廃線レポート 早川(野呂川)森林軌道 奥地攻略作戦 第19回

公開日 2026.01.06
探索日 2017.04.14
所在地 山梨県早川町〜南アルプス市

  ※ このレポートは長期連載記事であり、完結までに他のレポートの更新を多く挟む予定ですので、あらかじめご了承ください。


 再びの高巻きは 待望した古道へ 私を誘った


2017/4/14 12:06 《現在地》 

発見するも辿り着けなかった隧道の坑口から30m後退し、直前最後の尾根へ戻ってきた。
先ほど通りかかった際、念のためチェックしていたのだが、この尾根の上方はやや緩やかで、高巻きが出来そうであった。

チェンジ後の画像がその尾根を見上げたもので、ここから矢印のように進むことで隧道前後の地形を回避しようと考えた。
前回の高巻きを終えてから約20分、この間にわずか100mしか前進出来ていない中で再度の高巻きだ。
とてもお辛いが、今はこれがベストの手と信じて、痛む足を励ましながら登り始めた。




12:08

巻き越えようとしている巨大な崖を見下ろしている。
チェンジ後の画像に記したあたりに路盤はあるが、見えない。大体のイメージで表記した。

果たして、閉塞とみられる隧道の裏側は、どうなっているのか。
この隧道は尾根を越える造りではなく、鋭く切り立つ岩肌を迂回するようなものであるから、その長さや、向こう側の状況は想像しずらかった。

そんなこんなで、ここからはまた黙々と斜面を這い上りましての――8分後。



12:16

路盤から正味10分登ったところで、斜面を横断する1本の山道と遭遇した。

それは明らかに現役の道ではなさそうだったが、軌道跡の周辺で他の道と遭遇すること自体が、2日間を通じてレアな出来事であった。

そして、これは初めて見る道だったが、正体に心当たりがあった。それどころか、出現を心中で暗に期待し続けていたものだった。

この道の正体はおそらく、夜叉神峠の古道である。

そう考える根拠は以下に述べる。



これは現在の地形図と昭和4(1929)年版の旧地形図の比較である。

旧地形図には、「現在地」附近を東西に横断する1本の徒歩道が描かれている。
その一方は、「夜叉神峠」を越えて芦安へ通じ、さらに甲府盆地へと伸びていた。
また他方は、「鮎差」(あいさし)の地名が注記されている野呂川(早川本流)の川べりを経て、その源流域まで伸びていた。
この道こそ、早川林用軌道や現代の車道が整備される遙か以前から、野呂川および南アルプスの緒峰と甲府盆地の間を結んでいた、夜叉神峠の古道である。

昭和27(1952)年に野呂川林道として夜叉神隧道が貫通し、その後さらに林道が野呂川の源流まで延伸されたことで、本来なら夜叉神峠の古道は廃れるはずだったろう。
しかし、南アルプス最良の展望台として多くのアルピニストに愛されていた峠の前後(林道よりも上部)だけは、登山道やハイキングコースとしてその後も維持された。

“維持されなかった区間”が、軌道跡と交差している。
存在していた期間が短い軌道は一度も地形図に描かれなかったが、この古道は軌道があった時期の前後もずっと継続して描かれていたから、軌道と交差していることは確実に予測できた。
故に今回この道は、軌道跡への便利なアプローチルートになることが期待されていた。

たまたま今朝は、探索をカレイ沢から始めたい意向から、これを進入路として使わなかったが(カレイ沢への進入に失敗したら使うつもりだった)、ここで出会うことが出来たので、以後は最大限活用したい。
具体的には、今からこの道を辿って高巻きを全うする。また後の帰路においても、これを逆に辿って林道へ戻ることを考えている。
私にとってこの古道は、本区間の探索において唯一、助けになることが期待できた存在であったから、ちょうど高巻き中の辛〜いところで遭遇できて、嬉しかった。



12:21

一休みしてから、“鮎差古道”(以下このように呼ぶ)を東へ歩き始めた。

この古道は最後まで車道にはならなかったが、泡沫に終わった軌道とは比べものにならないほど長い活躍の歴史を持つ道だ。
芦安の杣人たちは伝統的にこの道から野呂川の奥地へ分け入り、伐り出した原木を現地で木炭や板材へ加工して甲府盆地へ売り出していたし(だからこそ野呂川の上流部は昔から芦安の領分だった)、大正以降に南アルプスが登山の対象として知られるようになると、日本第二位の高峰を極める古典的かつ主要な登山ルートにもなっていった。

そんな頼れる道との遭遇地点から数分間、緩やかな下りのトラバースを続けると、この写真の尾根に達した。
もう既に隧道の上部は巻き終わっているはずで、再び下っていきたいところであったが、道はその期待にも直ちに応えてくれた。
尾根を過ぎると堰を切ったように急下降が始まったのである。



