今回の探索では、鳥取県道・兵庫県道103号若桜湯村温泉線に3ヶ所ある不通区間のうち、若桜町諸鹿地区にある短い1ヶ所を攻略した。
探索の結果、地理院地図の表記通り、車道が完成していない区間は僅か1km程度であり、過去に両側から工事が進められたが、現在は未成道となって半ば放置されている状況が見て取れた。
今回探索した不通区間には、大きく2つのベクトルがあると思う。
1つ目は、高原上の開拓地である広留野と、麓の本村である諸鹿を結ぶ、ローカルな生活道路としてのベクトル。
2つ目は、扇ノ山の県境を越えて鳥取県の若桜町と兵庫県の新温泉町を結ぶ、広域交通路としてのベクトルだ。
この2つの方向性から道は整備されてきた(そして未だ成し遂げられていない)のだと思うが、文献調査によってその具体的なストーリーを探求することとしよう。
皆さまは、この道にどんな物語を想像されたかな?
文献調査の報告前に紹介したいのが、本編の探索終了直後、クルマで諸鹿集落を通りかかった際に声を掛けさせていただいた住民の方に伺った“聞き取り調査”の成果である。
アポも何もない飛び込みだったのだが、さすがは本県道の行き止まりにある諸鹿の住人である。
短いながらも核心的と思われる証言だったので紹介しよう。
諸鹿での聞き取り
- 広留野へ登る県道の工事は、随分長い間中断されている。
- 中断されている理由は、野鳥保護の団体が反対したからだ。
- 県道の元となった道は相当に古くからあるが、車が通れる道ではなかった。
どうやらこの方は県道の開通を心待ちにしていたようで、建設中断の原因を作ったという野鳥保護団体のことを何度も、「あの団体」と吐き捨てるように口にしていたのが印象的だった。
具体的な団体名は分からなかったが……。
この情報を胸に留めつつ、机上調査の旅へ出発するとしよう。
まずは、私が調べた中で最も古い文献情報を紹介する。
江戸中期に編纂された『因幡志』という地誌史料である。寛政7(1795)年に成立し、その後も加筆があったとされる。
同書の「諸鹿村」の項目から、交通に関する部分を中心に抜粋してみよう。なお、冒頭の村名に付いている括弧書きは、その村に属する枝村である。
○諸鹿村 (広富)
戸数七十(中略)
来見野より二十五町奥にあり民家は川を挟て両側にあり若桜より七十五町なり当所民家多し(中略)北の山をジンジヤク坂と云ふ細見谷と当村の堺、村より十八町登れば山上平原にて其広さ凡そ五十町四方なり是を広富野と云ふ(中略)北は同国(但馬国)二方郡海上村へ百五十町是を二方越或は波太越とも云ふ(中略)皆難所にて牛馬の通ひなし
『因幡誌 巻三』(大正時代に出版された因伯叢書版)より
この諸鹿村は同書が「若桜郷」としてまとめた27ヶ村の中にあるが、別に「丹比郷」としてまとめられた9ヶ村の中に妻鹿野村の項目があり、そこには次のようにある。
○妻鹿野村 (柞原、瀧谷)
戸数三十五(中略)
本村妻鹿野より東南梨木坂三十八町登りて諸鹿の境広富野に至て(中略)二方郡海上村へも通す、広富野よりジンジヤク坂を下れは諸鹿へ至
『因幡誌 巻三』(大正時代に出版された因伯叢書版)より
このように、諸鹿から広留(富)野へ登る長さ18町(約2km)の「ジンジヤク坂」(ジンジャク坂)と呼ばれる道があり、広留野からはさらに北へ但馬国海上村へ通じる「二方越或は波太越」と呼ばれる峠道が通じていたという。
ようするに、江戸時代中期には既に若桜から諸鹿、広留野を経て、現在の兵庫県北部へ通じる道、現在の県道の原型といえる経路が存在していたのである。
また、広留野へは細見川沿いの妻鹿野村からも「梨木坂」という道で登ることが出来たということも分かる。
右図は明治31(1898)年版の地形図であるが、諸鹿から広留野へ登る道が二重破線で描かれている。これは里道の一種である「間路」の記号で、里道の中で最も重要度が低いとされたものだが、それでも公道の一種として行政に認識された道であったことが分かる。
そして言うまでもなく、この「ジンジャク坂」が、今は「中国自然歩道」となっている道である。
