廃線レポート 早川(野呂川)森林軌道 奥地攻略作戦 第17回

公開日 2025.12.20
探索日 2017.04.14
所在地 山梨県早川町〜南アルプス市

  ※ このレポートは長期連載記事であり、完結までに他のレポートの更新を多く挟む予定ですので、あらかじめご了承ください。


 カレイ沢への生還RTAと 驚きの新発見!!


末端で約10分間休息を取った後、帰投を開始。
ここへ来る途中、地形を見ながらずっとイメージを温めていた最速の帰投プランを早速実行に移す。
それは、チェンジ後の画像に青線で示したように、「現在地」からそのまま“尾根F”を登っていき、往路で利用した高巻きルートに合流しようとするものである。多分これが一番早いと思います。
それに何より、安全だと思う。(今来た道は戻りたくなかった!)

9:22 末端より帰投開始!



9:25

尾根を登り始めて間もなく(路盤から15mくらい上)、右下方に昨日の私を引き返させ、今日の私も引き返させた崩壊地の上部が現われた。

結論から言うと、この崩壊地は高巻きで突破が可能である。
尾根が近いため、その尾根まで登れば越えられるのである。
したがって、単純な突破難度はそこまで高くはない。
そのことは昨日の時点で想定はしていたが、越えた先がどうなっているか分からないことや、単純に時間的な不安が大きかったことで、突破しなかったのであった。

結果的には、安全寄りの良い判断をしたと思う。



9:47 (帰還開始から22分) 《現在地》

“尾根F”は、初めのうちこそ立木を掴んで登るくらい急であったが、登るほどなるくなり、約100m高度を上げると、まるで天然の林間キャンプサイトみたいな平坦な尾根が広がっていた。
あれだけ苦労した林鉄のわずか100m上に、このような地形が広がっている。そのギャップが印象に残った。

しかし、早川の山は、南アルプスは、ことごとく地獄の如き崩壊地とガレと急傾斜であると思いがちなのは、このエリアで林鉄や廃道ばかり探索してきた人の陥りがちな考えであろう。
それは谷に近い部分の一面を見たに過ぎないのであり、むしろ登山の対象となるような上部については、嫋やかな地形を以て特徴付けられる部分が少なくない。

……始めから終わりまで谷沿いのトラバースに終始する宿命にあった林鉄には、決して辿り着けなかった領域だった。



9:52 (帰還開始から27分)

写真は、高度1450m附近の高巻き最高所から撮影した上流方向の眺めだ。
これまでも繰り返し見えていた南アルプス林道の特定の範囲がまた見える。
繰り返しになるが、この早川林鉄を転用した林道である。
このまま順調に行けば、今日の午後、今から数時間後には、あそこを歩いていそうだ。

チェンジ後の画像に示した矢印の部分に道が見え、見えない部分には隧道がある。
林道化した上流部にも、多数の隧道が犇めいている。
しかし、今やその隧道の多さに突飛な印象は受けない。
なぜなら、林道化していない区間にも多数の隧道があることを、私はもう知っている。



10:18 (帰還開始から53分) 《現在地》

GPSのおかげで、道迷いの不安を感じることなく、道なき山稜の跋渉が出来た。
やがて往路の高巻きで通った場所に合流し、ガレ場には私が刻んだ足跡がちゃんと残っていた。
とても順調である。

が、やはり疲れは隠せない。
足、特に両足の親指の痛みが酷くなってきた。
体重が爪先にかかる下りがキツイ。(この探索による負担が原因で、後日両足親指の爪が自然と脱落した。今は治ったけど)

行程としては順調ながらも、疲れのせいで思いのほか時間を費やし、ようやく軌道跡への下降地点へ。
往路で登ってきた尾根を逆に下るのである。



下りはちょっとだけルートを変えて、尾根右隣の湾状に窪んだ単調な斜面を落葉を利用した尻セードで下った。
爪先が痛すぎて下りを歩きたくなかったというのが、最大の理由である。
動画では、「楽し〜い」と楽しがっているが、強がりであり、あまり楽しくはなかった。

やっぱり復路って、キツくなってくるよね…。



10:26 (帰還開始から64分) 《現在地》

1時間強ぶりに、路盤へ降着!
ヒョロガリ宙ぶらりんレール橋の100mほど上流側に降り立った。

往路では、ここから末端まで約2時間10分かかっていたので、全く軌道跡を無視した高巻きに終始した復路は、その約半分の時間で戻ってくることが出来た。
とはいえ、移動している距離の割には酷く時間がかかっているのは変わらずである。時間の経過が早く感じられる。



