側がニシン橋で、この2本の橋と中間の陸上区間が、一連の高欄と四隅の銘板を、まるで1本の橋のように共用しているのである。
海側の様子はこんな風になっている。
手前のニシン橋と、奥のタンパケ橋の間に、陸上区間があるのが分かるでしょう。
でも高欄と銘板のせいで、2つの名を持つ1本の橋みたいに見えるのである。おもろい。
小さな疑問。
ニシン橋の下を流れているこの赤茶けた沢は、なんて名前なんでしょうね?
これも含めて、タンパケの沢ってことでいいのかな?
そもそも、銘板の「タンパケの沢」というのは沢の名ではなく、タンパケにある無名の沢の総称な気がするが。
……一瞬、なにをされたのかわからなくなりかけたが、理解できたので、平静を取り戻して先へ進む。
15:50
さて、これで最後だな。
全てに決着を付けて帰るぞ。
旧道の終点、雄冬岬トンネルの小さな断片
15:52 《現在地》
いろいろ(ふにゃふにゃ)あったが、上陸から約1時間にして(もりだくさん!)、雄冬岬に取り残された一連約1.7kmの旧道のラスト100mを飾る、雄冬岬トンネルへ辿り着いた。
ここではそれが当然であるかのように、このトンネルの入口は塞がれていなかった。雄冬の常識は北海道の非常識なのだろうか。
このトンネルは、本旧道の南側を画するガマタトンネルと対になる存在で、全く同じような険しさでその北側を画している。
完成当初は878mの長さを持っており、これを潜ればいよいよ石狩支庁と留萌支庁の境界にある雄冬集落であった。
だが、ガマタトンネルと同じように、その大部分は現道である浜益トンネルによって争奪され、旧道は塞がれた。
ガマタトンネルの半分以下の長さとは言え、地形図を見ても、実際の地形を見ても、このトンネルを徒歩で巻越えることもまた、私は不可能に思われた。
なお、雄冬岬トンネルという名前だが、前述の通り、地形図はこのトンネルが貫く岬に雄冬岬の地名を与えてはいない。
トンネルの命名者と、地形図の地名採用者が、それぞれの考えで名付けたものだろう。
このトンネルも、内部からは見分けが付かない覆道とトンネルがシームレスに接続した構造をしており、『北海道の道路トンネル第1集』によると、この南口から56.7mまでは地上にある覆道である。
例によって、写真だと背後の岩山はすぐそこにあるように見えるが、実際は50m以上離れているのである。いかに巨大なものであるかが分かると思う。
チェンジ後の画像は、『北海道の道路トンネル第1集』の坑口写真を重ねてみた。
完成から間もない当時の姿との違いは外装的なものばかりで、トンネル自体は全く変わっていない。
ガマタトンネルやタンパケトンネルは、扁額が取り替えられていた(取り付け位置も変わっていた)が、このトンネルはそれもなさそうだ。
これがその昭和56年開通当初からのものとみられる扁額だ。
もの自体は変わっていなくても、黒い塗装がほとんど剥げて、銀色の地金の色になっているなど、老朽化が見て取れる。
それでも、トンネルとしての廃止から時間が経っていないこともあって、現役さながらの姿を保っていた。
チェンジ後の画像は、銘板だ。
こちらも開通当時からのものである。
そして、なぜか分からないが、幅員の表示の一部が消されている。
ガマタトンネル北口の【銘板】
も同様の脱落があったが、タンパケトンネル南口の【銘板】
にはなかった。
幅員が消されている雄冬岬トンネルとガマタトンネルの共通点は、後年の新雄冬岬トンネル新設工事に伴って、セントル補強による幅員縮小区間を生じたことが思い当たるが、関係があるのだろうか。
銘板の数字よりも実際のトンネルの幅が狭いのは、モンスタークレーマー道路ユーザーに追求されかねないとの考えから、律儀にも消したと……。 モンスターこわい…。