実際に歩いた感覚にも合致することだが、やはりあれが広留野と諸鹿を結ぶ一番古い道だったと思う。
明治31年地形図には、私が勝手に「古道」と呼んだ未成県道と絡み合うように存在する“近代車道らしい道”は、まだ描かれていない。
右の地図は明治35(1902)年版の地勢図「鳥取」の一部である。
この地図にも、里道を示す細い実線で、若桜から諸鹿、広留野、菅原、岸田、千谷を結ぶ長い県境越えの道が描かれている。峠の頂上に注記はないが、ここが「二方越或は波太越」と呼ばれていたのだろう。現在の地図も県境に名前を付けていないが、もとはこんな名前があったのだ。
ちなみに、若桜は近世以前から因幡国と但馬国ならびに播磨国を結ぶ若桜往来(播州往来)の宿場として栄えたところで、東西南北の交通の要衝であったとされる。一方、但馬北部の湯村や千谷を通る道は、歴史に名高い山陰道であり、こちらも重要な街道である。どちらも鳥取城下へ通じるが、二方越はこの2本の主要な道を山越えに繋ぐ抜け道だった。
ただし、この道は幕府や藩が認めた公道ではなかったようで、藩境でもあった国境の周辺に関所が置かれていた記録はない。だから本当に抜け道的なものであったと思う。
明治の地形図を使っているので明治の話も補足するが、明治18(1885)年に制定された国道表において、鳥取県庁を終点とする2本の国道が指定された。22号と23号の2本で、細かい推移は省略するが、概ね若桜往来が22号に、山陰道が23号になっている。なので二方越の里道は明治期に早くも2本の国道を結ぶ道となっていた。今でこそ国道を結ぶ道など珍しくもないが、当時は全国に40本少々しか国道がなかったので、なかなかに重いポジションだった。
と、このように明治以前から、広留野を通る道は県境越えの広域交通路としての“片鱗”を覗かせていたようではあるが、その利用の実態についてはほとんど情報がなく、『因幡史』の言うとおり「難所にて牛馬の通ひなし」であって、主要な道路ではなかったのだろうと思う。
そのような状況だから、この時期(明治大正)にいかなる道路整備が行われたか否かについても、今回探索した諸鹿〜広留野間について文献的な情報は全く得られなかった。
しかし、古くから県境越えの里道として一定の存在感を示していたお陰なのか、利用や整備の実態は不明ながらも、県道への昇格は私が思っていたより早くに行われていた。
兵庫県北部の鳥取県境に接する海沿いに、かつて浜坂町があった。平成の合併で新温泉町の一部となったこの町が、昭和29(1954)年に発行した古い『浜坂町誌』に、次の記述を見つけた。
県道若桜浜坂線
昭和24年12月27日県道編入となり浜坂町を終点としているが、本町内にあっては湯村浜坂停車場線と重用線である。
『浜坂町誌』(昭和29年)より
さらに、『鳥取県議会年報 昭和22-32年度』という文献にも、鳥取県議会昭和24年度2月定例会の請願議題に「県道若桜浜坂線修理方について」が見え、さらに翌25年度7月定例会にも同じく「若桜浜坂線及赤松橋改修方の件」という請願議題が上がっていて、いずれも採択されている。赤松橋とは、本編探索の冒頭にクルマで渡った、県道103号に現在もある橋である(地図)。
ようするにまとめると、旧道路法時代末期の昭和24(1949)年12月27日に、旧若桜町から旧赤松村諸鹿を通って県境を越え、兵庫県の旧温泉町から旧浜坂町まで伸びる、一連の県道若桜浜坂線が認定されていたことが分かった。
これが現在ある県道若桜湯村温泉線の県道としての始まりといえるだろう。
しかし、この道路についても情報はとても少なく、路線名以外はほとんど何も分からないのが実情である。
そして、昭和27年に道路法が全面改正され、それを受けた県道の改廃が進められることになる。
「ちゅうごくDrive Guide」に公開されている鳥取県道異動総覧によると、昭和34年10月6日に県道194号若桜浜坂線が廃止され、同日に県道10号浜坂若桜線を認定している。これは番号からして主要地方道である。
驚くべきことに、一般県道よりも格上の主要地方道に指定されていた時期があった!