10:36 (帰還開始から74分)

一旦軌道跡に復帰してからは、もうウラワザは無い。
往路で私を苦しめたいくつかの難所は、素直に逆コースで越えた。
往路で私を喜ばせたこの【写真の場面】は、色褪せずにまた私を喜ばせた。
時間の経過で光の当り方が変わり、よりノスタルジックな雰囲気になってるよ。いいよいいよ〜〜。



10:39 (帰還開始から77分) 

次の隧道では、どうしても他人事のようには思われぬ、あるじに忘れられてしまった哀れな寝袋(?)に、自身の無事を祈りつつ……



10:44 (帰還開始から82分)

“黄色い大崩壊地”と再まみえ!!

なんだかんだ、往路で突破した難所の中では、最初のここが一番危険度が高かったと思う。
しかも正面突破以外の方法を知らないので、またそれをやるしかないからな…。ちょっと怖い。
とはいえ、これが本区間最後の難所である。ここさえ越えればカレイ沢はすぐそこだ。

というわけで、そろそろカレイ沢の先、次の区間の探索についても考えていきたい。
カレイ沢の砂防ダム地帯を渡った軌道跡は、ここからも見える対岸の斜面に続いているはずだ。
今のところ、はっきりとしたラインは見えないが……。



いや、見えた!

対岸の斜面にも、仄かにラインが見えている!!

とりあえず、次の区間が「ある」ことが確信できた。


……先の見通しが立ったところで……




10:47 (帰還開始から84分)

突撃ィ〜〜!!


生還に向け、必死に手足を動かした。


そしてその成果――




このいきり立つ岩峰を越えた、向こう側。

本崩壊中の最大難所を乗り越えて、再び路盤に手が届こうとする、その 最後の瞬間――



!!!




刻印のあるレールを発見した。

それも、とんでもなくレアな刻印……。



厳密には、このレールそのものは往路でもご覧のように目にしている(写真に写っている)。

しかし、まさかその先端に刻印があろうとは!

というか、古レールに刻印があるケースはままあるとしても、それは得てして通常のレールである。
林鉄で使われるような軽レールで刻印を持つものはほとんど知られておらず、(だから、普段は探しもしないわけで…)、
まさかこの場面、この先端の一欠片が、その激レアとは……
そしてそこに気付こうとは……!!


レールを愛し続けた私は、遂にレールの神に祝福をされたのかもしれない。

そう思える、これは 奇跡 だった。

林鉄での刻印を持つ軽レールとの遭遇は、これが私の探索における2回目。(ちなみに1回目はレポート未執筆だが群馬県の林鉄だ)




 カレイ沢で発見された古レールについて (机上調査編)


10:48 《現在地》

レールのフランジ部分に、このような文字が陽刻されていた。

“ HOESCH.50. ”

ローマ字6文字と、ドットに挟まれた「50」という数字。


……今回はこの古レールの話をします。興味が無い方は次回(まだ書いてないよ!)までワープ!……




私は古レールに特別造詣が深いわけではないが、鉄道廃線ファンの端くれとして多少の知識は持ち合わせていた。
それはつまり、我が国がレールという比較的高度な製造技術を要する工業製品を安定的に大量生産できなかった明治前半は、国内での需要を満たすために、鉄道先進地であり我が国が鉄道の手本としたイギリスをはじめ西洋諸国から大量のレールを輸入していたということや、明治後期に官営八幡製鉄所の操業開始などで国産化がなされてからは、逆にほとんど輸入されていないことを知っていた。

日本だけでなく世界各地に19世紀や20世紀初頭に西洋で製造された古レールが存在しており、それらは古典レールという鉄道趣味における一つの世界的ジャンルを形成している。
そしてそんな古レールを知る手掛りとして最も重視されるのが、製造者によりフランジ部分に刻まれた刻印である。
(なお、現在のレールにもJIS規格による規定の刻印があり、普通レールも軽レールも刻印自体は当然に存在するものである→この資料のp17で実例を見られる)

