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道路レポート 林道山田入線 最終回

所在地 長野県高山村
探索日 2024.11.05
公開日 2026.08.04

 辿り着いた頂上は、どこか空虚に思われて…


2024/11/5  9:45 

渡り板一枚の超狭路を辛くも通過し、E段目の終盤へ。
ここでは道が、笹と灌木による激しい領土拡張戦争の前線になっていた。
いずれはどちらか勝者によって道は支配されるだろう。肩身狭く、通過する。



9:46〜9:53 《現在地》/海抜1800m

現れた。これが林道山田入線、最後の切り返しだ。
E段目を終え、最終F段目へ突入する。
標高もここで遂に1800mの大台へ!

F段目も、物凄い急坂から始まっている。
それを見て、そして自分を見て、息を整える必要を感じたので、5分間の休息をとった。



9:54

再出発直後、F段目冒頭の強烈な登りを、静かな煙雨に晒されながら、極めてゆっくりのペースで進んでいく。
歩いて押した方が速そうだが、押している自分よりは漕いでいる自分を峠に見せたい心境で、頑張って漕ぎ進む。
こんなことばかりやっているから、私の自転車のチェーンはすぐにだるんだるんになってしまう。



9:56

前方、見知ったトンガリ岩のシルエットが見えてきた。
あのひときわ鋭く尖ってよく目立つ岩に対する私の過去の複数の目撃体験は、毎回私を激しく興奮させてきた実績がある。
近いところでは【15分前】に直下のE段目から見上げたし、【約30分前】にはB段目から仰ぎ見た。その一番最初は【約1時間前】の@段目の終わりまで遡れるのである。

ある種の箱庭感がある閉じた谷の中で、縦にも横にも最大限に動き回りながら、一つの峠に立ち向かってきた。



9:57

完全に遠景がゼロになってしまった。
結局私の峠路の最後は、雲の獄舎に繋がれままに終えるということになる。前世は高僧だって? 徳? 何言ってんだこいつ。
一時期は本当に快晴を望みうると感じるほどに急好転していた空模様だったが、翻って見れば、全ては山の天気の変わりやすさに翻弄されたまでだった。

とはいえ、一度の探索でこれだけ色々な道の表情を見られたことは、むしろラッキーだったろう。
それに、あの一時の好天がなければ、この道の魅力のうち視覚にかかる部分は十分に体験できなかったと思う。



霧の中の景色は、こんなんだからね……。
高山の荒涼感がマシマシとなったシチュエーション自体は好きなんだが、レポートとして景色を伝えることは無理である。

一応これは路肩から下の段を見下ろしている。
良く見ると、右にD→E段目の切り返しの部分があるだろう。それしか見えない。
本当はその下にB→C段目の切り返しもあるだろうし、もしかしたらずっと左奥に@段目やA段目が見下ろせるのかもしれない。

その辺の見晴らしは今回お預けになってしまったが、もし好天時に同じ様なアングルを撮影されている方がおりましたら、どうか写真をご提供ください。追記で公開させていただきたく。



9:58

……といった辺りで、4時間近くかかった林道走行も、いよいよ最終局面か。

ケーキに入刀して1ピースだけ取り除いたような、荒々しくも整然とした感じのする、深い岩の切り通しが現れた。

その先には、もう切り立つ岩のシルエットはない。多分に高原的な、信州の峠らしい風景がありそうだ。

これが峠前の“最後の門”と直感した。



そして実際、この印象は間違っていなかったのであるが、


そんな場所に、私の素通りを許さない予想外の発見があった!




9:58

なぜか、素掘り隧道のような穴が、開いている。

切り通しの、谷側に残された、岩山に。



切り通しの、こんな場所に、貫通した穴があるのは、想定外すぎる。

どう見ても、切り通しに面している岩の面は、自然の地形ではないと思うが、そこに穴が開いていた。



現在地はここ。

もうほとんど峠の頂上に着いているのであるが、まさかこの場所の道路脇に、峠の反対方向へ穴が貫通している。



天然? 人工物? どっち?!

見ての通り、穴の中は下り傾斜になっている。



それも人工の通路としては、あり得ないくらいの急な下りである!

ならば、天然の穴と結論づけたいところだが、どういうわけか、穴の下に明らかな人工物が見えていた……。

……なんだあれ? 治山工か…?