ただこれは長く続かず、昭和41(1966)年2月15日に県道10号浜坂若桜線を廃止して、県道185号若桜温泉線が認定されている。ここで現在と同じ一般県道へ“降格”しているのである。
その後さらに昭和57(1982)年に185→121へ路線番号を変更、平成6(1994)年に121→103へ路線番号を変更し、初めて兵庫県道の路線と番号が統一されている。
そして最後は平成18(2006)年で、本編中でも少し触れたとおり、前年の町村合併で温泉町が新温泉町へ改名されたことを受けた路線名の変更が行われ、現在の路線名「鳥取県道・兵庫県道103号若桜湯村温泉線」となった。
このようにやや複雑な路線名の変化が記録されていた。
右図は、昭和39(1964)年版と昭和48(1973)年版の地形図の比較である。
歴代の地形図を見較べていくと、先ほど紹介した明治31年版以降、昭和28年版まで、諸鹿や広留野の道に大きな変化は見られない。新しい道が全然登場しないのである。
だが、その次の昭和39年版で突如、従来あった「ジンジャク坂」の道が消えて、代わりに初めて今回探索した県道に近い道が、やはり徒歩道として描かれていた。
これが昭和48年版になると、今度は「ジンジャク坂」と県道のルートの両方が描かれるようになった。しかし依然として表記は歩道である。
そしてここにもう一つ、注目すべき道が登場する。
“赤矢印”の位置に、それまでなかった「軽車道」表記の九十九折りの道が現れ、これが妻鹿野から広留野の台地上まで伸びて、同地の家数が倍増しているのである。
ここは本編で辿らなかった道だが、この地形図の表記通りであるならば、広留野の歴史において“最初の車道”という重要な意義を持つ道だったように見える。
続いては広留野の開拓史に焦点を当てることで、道の歴史を探ってみよう。
広留野という中国地方では珍しい海抜800m近い高所にある開拓地は、郷土研究において重要視されたテーマであるらしく、文献が豊富にある。
ここでは平成8年に八頭郡町村会が発行した『新編八頭郡誌10巻 (八頭の郷土読本)』に「第2節 広留野の開拓」としてまとめられている内容から抜粋して、開拓のあらましを紹介しよう。
若桜町最北端に広留野という10世帯の小さな集落がある。国定公園に指定されている扇ノ山に近く、標高が大体700〜800mとかなり高地にある。また、兵庫県との県境、八東町との町境にあり、古くは豊臣政権の頃から、「裏道」として人々の出入りがあったと言われる。
(中略)
この地域の開拓は古く、しかも三度にわたって行われている。
最初の開拓は江戸時代末期に行われた。江戸時代初期から中期にかけて、隣の諸鹿村の人々の出作が行われていたらしく、特に嘉永2(1849)年には同村から開地願いも出されている。……
『新編八頭郡誌10巻 (八頭の郷土読本)』より
読み進めると、この江戸時代末期の最初の開拓は、郡家(現在の八東町中心部)の篤志家安藤伊平が進めた水田の開墾計画であったが、水路の測量に失敗して水を得られず、大失敗に終わったという。ただ、その後も諸鹿などから5戸ほどが移住し、炭焼きなどをして生活をしていた。
次に2度目の開拓計画が大正10年頃に、若桜の元陸軍中尉高橋文市によって行われようとしたが、これも政治的な事情で挫折。昭和5年に森下与之藏という人物が牧場経営を行うなどしたが、大規模な開拓にはならなかった。
そして、三度目の開拓作業で、ようやく現在の形が出来上がるのである。
昭和23(1948)年、佐治村加瀬木の小谷次郎、久雄兄弟によってそれは成された。小谷は、終戦後の食料不足を体験し、就けるような職業もなかったことから開拓に目覚めたという。そして、「100人の食糧を供給するような百姓に」という思いを持ち、鳥取県内のあらゆる土地の調査にはいった。(中略)小谷は、森下を頼ってこの地を訪れた。
(中略)
道路の発達によって、その周辺に集落が開けていくことが多いが、その道路さえ整備されたのは事業が導入された昭和23年から17年も経った昭和40(1965)年以後のことである。従って、それまでの道路は小谷が自らの手で切り拓いた「私道」であり、これを通すだけでも大変な労力を要したわけである。現在広留野へは八東町の「ふるさとの森」へ向かう町道から右手の山へ向かって入っていくのだが、実際車で行ってみると、勾配はきつく、急カーブも多く、当時の作業が大変であったことが想像できる。
(本文・画像とも)『新編八頭郡誌10巻 (八頭の郷土読本)』より
現在の広留野の礎を造ったのは、昭和23年に入植した佐治村の小谷次郎と久雄の兄弟で、昭和40年以前に彼らが“私道”を切り拓いたことが出ている。
右写真がその私道のもので、私が通った道ではないことが写真からも分かる。
結論から言うと、これが昭和48年の地形図に描かれていた広留野“最初の車道”である。
朝日新聞サイト掲載されている「(関西食百景)荒れ地に根をおろして」という記事にも、広留野大根の生産を中心とした開拓のあらましがまとめられているが、そこでは「転機は63年。自動車が通れる道が開設され、関西の市場へ出荷できるようになった。
」とある。この昭和38(1963)年に開削された「自動車が通れる道」というのも、同じ道(私道)を指している。
このことは、歴代の航空写真から検証出来た。
右図は昭和36(1961)年と昭和39(1964)年に撮影された航空写真の比較であるが、このわずか3年の間に妻鹿野から登ってくる新たな道が登場しているのである。