古レールの刻印の内容は製造者や時期によってまちまちだが、製造業者名、国名、単位重量、形状、製造年月、素材、その他などから取捨選択される。

もしあなたが古レールの刻印に興味を持たれたのであれば、このジャンルのオーソリティであるMichihiro Arashi氏の圧倒的情報量を誇るサイト「古レールのページ」をオススメする。
私も今回お世話になっている。
しかし、膨大な情報量を誇るサイトの力を借りても、このレールについて知ることは簡単ではなかった。


今回の古レールの調査について時系列順に述べていくと、まずは現地で刻印を見つけた瞬間、舞い上がるほど喜んだ。この喜びというのが調査以前の第一印象だ。
前述した通り、軽レールに(JISやその前身であるJES以外の)古レール的刻印が見つかることは非常に稀である。
そのことは、私自身の経験として稀であったというだけでなく、あのnagajis氏が前年に大台ヶ原での林鉄探索で発見し大喜びをしていたことも知っていた。彼が驚き喜ぶほどなのだから真に稀なのだ。

そして次には当然、“ HOESCH.50. ”という刻印の内容の解読と、意味の解釈を行おうと試みた。
一般的な古レールの刻印に比べて内容が少なくシンプルだと感じたが、おそらく製造者名だろう6文字のローマ字を私は「HOLSCH」と誤読していた。
そして「50」という数字は、製造年か単位重量に関するものだろうと当りを付けた。

古い西洋レールだとしたらヤードポンド法で単位重量を書くが、これが50ポンドレール(≒30kg/mレール)でないことは明らかだから、消去法的に製造西暦の下二桁である可能性がより高いと思った。つまり1950年か1850年である。後者は日本の鉄道ファンとして「え?!」と思うくらい古いが(嘉永3(1850)年)、しかし昭和25(1950)年であるわけがなかった。
「50」が西暦の下2桁である場合、このレールは我が国が“ちょんまげ”を結っていた時代に産声を上げていたものということになる!

この現地での即興の推理に、私自身がぶっ飛んだのは言うまでもない!


そして帰宅後、前述した「古レールのページ」をはじめとするインターネットを駆使して本格的に調べ始めた。
だが、「HOLSCH」という誤読した社名では見つかるはずもなく、あまり見つからないのでやっと誤読を疑って、【写真】を穴が開くほど見つめた結果、正しくは「HOESCH」であることにようやく気付く。

改めて「HOESCH」をキーワードに検索すると、ドイツ発祥の高級バス・サニタリー製品ブランドが多くヒットしたが、イメージが合わないので、「HOESCH+rail」など、関連してほしいキーワードを足して検索していくと……、それっぽいのを発見!!(↓)


ドイツ版wikipedia「Hoesch AG」のスクリーンショット

ドイツ国内に、1992年まで、「Hoesch AG」という大手製鋼メーカーがあったことを知った。
以下、ドイツ版wikipedia「Hoesch AG」の翻訳を抜粋引用する。

ヘーシュは、ドイツの鉄鋼・鉱業複合企業であり、ドルトムントに本社を置き、ルール地方とジーゲンに複数の子会社を有していました。1871年にレオポルド・ヘーシュによって設立され、1938年までに3万人以上の従業員を抱え、ナチス・ドイツ最大の企業の一つでした。

ヘーシュ家はドルトムント会社設立以前からアイフェル地方でさまざまな金属加工会社を経営しており、モンシャウ、デューレン近郊のレンダースドルフ(1819年以来)、エシュヴァイラー(1847年以来)に工場を構えていました。

1871年、レオポルド・ヘーシュは、当時ヴェストファーレン州であったドルトムントに新しい製鉄所と製鋼所を設立し、新興していたルール地方の立地上の利点(豊富な石炭埋蔵量、鉱石輸送用の鉄道)を最大限に活用しました。

1933年のナチス政権掌握後、ホーシュ社は軍需コングロマリットとして、パンター戦車およびタイガーII戦車の車体、戦車弾薬、砲身、装甲板を製造しました。第二次世界大戦中、同社は強制労働を広く利用し、1944年12月までにホーシュ製鉄所の労働者の3分の1以上が強制労働者となりました。

1991年、敵対的買収の一環として、ヘーシュは当時のクルップグループに買収されました。

ドイツ版wikipedia「Hoesch AG」を翻訳して抜粋

早川林鉄が敷設された年代のドイツ国内において、最大の鉄鋼メーカーであったヘーシュ社。
レールの出所は、この会社の可能性が高いのではないか。

wikiにはレールを生産していたという記述はなかったものの、ドイツ版googleを「"hoesch AG Schiene(訳:レール)"」で画像検索すると……



ドイツ版googleのスクリーンショット

おお〜〜! あるある!!