12:23

道は岩がちな尾根に絡みながら、ジグザグの電光形に下って行く。
一連の高巻きによって軌道跡から50m登っていたが、それを一気に放出する勢いだ。

いや、それどころの話ではない。
この道にとって、軌道など後付けの存在でしかなかった。
本来、この電光形のジグザグは、このまま400mも下の野呂川河床まで下りていく。
ちょうどこの辺りは鮎差から夜叉神峠の頂まで800mという大登坂の中間であり、軌道はそのような場所でひっそりと数年間稼働したに過ぎない。



12:26

この斜面は恐ろしい急傾斜だが、良く根張りをした老獪な樹木がほどよく生えているおかげで、地表は荒れていない。
おかげで電光形の古い道形がよく保存されていた。
改めて、この道こそが本区間軌道跡への最も理想的なアプローチだと感じたが、この事実も自身で開拓したと思えるほど、探索当時は軌道だけでなく、この古道の情報もまた少なかったのである。



12:28 《現在地》

ぃよっしゃぁあっ!

22分ぶりに、軌道跡との再会を果たした。

こうして古道と交差している場面を見ると、真っ当な軌道跡のように見えてくる。
やはり腐っても車道は車道。平らであり、道幅も歩道とは比べものにならない。
頼りになりそうな気がする。   ……絶対に騙しだろうけど。

というわけで、これにて鮎差古道の下降は終了。



写真は、古道との交点から、迂回した軌道跡を見ている。
GPSによると、一連の高巻きによって迂回された軌道跡の長さは150mほどのようだ。
まずはその残りをやっつけよう。
この150mの間には、少なくとも1本の隧道があるはずだ。

まだ見ぬ終点側坑口が、ぽっかり口を開けて待っていてくれることを、切に期待している!



歩き出すときに、早速レールを見つけた。
古道との交差地点も、レールは当然のように敷かれっぱなしであった。
ここに至っても、撤去は全く行われた気配がなかった。

前述したように、この道は古い登山道でもあった。昭和37(1962)年に野呂川林道(現在の南アルプス林道)が広河原まで開通し、そこに新たな登山基地が作られるまで、この道は登山者にもよく歩かれたという。したがって、当時の登山者たちは、ここにレールが敷かれたままの今より遙かに鮮明な軌道跡を見たはずで、中には突入してみた人もいたと思う。
そんな楽しい体験をした登山者は、きっとまだ元気で存命であろうから、体験談や写真などお持ちでしたら、ぜひご一報ください。



12:32

逆走開始から20m、古道が絡んで下りてきた尾根を小さな切り通しで回り込むと……

そこに隧道はなく、全体に斜面化しつつある軌道跡が、さらに50mくらい先までは見えた。

あの隧道、相当に短いらしい。



12:33 《現在地》

こっちも無理ーーッ!

もう駄目だ。 前も後も崩れすぎ。 近づける余地がない。

昨日と今日と2日間同じ軌道の跡を歩いているが、やはり今日の区間というか、このカレイ沢の周辺は、昨日の区間よりも全体的に“悪い”んだなー。
昨日はなんだかんだ言って、突破出来なかったのはドノコヤ沢だけだった。あそこは迂回したが、他はそれほど大きな迂回はしていない。
今日はまだ半日だが、既に何回も突破出来ない崩壊に進路を妨げられている。

悪いとしか言いようが無い。



カメラのズームを使って、辿り着けなかった領域を観察してみると、おそらく50mほど先に、土砂に埋れた坑口があるように見えた。

地形的にも距離的にも、あそこが坑口跡である蓋然性は高いと思う。
やはり洞内は閉塞しており、その原因は終点側坑口の埋没であると考える。
一応、隧道の存在は確定できたし、目視は通ったので、未知のままの残部は少ないが、開口を確認しながら一歩も立ち入れない隧道を、ここに認めざるを得なくなった。

悔しいけれど、早川林鉄は既に私の技量を遙かに超えて、悪化している。

踏破不可能は、どんどん受け入れていくしかないぞ!



写真は、この再度の断念地点から、眼下のカレイ沢を見下ろしている。

既に谷底までの比高は150mを越えており、両岸の山肌は崖に等しい険しさだ。
ちょうど対岸の20mほど低い位置を今朝歩いた軌道跡が横切っており、そこには“珠玉の2連隧道”があったが、残念ながらラインは判別できなかった。
それでも、どんなに険しい場所を通っていたのかは、十分に理解できた。
あちらもこちらもお互い様に、死ぬほど険しい。保守性が終わってる。こんなところに道を造って何を考えてるんだって言いたくなるレベル。



12:35

再び転進して、古道交点より、終点並びに観音経方向へ前進を再開する。

しかし、もうそろそろ私がヤバいんで、あと一発大きめの高巻きを食らったら、そこで今日は諦めようと思う。



 “鮎差古道” と 野呂川の山稼業 (机上調査編)


今回は、“鮎差古道”の歴史についてのミニ机上調査編です。 探索の続きが待ちきれない方は、次回(まだ書いてないよ!)までワープ!