従来からある諸鹿から登る道より遙かに広く見え、まさに「自動車が通れる道」であったことを裏付けているし、時期も記事の数字と合致する。
しかしそうなると、今回私が登った県道沿いにある“近代車道めいた道”(私が古道と呼んだそれ)の来歴は依然として不明ということになる。
私の道は、いつ誰が造ったものだったのだろう。
今回の机上調査における“最大の謎”が、ここにある。
そして残念ながら、これに対する確実な回答は用意できていない。
諸鹿の住人が、古くから利用している出作り地の広留野へ行くために用意したという考えは自然だが、しかし自然発生的と思えるような規模の道ではなかった。【あれだけの石垣】
を建造し、または岩場を削り取り、さらに非常な急傾斜地への九十九折り作設を行うなど、農間に出来る仕事の域を超えているように見えた。
となるとやはりやはり、県道として整備されたのか。
その可能性の方が遙かに高いと私は思う。
記録を見つけられていないだけで、昭和30年代より前に県道若桜浜坂線として整備されたというのは十分に考えられる。
だがもう一つ、ここまでに述べていない“可能性”もあると思っている。
それは、国有林林道説だ。

『鳥取営林署鳥取経営区経営図(昭和28年度編成)』
右図は、大阪営林局鳥取営林署が昭和28年度に作成した経営図という見取図の一部であるが、基本的に緑の網掛けのある場所が国有林である。
左下の諸鹿の集落から、来見野川に沿って沢川林道が伸びている。途中からそれは森林鉄道であることを示す記号に変わって、沢川国有林の奥地へ達している。
今回探索したエリアにも、細長く国有林が広がっている。チェンジ後の画像がそこを拡大したものだ。
チェンジ後の画像を見ると、まさに今回探索した九十九折りの道が、細い赤い実線で描かれている。
凡例が不十分なので、この赤実線が何を意味しているのかはっきりしないが、自動車道と森林鉄道に次ぐ規格の道路、つまり牛馬道や車道といったいわゆる軽車道を描いているものと考えられる。それが現場の実態にも合致している。
昭和28年の国有林経営図にこうして道が掲載されていることは、それが国有林林道として整備された道であった可能性を示唆している。
沢川国有林の林道開発について、平成8(1996)年に伊藤誠一氏が書かれた『林鉄の軌跡』という文献に、次のような記述がある。
営林署が沢川国有林開発を始めたのは昭和26年で、民間軌道が道路になってからの話である。
『林鉄の軌跡』より
同書によると、戦前に諸鹿から奥へ伸びる民間業者の手押し軌道があり、それが戦後間もなく廃止撤去されてから、昭和26年より営林署が沢川林道の開発を始めたという。
沢川林道の起点側は自動車道として整備された。
ここで私はしばらく忘れていたあの橋(→)のことを思い出す。
石南花橋。
昭和27年竣工の銘板を有する、行き止まりの道らしからぬ、威風堂々たるRCアーチ。
記録こそ見つからないが、あの橋は営林署が沢川林道の一部として大型の運材トラックが通れるように整備したものなのでは。
ただの山奥の県道にしては、時代にそぐわぬ高規格さだと思った。
さらに、同じ年代の登山ガイドに次のような記述があるのを発見した。
昭和37(1962)年に朋文堂が発行した『大阪周辺の山々』より……
若桜から諸鹿までバスがあり、諸鹿のはずれで左に登る急な小道がある。切り立った崖を見上げるようにしながら、この「八丁坂」とよばれる坂を登りきると広留野の下端に出る。諸鹿から本流沿いに奥へ入ると沢川国有林への林道と分かれて広留野へ入る林道はらくであるが、たいへんな遠まわりになる。
(文・写真とも)『大阪周辺の山々』(昭和37年)より
完全にキタ。
一緒に掲載されている地図にはなぜか描かれていないが、「沢川国有林への林道と分かれて広留野へ入る林道はらくであるが、たいへんな遠まわりになる」と評されているこの“林道”こそ、私が探索した道に他ならない!
なおも、建設された細かい年次や路線名については不明のままであるが、あの立派な石垣を要する緩やかな近代車道は、鳥取営林署が昭和26年以降に開設した軽車道規格の林道だった可能性が高いと思う。
その当時の県道はおそらく、古式ゆかしい「ジンジャク坂」=「八丁坂」を使い続けていたと思う。
県道というのはそういうもんだ。古い道から簡単に新しい道へ移りはしない。まして、林道を県道に認定するのは省庁の垣根を越えた仕事であり、一手間がある。それはすぐには成されなかったと思う。
たとえば……、『鳥取県議会年報 昭和42年』に掲載されている若桜町長の陳情事項――「県道若桜温泉線のうち、諸鹿地内の一部を路線変更方について。
」とかは、怪しい。この林道を県道にしようという動きの可能性が大である。ただしこれは「留保」となっていて、すぐに実現はしなかったようであるが。
まとめるとだな。
私が今回の探索中、未成県道の間隙や、県道の道路っぱたで何度か出会った、私が勝手に「古道」と呼んだ道の正体は、鳥取営林署が昭和26年頃に整備した林道だと思います。
しかし、あの道は歩くには十分でも、広留野の開拓者達が苦労して育んだ作物をクルマで市場へ運ぶには無理があり、それで昭和38年に妻鹿野側へ下る九十九折りの私道を整備した。
そんな流れだったようだ。
ここまでについてはそのように解釈し、今度は、未成のまま放置されている県道の改良事業について、第二章を調べていくぞ!