そして、これらの写真の多くはドイツ国内の古典レール愛好サイト「Die Welt der Eisenbahnschienen(訳:線路の世界)」のものであり、同サイトにヘーシュ社の古レールをまとめたページを見つけた。

そこにはドイツ国内で撮影されたとみられるヘーシュ社の古レール写真が14点掲載されており、今回私が見つけた「 HOESCH.50. 」と全く同じ様式のものは見当らなかったが、社名の配置や字体はそっくりで、全て「HOESCH+4桁の製造年」の内容を含んでいた。
これでいよいよ今回見つかったレールはドイツのヘーシュ社のものと確信した。

また、製造年部分が最も古いものは1837年(我が国は天保8年)というのがあり、このことから、HOESCH AG(訳:株式会社)として創業する1871年以前のヘーシュ家時代の刻印も存在しうる……、つまり今回発見のレールに刻印された「50」が、まさしく1850年製造を示している可能性は消えなかった。


 ナチス・ドイツ由来のレール?


Ruhr Nachrichtenの記事(機械翻訳)のスクリーンショット

余談だが、以下に述べる内容は、一連の調査の過程で一時期私が信じたが、現在は却下した仮説である。

ヘーシュ社がナチスドイツに重用された大手製鋼メーカーであったこと、ポーランド国内の強制収容所跡の施設内に「HOESCH.1942.」と刻印されたレールが存在していること、そして早川林鉄の今回探索区間が日米開戦後の建設であること、これらの事実からの連想によって、今回発見されたレールは、太平洋戦争中にレールの不足が深刻であった我が国が、同盟国であるドイツ帝国より輸入したものではないかという仮説を持ったことがある。

この仮説には、言葉はあまり良くないが、戦時中という特殊状況下で建設された林鉄に対する一種のロマンがあり、一時期没頭したのである。
そのため2017年のトークイベント「廃道の日」の席上で今回の探索を発表した際にも、この仮説を披露している。

なお、右の画像はドイツのルール地方の新聞社Ruhr Nachrichtenに2017年当時掲載されていた記事(機械翻訳)のスクリーンショットである。

しかし冷静に考えると、開戦後にドイツからレールを輸入したことは考え難い。
いくら国内のレールが不足していたとしても、地球の裏側にあるドイツからレールという重量物を輸送してくることは現実的ではないし、実際、制空制海権を連合国側に握られていたため、両国間の物資のやり取りは特殊な封鎖突破船や潜水艦によって辛うじて行われていたに過ぎないという史実がある。

ドイツに限らず開戦後に国外からレールを輸入した事例が確認されておらず、現在では上記仮説は成り立たないと考えている。
あくまでもレールは国内で自給しなければならなかったからこそ、民間からの鉄供出が苛烈に行われたし、同じ鉄道世界の中で不要不急とされた路線からレールを争奪することが横行したのであった。


ドイツでのネットサーフィンによって、今回発見のレールが独ヘーシュ社によって製造されたものであると判断できたので、続いては、国内でのヘーシュ社の古レールの発見事例について調べてみた。

前掲した「古レールのページ」には、ドイツから輸入された古レールをまとめたページがある。
同ページに掲載されている発見例は全て普通レール(30kg/mレール以上を普通レール、それ以下を軽レールという)だが、様々なメーカー製のものが見つかっていることが分かる。
だが、ヘーシュ社の刻印を持つものは掲載されていなかった。

また、国内で発見されているドイツ産レールにある刻印の年代に注目すると、1885年から1926年頃のものが発見されており、もし1850年製のドイツレールが国内で発見されれば記録を大幅に塗り替える大変な事実かもしれないと思ったが、「50」の刻印が「1850」年を示しているという証拠がなく、これ以上の手掛りはなかった。


2017年の机上調査で分かったのはここまでであったのだが、なんとタイムリーなことに!! 今年(2025年)夏、「 HOESCH.50. 」という私が見つけたものと全く同じ刻印を有する古レールが、北海道富良野市内に存在していることを知った。