少し離れた位置から地形の全容をチェック。
穴は、チェンジ後の画像に示した位置を貫通している。

この場所の下に別の道とかはなく、ただ斜面があるだけだ。
だからここにトンネルを掘り抜くような動機を想定できない。
強いて言えば、穴の上から見通せる治山用の土留めのようなものがあるが、これは穴を通らなくても簡単に外の斜面からアプローチ出来る。

状況的に、天然の穴である可能性が極めて高いが、よくも綺麗に貫通したものだ……。



穴の下口へ、斜面を歩いて近づいてみた。

下口は、上口よりもラッパ状に広がっており、やはり天然の洞口っぽい。



そのまま下口から潜り込んで、外を振り返った。

見ての通り、洞口附近にコンクリートの斜面工があって、林道の路盤を支える役目を担っている。



そして最後は穴の中を攀じ登るようにして、もといた林道へ復帰する。
穴の中も人工的な掘削の痕跡はなく、やはり天然の地形だと思う。
結構広いので、雨風を凌ぐビバークには使えそう。洞内に平らな場所がないのは不便だが。



10:02

そして路面へ、土管から出てくる配管工のように、下から登場する。
登場しながら、切り通しの向かい側の壁を見ると、なんとなく穴の続きだったような凹みがあった。凹みの中は黄色っぽい土砂で覆われている。硫黄とかではないと思う。

この穴が誕生した経緯はおそらく、次のようなものだと思う。
岩盤の中で、熱水変質作用を強く受けた部分が行き止まりの空洞を生み出した。後に林道の切り通しが偶々この空洞にぶつかり、貫通した穴を生じた。

私を足止めした穴を、後にする。



10:03

再出発から1分以内で、おそらく峠の頂上に待ち受けているようなものが、霧の奥に見えてきた。
地形的には、ほとんど何も見えないが。
結局、最後までダブルトラックの新しい轍が復活することはなかったな。ここもガレガレの川底みたいな路面状況。



10:05 

ゲート!

起点から0.6kmの位置にあった【閉じたゲート】と対になる、万座峠のゲートだ。
ここは約8.3km地点だから、封鎖されている区間が7.7kmあったことになる。
開かずの状態が長く続いているゲートであり、ゲートそのものが自然に還りつつあるように見える。

相変わらず深い霧のために地形の全容が掴みづらいが、ここが峠なのは確かである。
ゲートの位置がぴったり県境なのかは分からないけれど、峠の向こう側の斜面は完全に群馬県嬬恋村だ。
万座峠の海抜は、種々の資料に共通した1827mという数字が述べられている。地理院地図上でも同程度である。林道が整備される以前から、この標高は変わっていないようだ。

4時間以上を費やした、孤独な長い上りの果てに、辿り着いたゴールである。
山チャリストとしても、オブローダーとしても、とても充足感のある探索が出来た。
達成感は大きかったが、なんとなく、歓喜の叫びを轟かせる雰囲気ではなかった。
それに、長年封鎖されている道の現状を踏まえると、道の頑張りを讃える叫びも、独りよがりになりそうだった。



峠の側からゲートを振り返り。

白一色に塗りつぶされている虚空に、どんな絶景が収まりうるかは、ネット上にもいい写真が沢山ある。
だが、私は私なりの補完を、この後に机上調査として考えている。
それはそれとして、現地では悔しかったよ。見たかったからね。長い登高が報われるような絶景を。
最後の最後で「見せられないよ」は、無体である。

あと、赤いジャンパーが1着、ゲートか何かの金属柱に“着せられて”いた。
霧の中でもよく目立つ目印になっているが、ちょっと不気味かも。



地図を見ると、万座峠の頂上が林道山田入線のゴールで、峠の稜線に沿って走る県道と直ちに接続している。
だが実際は、上記のゲートと県道接続地点の間に、30mくらいの距離がある。
写真の右に見えているのがその区間で、傍らに色褪せた2枚の看板が立っている。

1枚は、元の配色の見当がつかないくらい白く退色した、「林道 山田入線 終点 幅員4.0M 延長8350M」の文字がうっすら読める林道標識。起点側では見なかった。
とても古そうなので、開通当初(昭和40年代)からのものではないかと思う。

もう1枚は、いろいろな場所で良く目にする土砂流出防備保安林の案内板。
描かれている地図に目を向けると……



こちらもかなり年季が入っている。
例えば、この万座峠で接続している県道の路線名は牧干俣線というのだが、図の中では湯沢牧線と書いてあり、これは古い名前だろう。
以前探索した南志賀パノラマルートも描かれているが、一部が点線になっているから廃止された後らしく、廃止部分を迂回する現県道が「林道七味笠岳線」として描かれている。これは昭和50年頃の状況かと思う。