坑口前から振り返る、雄冬岬旧道の北側半分。
奥に見えるのがタンパケ覆道で、海上の岩礁が、かつて“敵前上陸”の舞台となった、地形図上の雄冬岬である。
この旧道は、当たり前だが陸上に存在する。しかし、その支配権は陸でもなければ、人でもなく、海にありそうな気がする。
陸の植生が、このコンクリートの牙城と化した海岸線に深く根を下ろす未来は想像できない。
数百年後のここは、どうなっているんだろう…。
「湘南」的眺めからの……
15:53
最後のトンネルへ。
案の定、すぐ見える近いところに、ガマタトンネルの時と同じセントル補強の四角い反射材が見えた。
行き場のないトンネル再びである。
しかも、ガマタの時より終わりが近い。せいぜい100mくらいか。
トンネル自体の内観も、今のところガマタやタンパケと違いはなさそう。
入洞してすぐの壁面に、1枚のラミネート加工紙が貼り付けられていた。
明らかに道路利用者に向けられたものではなく、このトンネルを本当の最後に利用していた、トンネル内を塞ぐ工事の関係者が残したモノらしかった。
マジかよ。
マジかよ。(二度見)
やべーなこの現場。
過去に使用した人が居なきゃ、こんなこと書かないよな……(でなきゃサムいだろ…)。
…………ヨ〜〜ガ〜〜。
15:54
空気が変わったな。
もう終わりが見えているのは変わらないが、その終わりまでの過程に、外からは窺い知れなかった、異形のゾーンが潜んでいた。
最近のトンネルではほとんど見ることがなくなった、止水用の補修プレートらしき物が、内壁全体をセントル部の始まりまで覆っていた。
南口からの距離を考えると、ちょうどこの辺りから(覆道でなく)トンネルになっているはずである。
氷柱の発生しやすい場所ではあるから、その対策だろうか。
……と思ったが、これは止水用プレートにしては大掛りすぎる気がするし、よく見るとこの壁の一面に円いターゲット状の模様が格子状に配置されていることに気付いた。
となるとこれは、光波測距儀を用いたトンネル変状監視の痕跡である可能性の方が高いと思い直す。
トンネル内分岐工事の際に、分岐によって地圧に大きな偏りが生じる近接トンネル部の変状を監視するのは常套手段である。
おそらくこれは、その目的のために、新雄冬岬トンネルの建設開始当時に設置されたものだと思う。
しかし、いかんせん金属製のプレートは、海際のトンネルにとって、場が悪すぎた。
地下水の影響もあってか、腐食の具合が物凄く、放置されたままの非常電話などの装置と一緒に、ホラーな世界を作り始めていた。
廃止からわずか2年目とは思えぬ、異形ぷりであった。
瑕疵なき現トンネルの裏側に、余分として放置された悲しみが、滲み出ているようだった。
ヨガで元気になったと思った矢先に、異形の壁で悲しみを背負ったが、それとて終わりの前の一瞬の出来事で…。
坑口から約100mで、見覚えのあるセントル補強部が始まった。
入るまでもなく、終わりは見えていた。
直前の推理を裏付けるように、何らかの測量機材がここに設置されていたことを窺わせる注意書きが、取り残されていた。
「破損者はJV藤本まで」
……お、俺じゃないです。たぶんやったのは、ヨガの人です!
破損者が2〜3人、セントルの壁の中に埋め込まれていそうな怖さがある。
15:55 《現在地》
上陸からぴったり1時間後!
終わりを極めた。
先ほどの横坑での衝撃の展開によって、現実的には遠い存在ではなくなっていた壁の向こうだが、やはり窺い知ることは全くできない。
あの長い長い浜益トンネルを通るとき、わざわざ“外”の世界に思いを馳せるのは、オブローダーや、昔からこの道や土地に馴染みのある人だけだろうが、私もその一員として行動を起こし、廃止から2年が経過した孤立旧道の全容を、実踏によって知ることが出来た。
撤収開始!