前章で説明した通り、現在の県道若桜湯村温泉線に連なる県道は、昭和24(1949)年に初めて県道若桜浜坂線として認定されてから、路線名や路線番号を何度か変更しながらも、一貫して県道の地位にあり続けてきた。
しかし、昭和30年台までに具体的にどの区間がどのように整備されたかについて、私は文献的な資料を見つけることが出来なかった。
この県道のうち、今回探索した区間について、整備への動きが資料から見えるようになるのは、昭和40年代後半以降である。
たとえば昭和48(1973)年に公共計画研究会がまとめた『公共計画全書』という全国の様々な公共計画(国や自治体が行う社会資本整備の総称)をまとめた資料に、当時の路線名である「若桜温泉線」の名前が1ヶ所だけだが登場している。
それは、「氷ノ山区域保全整備計画」という、昭和48年度から55年度までを計画年度とする保全区域整備計画(昭和40年代後半に国土庁と建設省が進めた公共計画の一つで、「災害に弱い地域」「水源として重要な地域」「自然環境を守るべき地域」
をまとめて「保全区域」と呼び、その区域に対して計画的に公共投資を行う枠組み)の解説において、区域内の施設整備計画を述べた中の「道路」の項目に、次のような列記があった。
<道 路> 今後の観光レクリエーション需要の増大に対処するため、次の道路を整備する。
| 一般国道 | 29号等
|
| 主要地方道 | 朝来大原線等
|
| 一般県道 | 若桜温泉線、丸味温泉線等
|
| 歩道 | 三川妙見線、氷ノ山日名倉山縦走線
|
『公共計画全書』(昭和48年)より

『県政の資料 昭和49年』より
ただこれだけの記述であるが、国レベルの大きな公共計画に「整備する」と言明されているのは、強いか弱いかで言えば圧倒的に強いのである。
実際、ここに一緒に名前が挙がっている主要地方道朝来大原線は、現在では全線開通しただけでなく、国道429号になっているぞ(まあ酷道区間もあるが…)。
当時、県道若桜温泉線の全線を県道として完備する計画は間違いなくあったようで、他にも鳥取県議会事務所が毎年まとめていた『県政の資料』の昭和45,46,48,49年版に、「昭和60年までに概成を図る」一般県道として、若桜温泉線の名前が挙がっていた(右図)。
ちなみに昭和44年以前の版や、昭和50年以降の版にこの路線名は見当たらないが、それはページ自体がなくなっているからで、整備計画が中止になったわけではないようだ。
具体的な情報としては少ないものの、県道若桜温泉線の整備は当時、鳥取県や兵庫県だけでなく国レベルの事業として認識されていたのである。そして昭和60年頃までの概成が考えられていたようである。
ここで私は、しばらく忘れていたあの橋(→)のことを思い出す。
【広留橋】
。
来見野川に沿う、かつて沢川林道だった道から、分岐して広留野台地へ登っていく区間の冒頭を飾る橋だが、竣工年が昭和48(1973)年であった。
この橋は間違いなく林道ではなく県道の一部として、広留野どころか、その先の兵庫県境越えまでを念頭において造られた“最初の橋”だったと思われる。そう思うと、現地で出会った時以上に、あの橋がエモく感じられないだろうか。

『日本自然保護協会調査報告 第32号
(氷ノ山・後山・那岐山国定公園候補地学術調査報告)』より
なぜこの時期になって本県道の整備が浮上したのだろう。
その理由はおそらく、国定公園の指定にある。
昭和45(1970)年に兵庫県、鳥取県、岡山県に跨がる広大な区域が、氷ノ山後山那岐山国定公園(ひょうのせんうしろやまなぎさん……3ヶ所ある「山」の読み方が全部違う)に指定されているのである。
右図がその指定区域で、赤線で示した位置に現在の県道若桜湯村温泉線がある。
一般的に、国立公園や国定公園といった自然公園法に基づく公園に含まれることは、道路整備の逆風である。
保護レベルが高いと、公園計画に盛り込まれた車道以外は整備できなかったり、そうでなくても制約が色々加わる。
しかし一方で、自然公園は国民に広く利用されるためのものでもあるから、必要な道路は優先的、集中的に整備される。
本国定公園の一つの核である扇ノ山に迫る県道若桜温泉線は、古くからの歴史もあり、優先的に整備される対象と見做されたのだろう。だから昭和40年代後半に急に盛り上がったのだと思う。
(ちなみにこの県道は今も昔も、特別保護地域や第一種特別地域といった保護レベルが高い区域には入っていないので、それが理由で未成になっているわけではなさそう。また、今回探索区間はそもそも公園の区域外である)
で、計画通りに昭和60年頃までに県道の全線が概成していたとしたら、私がこのレポートを書くことにはならなかったのであり、もちろんそうはならなかったのだ。
計画通りに進まなかった理由も、残念ながら資料がなくて分からない。とはいえ、こういう大風呂敷の公共事業は、計画通り進むことの方が稀であろうから、特別に深い理由もなかったのかも知れない。
ただ、これで話が終わってしまったわけではなく、しばらくしてまたもう一盛り上がりが来るのである。
今度は平成初頭に勃興した、建設省と自治省のタッグによる、広域共同プロジェクトの一貫として。

『道路 road engineering & management review (639)』(平成6年)より
先の保全区域整備は建設省と国土庁のタッグであったが、平成3(1991)年から始まった広域共同プロジェクトは、建設省と自治省のタッグであった。
もともと国土庁と自治省は、同じ地域振興・国土計画分野を食い合う強力なライバル関係にあったが、この広域共同プロジェクトは、市町村単独ではできない大規模開発を広い範囲の自治体が共同して進めるというテーマを持った広範な社会資本整備であったから、ぶっちゃけやることは県境を跨いだ大規模開発ということになる。