10:08 《現在地》/海抜1827m

ああ! ちゃんと舗装路があった! 
しかも、霧を割いて車も走っている。 ホッとした。

この道路は、群馬県道・長野県道466号牧干俣線であるが、上信スカイラインという愛称の方が広く知られていると思う。
万座峠は近世以前からの長い歴史を有するが、その車道化である林道山田入線よりは、上信スカイラインの歴史が長い。
林道が頑張って万座峠へ辿り着いた時点で、既に峠の群馬県側にはこの上信スカイラインがあった。

同じ峠に複数の経路があるときに、たいていは、古い道が消え、新しい道が生き残るが、ここは単純にそうなってはいない。
万座峠は、かつての“越される峠”から、尾根道の途中にあって“越されない峠”へ、性質を変えている。



分岐地点を県道側から振り返り。

かつてはそうではなかったのかも知れないが、現状、ここが万座峠だという案内はないし、ここから長野県側へ下って行ける道がある(あった)ということも、分かりづらい。ちょっと広場があるくらいで、なんとなく通り過ぎてしまう地点になっている。

でも、ここが“越される峠”であった、多くの人々が足を停めた場所であった、その名残がまだあった。
写真の右端の辺りに、ぼんやりと赤いものが見えると思う。



お地蔵様を発見。

近年の再建かもしれないが、林道山田入線に由来するものではないと思われ、古道としての万座峠に由来するのであろう。

登るだけ登って突き詰めたのに、辿り着いたゴールは白一色で、しかも見知らぬ県道に放り出された。
そんな宙ぶらりんの結末に浮ついた心が、これを見つけてようやく、着地点を見つけた感じがした。
歴史のある峠に、新たな活躍の時代をもたらそうとした野心的な林道は、その野心ゆえに身を滅ぼしたのだろう。

合掌し、探索終了。

ちなみにこの後は、来た林道をそのまま自転車で戻り、1時間10分でスタート地点へ帰還した。



万座峠 到達!



 机上調査編 〜万座峠盛衰記〜


完走した感想として、林道山田入線は、山チャリとしても、オブローディングとしても、非常に魅力的なフィールドであると感じた。
特に万座峠の直下、渋沢源頭部で藪が明けてからの展開は、風景も、道路線形も、劇的といえるものがあり、適切な準備を持って臨むのであれば、季節や時間帯を問わず印象的で充実した探索が約束されている。

とにかく景観に恵まれていた。
亜高山の火山荒原による独特の植生景観や、未だ各所に温泉や硫気を噴上させる万座火山の屹然とした岩石景観が、古い時代の林道らしい強行的な土工で切り開かれている道路景観は、「豪快」という言葉に結晶する、独特の世界観を造り上げていた。

過酷な環境を走破することの代償として、峠付近を中心に大規模な路盤の崩壊が多発しており、そのため現在の道路管理者である高山村の手で起点と終点両側のゲートが閉ざされている。にもかかわらず、封鎖区間内の全線にわたって二輪の轍が存続しており、特に通行が難しい欠壊箇所には、草の根による手入れが見られるなど、今も熱心なファンがいることが窺われた。
これも本道の高い魅力故であろう。

現地の道路風景については、概ね本編で紹介できたと思うので、ここでは道の歴史を採り上げたい。
既報の通り、起点の七味温泉には本道路の開通記念碑と言うべき「万座街道の碑」が建立されていた。
碑文を以下に再掲する。

(表面)

万座街道の碑

長野県知事 吉村午良 書


(裏面)

沿  革

山田温泉より松川沿いに、五色七味を経て原始林の中の急坂な山道を登り、眺望絶佳の万座峠を越えて、海抜六千尺の秘湯万座温泉に至る三里半の山道を古くから万座街道といった。
昭和二十八年、県道万座線が開通するまで万座への表街道の重要な役割を果たしてきたのがこの街道であり、湯治客や生活資材の運搬路として牛馬や駕篭の往来が頻繁であった。
奥日影及び山田入地籍約一千七百ヘクタールの原生林に生い繁った樅・栂・樺・橅などの搬出や観光客のために、林道の開設が奥日影森林組合によって計画され昭和十九年に着工、延長八千三百五十メートル幅員四メートル総工費三千三百九十七万円をもって昭和三十四年に竣工した。同三十六年高山村に移管されたが、七味より峠頂上に至る間の地質は極めて悪く融雪豪雨等の災害により通行不能の状態が多かった。
特に昭和五十六年・五十七年、二か年にわたる台風豪雨災害は三十三か所に及び全線通行不能の惨状となった。これが復旧に当っては国・県の積極的な協力指導により総工費一億五千二百余万円をもって見事に復旧、改良が完成し林道としての機能はもとより県境を越えての地域開発に大きな役割を果すこととなった。
ここに災害復旧工事完成にあたり、関係各位に感謝し記念碑を建立する。
         昭和五十八年十月吉日
             高山村長  久保田常吉 撰文