千代志別の車の元を発ってから、ここへ来るまでに3時間あまりを費やしている。
復路は寄り道一切無しの最短ルートで帰るが、どのくらいかかるか、今から実際に確かめてみよう。
海の状況が変わっていなければ、復路は追い風の助けを期待できる。
16:17 (撤収開始から22分後) 《現在地》
横坑なんてものには脇目も触れず、私を待ってくれている新しい相棒の元へ速歩した。
1時間20分ぶりに再開した相棒船は、少しだけ空気が減って萎んでいた(異常ではなく気温が下がったことによる)ので、持参していたポンプで補充して再度の大航海に備えた。
見たところ、海の様子は来たときと変わっていない。風向きもだ。
少しだけ雲が出て日差しを遮り始めたが(今夜から明日の朝にかけて広く雨が降る予報だった)、すぐに出航すれば大丈夫だろう。
慎重に、船を沖出ししてから、油断せず、乗り込んだ。
16:25 帰航開始!
16:30 (航海開始5分後)
陸の上の蒼穹に浮かぶ白い月を視界に入れながら、風波に揺れる海面を渡って行く。
案の定、追い風が機能してくれている。
とはいえ、漕ぎ続けなければ進んでは行けない。またしても長い戦いになることがすぐに分かった。
往路よりは落ち着いた気持ちで鑑賞することが出来た、ガマタの海岸に落ちる無名の滝。
ガマタトンネル(現浜益トンネル)が、この滝の裏の地下を通過しているわけである。
海からしか見られない絶景がたくさんあったが、最後まで観光の対象にはならなかったようだ。
16:37 (航海開始12分後) 《現在地》
往路では逆風のために一番難儀したガマタの沖を順調に航行している。
順風のおかげで、歯を食いしばるような目には遭っていないが、ゴールの遠いことには辟易している。
チェンジ後の画像に“矢印”を付けた目立つ岬が、往路でも【チェック】
した予定航路の中間地点(46m標高点のある岬)である。
そこからずっと奥の海岸に、ポツンと白い物が一つだけ見えるのだが、あれは【二ツ岩トンネル北口の覆道部分】
であり、奇しくも往航の出発地点であった。この復航の目的地は、あのすぐ手前で、まだ見えない千代志別である。
こんなにずっと遠くまで陸地が見えるのに、そこに道路とか伐採の痕跡とか送電線とか、そういうあらゆる種類の人工物が、廃止されたトンネルの坑口一つ以外全く見えないの凄い……。 こわっ。
往路でも見た、意味深な感じで口を開けている海蝕洞。
節理が明らかな周囲の岩の模様も凄い。地球の肉々しさを感じる。
16:44 (航海開始19分後) 《現在地》
文字通り、取付く島のない海岸線を、品定めでもするように頭上を旋回する海鳥たちに賑やかされながら、漕ぎ、進み、漕ぎ、進み、中間地点の岬に達する。
ここを回れば、あと半分。
なんだあれ?
一切の人工物はないとみられていた、陸路なき中間部の海岸に、明らかな人工物を見つけた。
金属製の箱のようなものが海上の岩礁にポツンと一つだけ意味深に設置されているだけでなく、上陸を阻止するように無数の異形鉄筋の槍が、この岩礁の周りに巡らされていた。
まるで伝説の武器や防具か重要アイテムが収められた宝箱みたいだが、正体は分からない。何らかの測量用の基点だろうか。あるいは漁業関係?
漁業と言えば、この鉄の槍はアザラシやトドなどの海獣対策であろうという気がする。
私はまだ見たことがないが、北海道のこの辺りの沿岸は海獣が豊富に棲息しており、漁業への被害は少なくないと聞いている。
なんにせよ、この岩礁は人跡未踏でないことが明らかであった。
17:01 (航海開始36分後)
うわ〜〜ん、遠いよぅ〜〜。 疲れたびーー(涙)。
やっとの感じで、道内最長(だったこともある)ガマタトンネルを突き破り、千代志別覆道沖までやって来た。
完全に今日の工事は終わったようで、工事関係者の姿は見えなくなっていたし、覆道の側面通路も閉じられていた。
あと半分と思ってからが遠かった!