きっかけは、Xで私をフォローして下さっているいいちこ(@i_chiko_br)氏こちらのポストである。
一連の返信のポストにも目を通してみてほしい。

私はまだ現地を確認できていないものの、富良野市のJR根室線山部駅(跡)前に古レール製の街路灯が複数存在しており、その部材のレールが、私が早川で見たものと全く同じ刻印を持つ、おそらくサイズも同一(6kg/m?)の軽レールであった。どうやら同一刻印のレールが1本ではなく複数本存在している模様だ。

これを執筆している時点で既知のヘーシュ社製古レールの国内確認事例は、この富良野市山部駅前の街路灯転用レールと、私が早川林鉄跡カレイ沢で見つけた敷設状態のものの2例だけである。

そしてこの2例とも全く同じ「 HOESCH.50. 」という刻印を有していることが興味深い。
なぜどちらも「50」なのだろう。
製造年だとすると、他の数字のものが見つかっても良い気がするが…、とはいえ製造年説を否定するほどの根拠でもない。

そもそもの話、これらの「 HOESCH.50. 」は、いつどのような経緯で国内に輸入されたレールなのだろうか。
明治期の軽レールの輸入事情については普通レールよりも研究がなされていないようで、私では全貌がまるで分からない。
なので、ここから述べることは私の想像である。

富良野市がある北海道道央地方では、明治12(1879)年に官設幌内炭鉱が道内最初の近代的鉱山として開設されており、合せて日本で3番目に古い官営幌内鉄道が軌間762mmのナローゲージで敷設されている。したがって国内の鉄道先進地といえる。
炭鉱内でも軌道輸送を行っており、明治初期から大量の軽レール需要が生じた地域であったと考えられる。
だが、この時期は軽レールの自給体制はなく、輸入で賄ったはずだ。
その輸入先の一つが、ドイツ鉄鋼大手のヘーシュ社であったとは考えられないだろうか。

一方、大正期以降に山梨県内各地に大量の林用軌道を敷設したのが山梨県林務部である。
この時期にはレールの国内生産がなされており、新たにヘーシュ社から輸入することはなかっただろう。
しかし、昭和16年から18年にかけ早川林鉄の延伸を行う際に、敷設するレールを新品として入手することは容易ではなかったのではないだろうか。

これがもし全国区の国有林森林鉄道であれば、路線数も膨大で、戦時中とはいえ多少のストックレールはあっただろう。
だが、山梨県林務部の規模ではストックが大量にあったとも思われず、鉄材欠乏のおりにレールの入手に窮した。
そこで、政府を通じて? 北海道にあった古い軽レールのストックを融通して貰って早川に敷設したのではないか……という、想像に想像を重ねた説である。


今のところ、調査の成果はここまでだ。

はっきりしているのは、ドイツのヘーシュ社で製造された軽レールが、今回探索区間に敷設されていたこと。

はっきりはしないが想像していることとしては、このレールはもともと明治初期に、北海道(だけではないかも)の炭鉱に敷設するために輸入されたものではなかったかということ。

あと、もしそうであったら夢があるなぁと希望しているのは、レールの「50」という刻印が、1850年製造を示していることだ。
ドイツ国内で見つかっているヘーシュ社製レールは、全てに西暦が4桁で表示されていた。
だがなぜ国内のたった2例の発見例は、2桁で「50」なのか不思議である。
とはいえ、ヘーシュ社の古レールに、製造年を差し置いて他の数字だけを記しているものが見つかっていないのも確かであるし、他社の古レールではしばしば西暦を2桁表示にしたものがあるのも確かである。


 刻印がある軽レール画像の展示室 〜傾向の分析を兼ねて〜
2025/12/21追記

以下に掲載するのは、本項更新時点において、私自身が見つけたり情報提供によって存在を把握した、刻印のある古い軽レールです。
写真があるものは私が把握した順。まだ写真がないものは最後にまとめて。
ここに情報を集約することで、新たな知見が得られることを期待しています。


no.画像 (クリックで画像拡大)刻印内容規格撮影場所撮影日/撮影者解説
01HOESCH.50.6kg山梨県南アルプス市
/早川森林軌道跡
2017/4/14
/私
本編で述べているので解説略。
021230−ILLINOIS-S-USA.6kg群馬県中之条町
/木根宿森林鉄道跡
2013/11/2
/私

これは群馬県の木根宿森林鉄道の奥地、終点近くの線路脇の斜面に脱落しているところを偶然発見した。敷設された状態のレールだと、軽レールは特にフランジが見えづらいので、撤去状態の方が見つけやすい傾向がある。同線は昭和8年より開設され、同23年に全線廃止となっている。