この碑文により、万座峠および林道山田入線のあらましは理解されるが、改めて文献や資料による深掘りを試みる。




これは、林道山田入線が整備される以前の万座峠と松川渓谷を描いた、昭和27(1952)年の地形図だ。
図の右下に「万座峠」の注記があり、そこから松川の谷底にある「七味温泉」まで、現在の林道に近いコースで、1本の実線の山道が描かれている。これは林道山田入線が整備される以前に利用されていた、万座峠道(碑文にある「万座街道」)である。

チェンジ後の画像は、より古い明治45(1912)年版である。
ほぼ同じ位置に峠道があるが、「万座峠」という注記はなく、図郭を跨ぐ行き先の「万座温泉」という表記もない。

林道開通以前の万座峠の姿を知る手掛かりとして、まずは『信州高山村誌』の記述を紹介しよう。

昭和20年代まで馬方稼ぎをやっていた人たちの伝聞でつぎのような話しが聞かれた。
(中略)
明治の終わりころから万座温泉の荷物を運ぶ仕事が出てきた。当初は山田峠を越え白根山を左に見て万座へ向かう道だったそうだ。その後七味から万座峠道がひらかれたが、「牛さえ通れば良い」といわれた道だった。大正の終わりから昭和に入ると順に整備されてやがて牛方から馬方稼ぎへと変わっていった。
その後万座温泉は旅館が増え、湯治客が多くなると荷物だけでなくお客も多く運ぶようになり、本格的な駄賃稼ぎの時代を迎える。時には代掻きを中断して万座温泉へ向かったこともあった。稼ぎは5〜11月でとくに7、8月は大繁盛だった。
そして長野電鉄バスの須坂〜万座間の運行が開始する昭和27年を契機に、この駄賃稼ぎは幕を閉じた。

『信州高山村誌 第2巻 (歴史編)』より(右画像も)

昭和27年に長野電鉄の須坂発万座温泉行き路線バスが運転を開始するまで、万座峠の長野側登り口にある高山村の住民にとって、物資や湯治客を温泉へ送り届ける牛方や馬方の仕事が、田んぼの代掻きを中断して行うほどに重要な大きな収入源になっていたという。
それだけに道もよく整備されていたようである。

戦前の昭和14(1939)年に俳人の本田一杉が著した『大汝』所収「時雨・紅葉・雪」は、当時の万座峠道の姿を丁寧に描写している。
彼と息子の良寛は、晩秋の冷たい雨の日に、当時バスの終点であった山田温泉から、五色、七味温泉を経て、万座峠から万座温泉まで歩いている。10月16日だったらしいが、峠道の途中から一面の雪模様になっている。七味温泉から峠までの場面を幾つか抜粋して引用しよう。

万座登りの駄馬に従いて霧雨の中、湯の香を吸うて登る。渓流は足元に流れ、磧(かわら)の白樺は林をなしてくる。すでに千五百米の高きにあるのだ。(中略)駄馬に乗った湯治客と、食料品を負い、手にさげ、片手に傘をさした万座温泉の日進館の男たちとが道連れになる。十時半、虎杖橋を渡る。松川の砂防工事の小屋が建っている。(中略)登るにつれて左右は笹原となる。とうとう粉雪が降り出してきた。(中略)十時五十五分、とある路傍の亭に着く。熊笹で葺いた四本柱の亭、床几は雪にぬれている。道の上に小さい祠があり、清水が道に流れている。(中略)硫気がどこからともなく匂うて鼻をうつ。渓流を渡り坂を登ると闊葉樹は尽きて山はからりと開け、左右は針葉樹の青々とした高嶺に狭められてくる。(中略)坂道はひろびろと落葉樹・栂の下につづいている。ちらちら降る雪に森林も道も白妙に装われて寒さが肌を刺す。(中略)硫気の上がっている渓流を渉ると、ようよう峠らしい急坂にさしかかる。登る。坂を曲がってひょっくり三人の女連れが降りてくる。(中略)十二時二十五分、万座峠の笹葺の亭に立つ……