右図のように、平成3年と4年に全国各地に大量のプラン選定区域が選ばれた。
そしてこのなかに、「氷ノ山周辺ヘルシー・スポーツゾーン」があった。
兵庫県と鳥取県に跨がる地域で、平成4年度からの5年間に道路や拠点施設を重点的に整備するものとされ、具体的には、「氷ノ山自然ふれあいの里」「美方クオリティライフ村」「但馬牧場公園」「フルーツとブナの森」「安徳の里」などの公園を整備しつつ、それらを結ぶ道路として、「(主)村岡若桜線・(主)大屋波賀線・(主)鳥取国府岩美線・(主)国府八東線・(一)若桜温泉線」などを整備することが盛り込まれていた。
検索してみると、確かにいま名前が挙がった公園施設は、4つめ以外は整備された様子が確認できた。いまもそこが流行っているかまでは調べていないが。いずれにしても、「氷ノ山周辺ヘルシー・スポーツゾーン」という名を今日口にする人はまずいないだろう。既に終わったプランである。
1990年代後半からの景気後退を最大の原因として、全国で計画された広域共同プロジェクトの中には実現されずに立ち消えたものも多かったとされる。
ついでに、自治省も国土庁も2001年に仲良く解体されている。
今回も県道若桜温泉線の整備は俎上に上がったが、完遂はされなかったという“答え”が分かっている。
一度ならず、二度までも、国家レベルの地域開発計画に翻弄されたのである。
ホンキでやる気あったのかと、大臣を3秒くらい問いただしたい。
そしてこれ以降、大きなプロジェクトにこの路線名が登場することはなくなる。
道路の開発は、次第に守勢へとまわる情勢へ。
昭和40年代後半と平成の初頭に二度も国の計画に翻弄されつつ、具体的な県道の工事がどう進捗していたのかを、歴代の航空写真を使って確かめてみた。
その結果をまとめたのが右の図だ。
私は、広留野周辺を撮影した、昭和50年、54年、59年、平成元年、平成17年の航空写真を確認した。
そしてそれぞれの画像から、道路工事の進行具合を判断し、各版で読み取った道路の末端にマーキングを行った。
例えば、「S54」という地点は、昭和54年版から読み取った末端である。
今回探索した県道103号の諸鹿〜広留野間は、昭和47年竣工の銘板を持つ広留橋から始まる。
工事は始めこの諸鹿側から片押しでスタートしたらしく、前章で林道説を紹介した“古道”をベースとしながら、昭和50年代は険しい溶岩台地崖の下半分に明け暮れた。概ね一定のペースで工事は進んだように見え、平成元年版では【フェアモント・ヘアピン】
を折り返して現在の【下側封鎖地点】
に到達していた。
ここからの2段目は地形が険しく、コストの掛かる難工事となったはずだ。
しかし工事は続けられた。平成17年度版で現在ある区間が全て出揃っている。
また、平成元年版では全く見られなかった広留野側からの出迎え工事もスタートし、結果として残り1kmくらいまで未開通区間を圧縮することに成功しているのである。
だが、これ以降は目に見える前進がなくなって現在へ至る。したがって工事が中断されたのは、平成元年から平成17年の間(それもかなり後の方)だと分かる。
以上のような経過を見る限り、本区間の工事は、2度の大規模プロジェクトに翻弄された感じはなく、昭和40年代後半から粛々と平成10年代まで前進を続けてきたようだ。
しかし、そこで唐突に止まってしまった。
何が起きた?
……“野鳥保護団体”の出番か?
古老の話が脳裏を過る。
しかし、“野鳥保護”について調べる前に、この航空写真調査で気付いたことがもう一つあったので、それを述べたい。
現在、未成になっている県道上の【青看】
が案内している広留野への迂回路は、八頭町の妻鹿野を通る町道丹比縦貫線から登ってくるものである。昭和38年に広留野の開拓者たちが造ったという、私道である最初の自動車道も同じ道から登ってきていたが、それとは別のルートが今はあって、そちらが迂回路として案内されている。
結論から言うと、この道路は当初から一貫して“農道”である。
航空写真を見ていくと、この農道は平成初期に造られ始め、平成17年版では半分くらいまで出来ていたが、令和の現在では立派に開通し、迂回路として青看に案内されるまでになっているのである。
時系列上で両者は同時に整備されていた時期があるように思うが、最終的には農道だけが広留野へ通じるという現象が起きていた。
このことも私は気になった。
そして文献調査を続けていくと、この農道については県道よりも情報が残っていた。というか、県道についての言及が文献的に皆無となる。
たとえば、鳥取県公式サイト「とりネット」に『平成18年版鳥取県環境白書』という冊子が公開されているが、そこにこの農道の紹介があった。次のような内容である。
農免農道整備事業(広留野地区)について
八頭町広留野地区の農免農道は、昭和63年度から整備工事に着手していましたが、平成13年に有識者から施行区域に希少動物が生息していることが指摘され、工事は中断されました。そして、改めて「事業実施の是非」「環境に配慮したルート及び工法」を検討するため、平成14〜16年度に地域住民と有識者からなるエコロード検討委員会が7回にわたって開催されました。
その結果、生態系及び環境に対する影響を減らすため、切土・盛り土の少ないルートに変更し、動物が斜面を移動できる「メタルロード工法」を採用することが決定され、平成16年度より事業が再開されました。
(文・写真とも)『平成18年版鳥取県環境白書』より
こっ これはっ!! クセェ!