船が露骨に重くなったように感じられたのだが、その理由は二つあって、一つは漕ぐ手の重い疲労であり、もう一つは、乗船前に椅子の空気が抜けていたのを放置したことによる乗艇姿勢の悪化であった。後者は特に経験値の少なさから来るミスであり、椅子を侮るべきではなかった。姿勢が崩れるとパドルが上手く海面に刺さらず、思うように漕げなかったのである。
見てくれよ、この冗談みたいな船首の上がり方を!
椅子の高さがないために、自然と深く着座することになり、頑張って漕いでも船首を上げることに力を持って行かれるというね。
さっさと椅子を膨らませたかったが、海上でそれは無理というわけで、延々苦しみながら漕いでおります…。
……それでも、ついに……。
17:09 (航海開始44分後)
千代志別だぁ〜〜〜!
17:15 (航海開始50分後) 《現在地》
海からの生還!
なんだかんだと言いながら、やっぱり追い風は偉大であり、往路よりも30分も早く約3kmの航程を漕ぎきった。計算上1.5倍以上のペースが出ていたことになる。
西日に照らされた千代志別の浜は哀愁を含んで美しかった。
私は、トンネルによって連続性を失っている雄冬岬の海岸線が、この長閑さから、どのようにして絶頂まで至るのかを、海から見ることで初めて知ったのである。
これは大きな気づきであり、カヤックでの探索が私を虜にする未来を、確実に予感していた。
浜で一人、まだ慣れないカヤックの撤収作業に手こずっていると(膨らませるのは早いが、空気を抜いてしまうのは大変なんだよ)、夕陽となった太陽が、西の海上に厚く堆積した黒雲に沈む瞬間を目撃した。
今夜からは、あの雲に湿らされる定めであることを察し、明日2日目からの北海道遠征の行く末をちょっと憂いた。
まあ、初日がこんなにも“刺激的”だったんだから、明日からもきっと上手く行くと思う。
浜での長い撤収作業を、だれか千代志別の住民によって目撃されて、私が行った変な挑戦を自慢してみたい気もしたが、結局誰も現われなかった。
そのへんもまた、私らしいと思った。
18:00 エクストレイルに全てを積んで、この地を離れた。
探索後日談 〜探索後の旧道に起こった変化について〜
本編の机上調査編として、以下のような項目を執筆する予定を以て調査を行い、その準備が整っている。
- 国道231号建設前史(1) 〜増毛山道と雄冬山道の時代〜 松浦武四郎を添えて…
- 国道231号建設前史(2) 〜小樽浜益航路と増毛雄冬航路の時代〜 究極の陸の孤島・雄冬
- 国道231号建設史(1) 〜“敵前上陸”方式による決死の道路整備〜
- 国道231号建設史(2) 〜開通翌月の悲劇! 雄冬岬トンネル大崩落〜 平成まで生きた沿岸定期船
- 国道231号改良史 〜雄冬防災事業によるトンネルご一新〜
- 探索後日談 〜探索後の旧道に起こった変化について〜
調査は完了しているが、本道路について最も私が熱く紹介したかった“敵前上陸”の事実については、本編中既に遺構を見ながら語ったし、旧道が誕生するきっかけとなった現道への切り替えについても本編冒頭の前説で解説しているため、3月のイベント準備が佳境に入っている現在の私には、この長文となる定めの机上調査編を書ききる熱量がないことに気付いた。そのため、上記項目中1〜5の内容は今後徐々に執筆するこにとして、ここでは今すぐみんなに伝えておきたい大きな熱量のある「項目6」を先駆けて執筆する。
<6>探索後日談 〜探索後の旧道に起こった変化について〜
まずは、現地で私を最も強く打ちのめした真実である、施錠されていると思っていた横坑が、鍵が壊れていて解放されていた件についてである。