『大汝』(昭和14年)所収「時雨・紅葉・雪」より

下線を付けた場面には、心当たりがある。
【虎杖橋】という橋が現在の林道にもあるし、小さい祠とは渋沢の入口にあった【お地蔵様】のことだろう。私も硫気を嗅いでいる。その先の景色の変化、闊葉樹(シラカバ)から針葉樹(カラマツ)になって、峠への急坂が始まるという流れも、大いに私の体験と重なる。総じて現在の林道と近い経路を辿っていたことが分かるのである。また、当時は途中に小さな休憩所が複数あって、旅人を助けていたことも分かる。

だが、彼が体験して、私は体験しなかったことがある。
それは、道の途中で何度も万座温泉の湯治客と行き交っていることだ。

現在でも年間40万人以上が訪れるという国内屈指の高所温泉地である万座温泉と、その名を冠する万座峠は、歴史的に切り離せない関係にある。
万座温泉の発見は江戸時代まで遡るとされるが、初めて旅舎が建てられたのは明治初期で、明治20年以降次第に温泉集落を形成、大正時代には群馬県側と長野県側の両方から駄馬が通う道が通じていた。(『角川日本地名辞典』)

昭和23(1948)年に発行された『万座温泉風土記』には、下界とこの山上の温泉地を結ぶ多様な山道が案内されているが、「長野県側よりの道」の筆頭に「山田温泉経由コース」が挙げられていて、次のように解説している。

長野電鉄で須坂駅に下車し、ここから山田温泉までバスでゆける。そこからは徒歩で、五色、七味の温泉を通って、万座峠に出る。この峠へ登るまでに有名な二十七曲りのジグザグがある。そこからは下りで間もなく万座温泉に着く。
上州側が殆んど馬の利用ができないのに反し、須坂口からは物資も運搬され、客も乗せる。そして指示する宿にちゃんと届けてくれる。牛も大分この道を通るから何かの時は便利なコースである。山田からは時間で約四時間半であろう。距離は十三粁五と算定されている。現在最も利用されているのはこのコースである。中道通りの古道である。

『万座温泉風土記』(昭和23年)より

『二日三日山の旅』(昭和34年)より

万座温泉は群馬県に所在するが、徒歩の時代は長野県から万座峠を越えて行くのが最も便利で、よく利用されているメインルートだった。戦後しばらくまで万座温泉の集配局は長野県の小布施郵便局で、配達も万座峠越しに行われていたという(『信州の峠』)。
よく踏まれた峠道ではあったが、地形は険しく、「有名な二十七曲りのジグザグ」という描写には、現在の過酷な林道風景と相通じるものを感じる。

右図は、昭和34年発行の登山ガイド本に掲載されていた万座峠付近の地図である。碑文によると、この年に林道山田入線が開通したことになっているから、歩きの道が使われた最後の頃である。この時代には既に須坂駅前から万座温泉行きの路線バスが通じていて、峠道を歩く人は激減していたことだろう。

本題から少し逸れるが、万座温泉に初めて自動車が入ったのは、戦時中の昭和18(1943)年とされている。このときは温泉目的ではなく、近傍にあった硫黄鉱山と須坂を結ぶ車道が整備されたことによる。これが戦後に長野電鉄の専用道路(現在の上信スカイライン)として再整備され、そこを昭和27年から同社のバスが走り始めたのである。群馬県側の万座ハイウェイルートも、同じく戦時中に硫黄鉱山開発に伴って原形が作られ、昭和29年に西武バスが温泉まで通じている。

昭和26(1951)年の『高原の山旅 新編登山地図帳』には、須坂からのバス道路が万座峠の脇を掠めるようになった後の万座峠道の描写がある。先ほどの紀行とは反対で、峠から下る方向での紹介だ。

温泉から万座峠までは幅広いバス道路が通じている。これを辿ること一時間ばかりで峠に立つと、正面に笠ヶ岳のグロテスクな風姿が双眸のうちに入ってくる。全く印象的だ。黒木に覆われた静かなみちをジグザッグに降り、岳樺の美しく点在する唐松平に達すると、そこに美波良屋という掛茶屋がある。一憩に値するところだ。 顧みれば黒湯山の東斜面に赤茶けた物凄いガレが仰がれる。これは俗に言う「吹上ノ崩」である。(以下略)

『高原の山旅 新編登山地図帳』(昭和26年)より

私が悪天候のため見ることができなかった、本来は峠から真正面に望まれたはずの笠ヶ岳の眺めを、グロテスクで全く印象的と評している。……悔しい。見たかった。この恨みは後で晴らす。
そして本書の描写によって初めて、私が本編中「渋沢源頭」と表現していた物凄いガレ場に、固有の名称があったことが判明する。

こいつは、吹上フキアゲクズレという名前だった! 名前かっけえ!!