環境保護団体の匂いがプンプンするぜ!
私がたまたま聞き取りをした諸鹿のある住民は、県道の建設中断は野鳥保護団体のせいであると直截に述べていたが、その県道と山を挟んだ反対の八頭町(旧八東町)側の農道でも似たような出来事があって、実際に県行政がそれを容れて事業の進退まで云々したことが、ここに述べられていたのである。
県道についての言及はないが、とても無関係とは思えない!
この広留野地区農免農道は本題ではないが、県道に起きたことを知る手掛かりになると考え、さらに調べを進めた。
すると、平成20年に鳥取県が県内公共事業の再評価を行った際の答申が公開されているのを見つけた。
そこに当時継続中であった事業の一つとして広留野地区農免農道の事業再評価もあり、他の事業と共に「継続」が答申されているのであるが、判断の材料について次のような内容があった。抜粋して紹介する。
広留野地区農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業
(事業の概要)
夏大根の著名な産地である広留野地区に大型トラックが通行できる農道(L=2014m)を整備する事業(総事業費29.7億円 進捗率70.4%)
(審議の概要)
本来、便益の大小に重きをおいて評価すべき事業ではないが、説明された便益については疑問とする意見及び経済的合理性のみの評価では納得でいないという意見、また、環境に対して大きな影響を与える可能性について懸念する意見もあった。一方で、次のような事情を考慮すべきという意見があり、これらを総合的に勘案し、継続が適当と判断した。
- 他の主な開拓地はすべて幅員5m以上の公道が整備されているなか、当地区は幅員3.5mで勾配、線形がいずれも厳しい私道しかなく(中略)最低限の基盤整備がなされていないと認められること。
- 当地域では特に熱意を持って農業に取り組まれており、また、広留野大根は鳥取県を代表する農産物として県もその支援に特に力を入れていること。
- 県が事業を一旦休止し、環境のほか、事業の効率性、産業振興の問題等も慎重に審議し、再開を決定したという経緯があること。
- 環境への影響については、県において特に希少動物について詳細な調査を行い、専門家等により構成されるエコロード検討委員会の意見も踏まえ、工事による騒音への配慮、桟橋工法の採用等により、猛禽類等への致命的な影響を回避出来ると判断していること。(中略)更には、ここで中止しても環境は元に戻らないこと。
(附帯意見)
本事業は、周辺で希少動物が発見されたこと等の経緯から実質的に行き止まり道路となり受益者が限定されているうえ、環境への負荷を軽減するため桟橋工法を採用するなどに伴い事業費が割高になっており、経済的合理性は高くないことは明らかである。そのため、国が定めるマニュアルによる費用対効果だけで事業継続の妥当性を説明することに無理があり、本事業の審議の概要に記載したような、なぜ事業を実施するのかという理由に重きをおいて説明すべきと感じたところである。(以下略)
『平成20年度公共事業の再評価について(答申)』より
相変わらず、県道についての直接の言及は全くないが、匂わせがある。
「本事業は、周辺で希少動物が発見されたこと等の経緯から実質的に行き止まり道路となり」とあるのがそれだ。
もし県道があれば、この農道は広留野を経て諸鹿へ通じるのである。あるいは兵庫県側へも通じたであろう。
しかし、周辺で希少動物が発見されたこと等の経緯から実質的に行き止まり道路となったのだと書いてある。
また、鳥取県議会の議事録も検索可能な範囲について調べてみたところ……
◯生活環境部長(内海英一君)- 若桜、八東にまたがります広留野という地域があります。ここで一般県道、農免農道をつくる計画がありますけれども、イヌワシ等の貴重な猛禽類、あるいはツキノワグマの保護という観点から、専門家を交えたエコロード検討委員会というのをつくっております。この中で事業実施の是非も含めた検討を行っております。
鳥取県議会会議録 平成15年12月定例会(第3号)より
……という発言を確認。
平成15(2003)年時点で広留野には一般県道と農免農道を造る計画があったが、イヌワシやツキノワグマの保護という環境問題が起きているとあった。
この「一般県道」というのが、私が探索した未成道に他ならない!