私の探索は2018年5月24日に行ったのであったが、その2年後の2020年10月に撮影された浜益トンネル内横坑入口のストビュー画像を見ると……(↓)
扉の表面に、私の探索時には見られなかった黄黒配色の表示物が追加されており、画質的に文字が読みにくいが、目を凝らすと、「●●カメラ作動中●●カメラ作動中」と書いてあることが分かる。
「●●」の部分は防犯は監視か、その辺りの文字が入っていると思うのだが、いずれにしてもこのような表示を追加している以上、故障していた鍵は修理され、扉は再び施錠されている可能性が高いものと考えている。
なお、この扉のストビューは2023年8月と2024年9月にも撮られているが、全てに同じ表示物があることが分かる。
横坑再封鎖。
これがお伝えしたい、一つめの探索後の大きな変化である。
二つめの変化は、読者さまからいただいた次のコメントの内容である。
いつも楽しく拝読させていただいております。
この記事が順次公開されていく中、昨日(2026/2/20)留萌近辺を通る用事がありましたのでいいタイミングだと思い雄冬岬付近でドローンを飛ばしてみたところ、雄冬岬トンネル南口・タンパケトンネル北口・浜益トンネル横杭が封鎖されていることが確認できました。坑口は扉付きで封鎖されているように見えたため、半永久的な封鎖ではなく管理のための立ち入りは可能そうに見受けられます。なお、他の区間同様ガードレールは撤去されていたものの横杭の化粧木は残存したまま封鎖されておりました。
コメント欄でネタバレになると興を削いでしまうと思い非公開コメントとさせていただきますが、この情報は記事で使用していただいて問題ございません。
今後ともお身体に気をつけて探索をなさってください。これからの更新も楽しみにしております。
読者さまコメントより
ネタバレにまでご配慮いただいたコメント投稿、痛み入ります! (投稿される際にネタバレを気になさらなくても大丈夫ですよ)
今回探索した雄冬岬旧道が持つ、これまでに探索した似たような立地条件や背景を有する旧道との大きな違いであった、トンネルも解放されたままであった件についてだが、2026年現在では、少なくとも雄冬岬トンネル南口、タンパケトンネル北口、浜益トンネル横坑の3坑口は、扉付きながら封鎖状態であることが確認されたとの情報提供である。
この感じだと、残るタンパケトンネル南口とガマタトンネル北口も、同様に封鎖されている可能性が極めて高いと思われる。
現地では、これらの旧トンネルが解放されたままである理由を、孤立によるものだとか、単に廃止から時間が経っていないからだとか、説を考えたが、実際は後者だったようである。
ようするに、私が現地で感謝した“開発局の温情”など、意図的なものではなかったと言うことだ。
彼らに塞がないことを期待できるのは、廃止から時間が早いときか、彼らが関与する前に既に廃止されていたかのどちらか以外は期待ができないことを、改めて実感している。
旧道トンネル群の封鎖完了。
これがお伝えしたい、二つめの探索後の大きな変化であり、私が把握している大きな変化は以上である。
総合的に、2026年現在は、私が探索した時点よりも遙かに雄冬岬旧道の探索は難しくなっているといえる。
特にタンパケトンネルが通過できなくなったことは厳しく、海上移動の距離を大きく増やすか、タンパケトンネルのみを山越えするかという困難が加わっているのである。
図らずして私は、オブローダーとしての幸運の成せるわざか、探索が極度に難しくなる前に済ませることに成功したらしいが、それよりも嬉しいのは、タンパケトンネル内部や雄冬岬トンネル内部をこの目で確かめる機会に恵まれたことである。ヨ〜〜〜ガ〜〜〜〜。
完結