このあからさまな難所である“吹上の崩”に、徒歩時代の万座道は敢えて近づかなかったのである。これを茶店からの遠景として見ていただけだった。
にもかかわらず、この後に整備された林道山田入線は、この難所の横断という破天荒をやってみせる。泣く子を起こすなという言葉を知らなかったのだろうか。

ここからはいよいよ、林道山田入線の整備について述べた文献を探っていくぞ!




昭和35(1960)年の地形図を見ると、万座峠には既に2本の道路が到達している。
一つは今回探索した林道山田入線で、もう一つは「長野電鉄専用道路」と注記がされている現在の県道牧干俣線こと上信スカイラインだ。
「専用道路」とはいいつつ一般の車両も有料で通行させていたらしく、昭和36年のドライブガイド本『ブルー・ガイドブックス 浅間高原』は、「万座峠にも有料ゲートがある」「実に素晴らしい。交通量もまるでなく、路面もあまり悪くないし、視界はひろく…」と、この専用道路区間を大絶賛している。一方で林道山田入線はガイドの対象になっていない。

チェンジ後の画像は、先ほども掲載した昭和27(1952)年版だ。
こうして比較すると、徒歩時代の道と林道は近い場所を通っているが、林道には沢山の九十九折りがあり、勾配の緩和に苦心していることが伝わってくる。

林道山田入線が整備された経緯について、詳細に解説している資料は見当たらない。
これについては碑文が最も詳しいように思うが、近い内容のものとして、昭和35(1960)年に上高井教育会が発行した『長野県上高井誌 社会編』に、奥地林道の開発として、次のような記述がある。

戦後の林業で注目すべきことは、未開発の奥山が林道の開設によって、資源化されたことである。その主なものは、奥日影森林組合が行っている山田入線(山田温泉〜万座温泉13km)で、戦時中に七味温泉まで開設されていたものを完成している。

『長野県上高井誌 社会編』(昭和35年)より

短い内容だが、碑文で私が疑問と感じていた部分に小さな解決が図られている。
というのも、碑文では、「昭和19年に着工、延長8350m(中略)、昭和34年に竣工した」とあって、現在の林道山田入線の中で工事は完結しているように読めるが、歴代地形図では戦後しばらくまで、林道の起点である七味温泉にすら車道が到達しておらず、これが疑問だった。

実際は、昭和19(1944)年の着工当初の林道山田入線とは、山田温泉が起点であり、現在の県道66号豊野南志賀公園線の経路を開削しながら七味温泉に到達。そこからようやく現在の林道山田入線の区間を切り開いていたのだ。戦前の工事は七味温泉までは到達せず、戦後に改めて万座峠までの工事が行われた。そして全て(13km)が完成したのが、昭和34年だったのである。

また、昭和34年に竣工という碑文の内容についても、正確には昭和34年“度”の竣工で、実際は昭和33(1958)年7月に開通していた可能性が高い。『信毎年鑑 1960年版』に、この年の高山村の主な出来事として、「奥日影林道山田入線開通(33.7)」の記述があった。

碑文によれば、林道山田入線開削の目的は、「樅・栂・樺・橅などの搬出や観光客のために」とあった。
林道としては、木材の伐出は当然であるが、観光という部分についても相当に重要視されていたようだ。
『信州高山村誌』には次のような記述がある。

昭和27(1952)年には、山田村観光協会が設立され、観光計画の推進母体となった。笠岳林道とも呼ばれた牧道の自動車道路が着工となり、33(1958)年に開通した。いっぽう、万座への山田入線も30年に唐松平から着手されるなど観光開発の基礎づくりが進んだ。

『信州高山村誌 第2巻 (歴史編)』より

旧山田村は昭和27年に観光協会(信州高山村観光協会の前身)を設立し、村の一番奥にある七味温泉からさらに奥地へ伸びる2つの林道の整備を進めた。

一つは戦前から志賀高原への連絡スキーコースの拠点となっていた山田牧場へ登る道(笠岳林道)で、もう一つは万座峠へ登って上信スカイラインと結ばれる道(林道山田入線)であった。