刻印は軽レールとしては異例に長いもので、アメリカのIllinois Steel Companyが製造したレールである。頭の「1230」という数字の意味は、同社仕様書(p.159)によると、レールの寸法である。西暦だったら鎌倉時代の寛喜2年(笑)。

03<S>M9K9kg山梨県山梨市
/西沢森林軌道本谷線跡
2016/5/21
/私

これは恥ずかしながら、撮影当時刻印に存在に気付いておらず、今回改めて過去の写真を確認したところ見つけたものである(なので、早川での刻印発見は自身3度目であったと今さら訂正)。刻印をメインで撮影していない写真から切り出したので画質が悪いが、刻印は短く非常にシンプル。

菱形の中にSが入っているロゴマークは、かつて存在した富士製鐵株式会社のもので、これは国産の軽レールである。「古レールのページ」にも同社製レールのコーナーがある。軽レールも製造していたようだ。ロゴマークに続く「M9K」は9kgレールを示していると判断。

04BURBACH 11A22kg (?)静岡県浜松市
/遠州鉄道浜北駅
2025/1/12
/あつ氏

あつ @Atsuage_dogg02氏からの情報提供による。遠州鉄道奥山線で使われていたとみられる柵転用の軽レール。同線は大正3(1914)年から昭和39(1964)年まで営業していた軌間762mmナローゲージの軽便鉄道である。

刻印はドイツの地名BURBACH(ブールバッハ)のものとみられるが、具体的なメーカー名であるかは不明。後続の「11A」と読める部分も解釈できていない。

05G.H.H. 26kg三重県
/四日市製紙軌道跡
20--/--/--
/ゆたさん氏

ゆたさん @m323f2001氏からの情報提供による。本編で触れたnagajis氏が大台ヶ原で発見した刻印付き軽レールと同一現場の同一品である。

刻印はドイツのグーテ・ホフヌングス製鉄所(GuteHoffnungsHutte)のもので、「古レールのページ」にも同社のコーナーがある。後続の「2」は、レール高2インチ(=5.08cm)を意味しているのかもしれない。

06<S>M9K9kg山梨県早川町
/東京電燈早川第三発電所工事用軌道跡
20--/--/--
/ゆたさん氏

ゆたさん @m323f2001氏からの情報提供による。私が2011年に探索して2013年にレポートをした現場にあったレールに、この刻印を見つけて下さった。(私の目が節穴だということは認めよう)

刻印の内容は、西沢林鉄で見つけた「03」と同一。
本工事用軌道は大正15(1926)年に敷設され、昭和3(1928)年に早くも撤去されている。
一方で西沢林鉄本沢線は昭和27年から30年頃の設置とされているので、だいぶ時期が異なる。中古レールとして流通していた可能性もありそうだ。

07
BICO STEEL.76
/???? STEEL.1882.R.I.?/
(など数種類)
不明秋田県小坂町
/小坂鉄道小坂駅跡
2025/09/--
/スハニ6氏

スハニ6 @dPCp3Xvo2pTUlskからの情報提供による。現在は小坂レールパークとして保存されている小坂鉄道小坂駅跡の信号ワイヤーの支柱に使われているレールとのこと。明治41(1908)年に軌間762mmナローの小坂鉱山専用鉄道として開業した当初の軽レールとみられるとのこと。

数種類の刻印が確認されているとのことだが、その中には画像のように「1882」と製造年の西暦を4桁表示しているものもある。
社名はおそらくアメリカ合衆国ペンシルバニア州にあったベスレヘム鉄鋼社(Bethlehem Iron Co.)ではないだろうか。「古レールのページ」にコーナーがある。

--no photosU.D. 25.9kg埼玉県秩父市
/入川森林軌道跡
----/--/--

博多行き201列車@LwOberfeldwebel氏からの情報提供による。現場の東大演習林入川林用軌道は私も過去2回探索しており、同線の代名詞的存在である敷かれたままのレールを目撃しているが、刻印を確認しそびれている。写真をお持ちの方がいたらご提供をお願いします。

刻印はとても短いが、情報提供者はUnion Dortmundの略ではないかと推測されておられる。古レールのページのドイツ製古レールページにウニオン社のレールをまとめたコーナーがある。Dは所在地のドルトムントを示しており、初期のものとの研究があるという。「25」は西暦なら1925年か1825年だが、レールの断面形状規格の略号など別の意味があるのではないかというのが情報提供者の現在の見立てである。9kg/mレールは高さが2.5インチ(=6.35cm)なので、そのことを表わしているのかも知れない。