残念ながら、県道が事業中止? あるいは中断となった直接の記録や記事は未発見であるが、聞き取りにあったような理由があることは確信できた。
しかし、ここで行政は、なかなかに悩ましく、残酷な決断を遂げている。
若桜町諸鹿と八頭町妻鹿野の2方向から広留野を目指した県道と農道のうち、先に事業がスタートしていた県道をヤメて、後から始まった農道だけを完成させたのである。
長らく広留野は諸鹿の一部とされてきた地区なのに、である。
実際、江戸時代には広留野の所属を諸鹿と妻鹿野の両村で争った記録もあるようだが、現状、広留野へ車で行くには妻鹿野から一択になっている。
諸鹿の先人にとって、この現実はきっと面白くないだろうと……、まあこれは私の勝手な想像だが。
農免農道も一般県道も鳥取県の事業であるが、片方を選ぶときに、なぜ農道を選んだのだろう。
農道と県道では事業の性質が違うし、地形条件ももちろん同じではない(劇的に県道の方が難しいとまでは思わないが)、部外者が想像で答えを言い当てられるほど単純ではないだろう。
だからこれも想像の域を全く出ないが、例えば県が重要視していた広留野大根という産物を編み出したのは諸鹿とも妻鹿野とも直接の関係を持たない外部の開墾者とその同胞たちで、彼らが既に整備していた私道は(地形的な理由だと思われるが)妻鹿野へ通じていた。こんなことも妻鹿野有利と働いた要素であったのかもしれないし、広留野に住む人達の意思が反映された結果であったとも考えられるだろう。
読者からいただたコメントの一つに、こんな興味深いものがあった。(↓)
こちらの険道は猛禽類の営巣地であるということあり、当時の知事が「何で同じ場所に県道と農道を作っているの?」ということで県道の建設事業を休止した区間です。こんなんなんですね。
農道の方は丹比から妻鹿野への県道から細見川を渡って山をくねくねとテールアルメ、メタルロードと環境にやさしい工法で、他の地区の農道予算を圧迫しつつようやく開通させたました。めでたしめでたし。
読者さまコメントより
事情に詳しそうな方のコメントである。
「当時の知事が「何で同じ場所に県道と農道を作っているの?」ということで県道の建設事業を休止した区間です。」を検証するソースを私は持っていないが、そういわれてしまったら、どっちかを止める二者択一にはなるだろうなと思う。
この読者さまを含め、詳しい事情をご存知の方がおられましたら教えて下さい。当時の地元紙とかにも、記事があったんじゃないだろうか。
平成13(2001)年に環境問題(イヌワシ生息地)を理由に事業を中断され、その後再開されていない。
これが、文献調査から(ほんの少しの憶測を交えつつ)判明した、諸鹿〜広留野間の県道整備の現状である。
最後に、工事再開に向けた動きがあるのかを調べてみたところ、再開の可能性がないと直截に述べた資料はないものの、正直期待は薄いと感じた。
平成29(2017)年に若桜町が策定した第9次若桜町総合計画後期計画を調べたところ、道路交通網の整備の現状と課題として、次の一文があった。
道若桜下三河線は岩屋堂バイパス工事(トンネル工事)が進められていますが、県境付近の工事が未着手、若桜湯村温泉線については、工事が中断し、諸鹿集落付近から通行不能となっているため、両路線について早期開通を強く要望していく必要があります。
『9次若桜町総合計画後期計画』(平成29年)より
通り一遍の定型句かもしれないが、「早期開通を強く要望していく必要があります」と、一応は路線名を挙げて、整備したいという意思を感じさせる言及がなされていたのである。
しかし、令和5(2023)年に策定された最新かつ現行の第10次若桜町総合計画になると……
県道では、若桜下三河線の岩屋堂バイパス工事が進められていますが、他の路線についても早期の開通や改良を関係機関に強く要望していく必要があります。
『10次若桜町総合計画』(令和5年)より
……という具合に、「他の路線」というワードにまとめられてしまった。一歩後退と感じるのではないだろうか。
そして当然のように、この期中に行うべき「主要施策」の列記にも現れない。
もはや若桜町として、県道若桜湯村温泉線の工事再開を積極的に県へ働きかける意思を有していないような印象を受ける。
今回の机上調査は、以上だ。
諸鹿と広留野を結ぶ自動車が通れる県道の整備は、昭和40年代以降、氷ノ山周辺の豊かな自然環境を国民のレクリエーション場として広く利用するための広域的開発計画の中で何度か採り上げられ、工事が推進された。
だが、この工事に水を差したのも豊かな自然環境であった。
希少動物の生息問題によって平成13年に工事が中断されると、広留野で営まれる農業との兼ね合いからの妥協策が模索されたが、何らかの政治的判断によって並行する後発の農道へ軍配が上がり、県道は再開されず終わってしまったのだった。
色々な要素が絡み合って、哀れな未成道が生まれてくる。
現代の道づくりはやっぱり大変なものだと思うと同時に、そんなハードルを越えて生まれてきた現代の道たちをもっと愛したくなるのである。
完結。
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