なお、笠岳林道は最終的にさらに延伸され、南志賀パノラマルートとして昭和43年に華々しく全通するが、翌年に大崩壊を起こしてそのまま廃止された非業の道だ。

旧山田村の中心的観光資源である信州高山温泉郷の繁栄を考えたとき、山田温泉〜五色温泉〜七味温泉(総称して信州高山温泉郷)を経由して、志賀高原(パノラマルート)や万座方面(山田入線)へ伸びる観光道路を整備することは、非常に大きな意味がある。

こうした道がなければ、志賀高原や万座温泉といった第一級の観光地が隣にありながら、この温泉郷は無関係の袋小路で終わってしまう。少し前まで万座温泉の長野側玄関口という地位にあったのに、上信スカイラインや志賀草津高原ルートといった新たな広域周遊ルートからは完全に取り残されてしまうのである。
そうした焦りが、かつてこの温泉郷に「南志賀温泉郷」という、こてこての“あやかり地名”をもたらしもした。

万座街道の車道化である林道山田入線の整備は、かつて万座温泉との繋がりで大きな繁栄を経験した旧山田村(昭和31年より高山村)の悲願であった。


林道山田入線の建設工事について、詳しい資料は見当たらない。
現地を見た私の感想としては、当時既に上信越高原国立公園の区域内であったはずの場所で、よくぞこれほど荒々しい道路整備が許されたと驚くが、やはりそこは旧道として歴史のある万座街道を有していたという強みがあったのだろう。
詳しい工事記録は不明ながら、とにかく昭和34年度(おそらく33年7月)に、七味温泉から万座峠まで8350mの林道山田入線が全通。その2年後に管理は森林組合から高山村へ移管されている。

しかし、無理な地形での工事が祟ったとしか言い様がないと思うが、開通後も万全のコンディションとはならなかった。碑文によると、「七味より峠頂上に至る間の地質は極めて悪く、融雪豪雨等の災害により通行不能の状態が多かった」そうである。さもありなん。

この年代の林道山田入線の様子が分かる資料も多くないし、通行記録に至っては皆無に近い。
数少ないものとしては、昭和46(1971)年に岩佐徹道氏が発表した『群馬の峠 西北の道三山の地』が挙げられる。
同書の万座峠の頁に、上信スカイラインを万座温泉から万座峠まで走行した次のようなシーンがある。

大型バスが巨大をゆすりながら坂を登るのを見送って、その後についた。が、深い霧と初めての道なので、何処を走っているのか見当もつかなかった。左が崖のような気がした。やがて、4km程進むと前方が開けて何かが浮いて見える。
料金所万座峠だ。
あらい霧が縞をなして吹き付けてくる中で、山際に地蔵様を見つけたが、峠が見つからない。黒合羽のゲートマンに訊くと、門の向うを指した。ぼやァと白い。レンズをかばいながら駆け寄る道端の小高いところ、五尺足らずの標柱が万座峠。昔は、万座の客を女中さん達が此処まで送って来て別れたという。
その柱の下から、霧の湧く谷底への道があるようだったので、覗き込んでいると、ゲートマンが寄ってきて、「どうかしましたか」と言う。
「道があるんだね」
「ああ、道ですか。山田へ下るんですよ」
「車で」
「とんでもない」
と、身投げを抱き止めるような恰好をした。

『群馬の峠 西北の道三山の地』(昭和46年)より

この本は私の愛読書で、今度の探索前からよく読んでいたのだが、この万座峠のシーンも大好きだ。
私が峠で出会った【お地蔵様】も、ここに登場している。

昭和46年の本の描写で、これなのである。
既に万座峠側から山田入線へ入るゲートは閉ざされていて、到底車で通り抜けられるようなコンディションではなかったことが、ガードマンの対応から伝わってくる。

さらにこの頁には、現地で私が見ることができなかった、万座峠から笠岳を撮した写真も掲載されている。
遅ればせながら、ご覧いただこう(↓)。



『群馬の峠 西北の道三山の地』より


銀塩カメラの優しい色で描写された、終わっている風景だ。

万座峠から撮影した笠岳というキャプションだけでは絶対に終わっちゃいけない、人類の罪ある眺め。

詳しい撮影日は不明だが、パノラマルートの大崩壊が昭和44年だから、それ以降の昭和51年までのどこかだ。

令和5(2023)年に万座峠で撮影されたストビューと比較してみると、笠岳の崩壊斜面の緑化は相当進んでいることが分かる。


閑話休題。

林道山田入線と、南志賀パノラマルートは、どちらも旧山田村の観光振興計画に発端を持つ高山村内の林道というだけでなく、完成後に崩壊を多発させたことも共通している。
このことは村内だけの問題では収まらなかったようで、例えば昭和48(1973)年に長野県が発行した『長野県政史 第3巻』には、全県の林道整備を言及するところに次のような記述がある。