上記に加え、ブログ「レイルエンヂニアリング」の著者である大町パルク氏@oomatipalkから、凄まじい数の刻印付き軽レールのコレクションをご披露いただいた。

30kg未満JIS以前の古レールの刻印まとめ その1/その2/その3

氏の広大なコレクションの一端に触れられたことに感謝いたします。
また、大量の事例が確認できたことで、“HOESCH.50.”の意味を解読しようとする私の試みにも目途が付きましたので、当サイトとしての情報募集はここまでとします。
もし、氏のコレクションに掲載がない刻印付き軽レールの情報をお持ちの方がおりましたら、大町パルク氏のXアカウントに連絡を取ってみてはいかがでしょう。私もまた何か発見したら報告しようと思います。




全体を見て気付いたことなど

これまでにお知らせいただいた刻印付き軽レールを見て、はっきり言えることが一つある。

古い軽レールの刻印で、製造年を2桁の西暦で記したことが明らかなものは一つも見つかっていない。

4桁で西暦を表示しているものはあるが、それも普通レールの場合よりは少数で、割合として少ない。
軽レールの刻印は全体的に普通レールより項目が省略されている場合が多いが、製造年は省略されやすい項目だったのかもしれない。
鉱山軌道や森林軌道は短期で撤去されて他の場所に転用される傾向が強いので、製造年はあまり重視されなかったのだろうか。
その一方で優先的に記されていそうなのが、レールのサイズに関する表示である。

このような軽レール刻印の傾向から判断すると、“HOESCH.50.”の「50」は西暦の下2桁ではない可能性が高いだろう。
では何なのかと考えてみると、レール断面の高さのmm表記ではないかという説が上げられる。

現行のJIS E1103改 軽レールの6kgレールの寸法は、高さと底部幅が共に50.80mm(=2インチ)である。
いわゆる古レールの断面はこれとは微妙に異なっていた可能性があるが、しかし経験則として、今まで私が計ったことがある6kgレールの高さは全て5cm前後であった。
右画像は、西沢林鉄でたまたま測った6kgレールであるが、やはり高さ5cmである。

さらに参考までに、AIサービス“Grok”の回答として、「ドイツのFeldbahn(フィールド鉄道/軽量狭軌トロッコ軌道)では、レールの規格を「頭部の高さ(mm単位)」で表す習慣があります。「50」はレール頭部の高さが約50mmを意味します。Hoesch AGは、こうした鉱山用・工場内用軽量レールを大量生産していたメーカーで、刻印の「50」はメーカー名に続くプロファイル番号(頭部高さ50mm)を示しています」との回答(概要)を得ている。(ただしこの回答の根拠は未検証)

“HOESCH.50.”は、1850年製のレールではなさそうだが、他の輸入レールと同様、1880年代から1920年代までに輸入されたものであることに疑いはなく、大変貴重な産業遺産であるといえる。




開戦後にドイツから秘密裏に輸入した日独同盟の証しのようなレールというロマン説は引っ込んだが、遠いドイツの地で製造され、明治初期に我が国の北海道の炭鉱で活躍、その後、南アルプスの“身の毛のよだつ処の沙汰ではない”現場に移されたと思ったら、そこでは崩れ放題のヤラレ放題、ほとんど使われないまま撤去すら出来なくなって令和まで放置され続けている……という現在の仮説も、やはり遠大で壮絶で、遭遇の奇跡に感謝するよりないものである。

完全なことは分からないが、

凄いものなのは絶対に間違いない!

おめでとう! 今回探索最大の発見でした!

(刻印を探していないだけで、多分沢山あるよここには)



読者の皆さまへのお願い
【山さ行がねが】は、読者の皆さまによるサイトへの貢献によって継続運営をしております。私から読者さまにぜひお願いしたい貢献の内容は、以下の3点でございます。一つだけでもサイト運営の大きな助けになります。無理なく出来ることで結構ですので、ご協力をお願いします。

<読者さまにお願いしたい3つのサイト貢献>
1.Amazonなどのサイト内の物販アフィリエイトのご利用
2.「日本の道路122万キロ大研究」や「日本の仰天道路」などの著書のご購読
3.レポートへの感想のコメント投稿や情報のご提供