しかし大規模な林道は、地質・植生などの自然条件が弱い山岳地帯を通過するものが多く、自然破壊が危ぐされている。たとえば上高井郡高山村の万座峠に向う山田入線、笠岳をまいて熊の湯に出る七味笠岳線は、軟弱な山地が大崩落して使用不可能になっている。また南アルプススーパー林道……

『長野県政史 第3巻』(昭和48年)より

……てな具合で、まるで県内における林道を原因とした環境破壊の筆頭のような扱いだ。酷いじゃないか。

そして時系列的には、この後で碑文の次のような記述が入ってくる。
すなわち、「特に昭和56年・57年、2か年にわたる台風豪雨災害は33か所に及び全線通行不能の惨状となった。これが復旧に当っては国・県の積極的な協力指導により総工費1億5200余万円をもって見事に復旧、改良が完成し林道としての機能はもとより県境を越えての地域開発に大きな役割を果すこととなった。」
碑文は、この昭和56・57年災からの復旧工事完成を祝したものであり、これが碑文から読み取れる“最新”の事情である。
『信毎年鑑 1985年版』には、この年(昭和58年)の高山村の主な出来事として、「林道山田入線の改良工事完成(10月)」の記述がある。

昭和58年10月に、県と国の大きな助力を得た林道山田入線の大規模復旧工事は完了した。
そして立派な記念碑を以て寿いだ。
ならば、その後はどうなったか。

平成元(1989)年に地図で有名なミリオン出版が発行した、林道ツーリングの古典的名著(私が好きなだけ?)『ナチュラル・ツーリング 続』に、山田入線が登場している。
これが私が見つけた限りでは唯一まともに(バイクで)通り抜けている通行記録だった。(この本も愛読書だが、山田入線が登場していることは、今回の机上調査まで失念していた)


『定本・信州百峠』より

県境の万座峠から七味温泉へと下っている山田入林道に入る。岩盤がむき出しの急な斜面に、ガードレールなどないつづら折れのあぶなっかしい道が続いている。道すがら笠ヶ岳や、2000m級の尾根を走る志賀草津道路などが見渡せる。七味温泉から山田牧場へと入り……

『ナチュラル・ツーリング 続』(平成元年)より

描写は短いが、ちゃんと通り抜けられている。
また、現在の九十九折りにはガードレールが完備されているので、この年代の後にもまだ改良が行われたことが分かる。

右の写真は、平成6(1994)年に郷土出版社が発行した『定本・信州百峠』に掲載されたもので、「万座峠より七味温泉側の谷を望む」のキャプションがある。この撮影場所の心当たりは大いにあるが(本編第5回9:35頃のこの写真のアングルだが、私は霧のためこのようには見通せず)、風景は荒々しいが、路面は整っているように見える。

同書本文によると、「旧道に沿って林道が開通しているが、崩落がひどく春先や雨後には通行不能となる」とのことだから、現在のような常時の通行止ではなかったことが分かる。
本編前説で紹介した平成9(1997)年版ツーリングマップルも、「豪快」と推していた。

まとめると、昭和58年の再開通後しばらく、少なくとも平成9年頃までは、しばしば通行止になりつつも、基本的には一般に開放されていたようであった。
その後の事情は、文献的なものが見当たらないし、現在へ繋がる長期通行止となった直接の原因や時期もはっきりしない。
色々と思い当たる崩壊地は現地にあるが、そのどれが致命傷になったかは分からない。
確認できた範囲で一番新しいゲート解放時の通り抜け記録は、林道日記さんに掲載されている平成16(2004)年7月17日のものだろうか。


万座峠と林道山田入線の歴史としては、以上である。




今回はシンプルな山チャリレポートをお届けするという話だったはずが、長い机上調査を書いてしまった。以前のパノラマルートは机上調査編をサボったので、今回は真面目にやりました。引き続き、皆さまのこの道での体験談や思い出のお話しも募集中です。コメント欄にぜひください! それではまた次回のレポートで!





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