@
大正13(1924)年
A
昭和18(1943)年
B
昭和28(1953)年
C
昭和38(1963)年

“鮎差古道”と早川森林軌道の関係性を一言で表わすなら、野呂川上流部での林業遂行のために切り開かれた道としての新旧関係である。
そのため、古道が利用された歴史を知ることで、軌道が開設された背景を知ることが出来るのではないかと期待した。

右図は、導入机上調査編でも見ていただいた、早川流域における交通路の変遷を描いた図からの抜粋であり、青い破線で示した位置に、夜叉神峠越しに野呂川流域と甲府盆地を結ぶ古道があった。その変遷を確認しておこう。

@大正13(1924)年版は、早川森林軌道開設以前の状況である。
この時点では、奈良田より上流の早川沿いには道が無く、その源流部の呼び名である野呂川一帯は、同じ川でありながら遠い存在であった。歴史的にも野呂川流域は芦安村の領分であり、同村と野呂川を最短距離で結ぶ夜叉神峠越えの道が古くより存在した。これを私は“鮎差古道”と表現しているが、正式な道路名は不明である。

A昭和18(1943)年版は、この年に早川森林軌道が全線開通した。従来の歩道にかわる近代的運材手段として大いに期待されたはずだが、実際には相次ぐ崩壊のため思うように活用されず、昭和20年には敢えなく奈良田以北が廃止されている。

B昭和28(1953)年版は、軌道が全線廃止された後の状況を示している。再び奈良田以北の交通事情は前時代へ立ち返ったが、次第に南アルプスが登山者によって知られるようになると、夜叉神峠の道は、その主要な玄関口として新たな賑わいを迎えるようになった。

C昭和38(1963)年版は、昭和27(1952)年から山梨県が進めた野呂川流域総合開発の2本柱である道路、野呂川林道(現南アルプス林道)と電源開発道路(現県道南アルプス公園線)が、野呂川上流の広河原にて接続され、巨大な周遊道路が完成した翌年の状況を描いている。
広河原が新たな南アルプス諸山の登山基地となったことで、林業においても、登山においても、林道より下にある古道は役割を失い廃道化した。

以上のような流れである。




次に、いくつかの文献から関係する内容を拾ってみよう。

まずは、平成6(1994)年に芦安村が発行した『芦安村誌』にある、村内の地名由来についての記述から。

鮎差(あいさし) 
鮎差の地域は古くから芦安村民の木材加工作業の中心地で昭和初期まで続いた。東電や県営の発電所のないころには、富士川の鮎がここまで差し(=入って)てきたことから「鮎差」の地名がつけられたといわれる。

『芦安村誌』より

ついでに夜叉神峠の由来も……。

夜叉神峠 
伝承によると、附近に強大な夜叉神が住み、雲を集めて大雨を降らせ、山をけずって土砂を流し、時には雲を散らして旱魃の害をもたらすなど大被害を与えたので、人々は夜叉神のたたりを恐れ、御勅使川渓谷が展望できる峠に祠を建てて夜叉神を祀ったが、それ以来夜叉神のたたりはなくなり、村は平和になった。それでこの峠を「夜叉神峠」と呼んでいる。

『芦安村誌』より

……とのことであって、糸魚川静岡構造線という地中の巨大な断層帯を知らなかった昔の人々は、過剰に繰り返される土砂災害を荒神の祟りと考えたのではないだろうか。そして彼らの信心のおかげで、村里がある御勅使(みだい)川の谷は平和になったが、峠の裏側の野呂川は何時までも荒れて、苦心して作り出した軌道もあっという間に失われた。こうしたことも科学的に考えれば、御勅使川は構造線からやや遠く、野呂川は近接していたというファクトに帰着するのかもしれない。


次も同書より、野呂川奥地の初期の山林開発についての記述を抜粋して引用する。

奥地林の伐採 

野呂川流域の広大な山地はモミ、ツガなどの針葉樹やブナ、カンバなどの広葉樹の原生林でおおわれ、県下最大の森林と水資源の宝庫である。(中略)
日露戦争後の日本の経済発展とともに諸工業が発達し、駿河湾沿岸の製紙工業も盛んになった。その原料木材が富士川の水運を利用して筏で、あるいは富士身延鉄道が大正4年富士・芝川間、大正9年芝川・身延間が開通して鉄道で輸送されるようになると、原料材の需要も多くなった。それで製紙会社や木材商との契約により奥地林が伐り出されて、野呂川・早川を筏で下り、飯富、波高島まで輸送されるようになった。

八十八夜も過ぎた5月初旬、奥地の山に入る準備が完了すると、組の者が庄屋(組頭)の家に集まって入山祝の山の神祭をして、グループで(15人から20人くらい)夜叉神峠を越えて野呂川流域へ入山するのである。そこには泊り小屋が建てられ、生活物資も運ばれてくる。(中略)

伐採の仕事は3ヶ月から4ヶ月かかった。カンバ沢附近だけでなく、野呂川の奥地の北沢、小仙丈谷、大仙丈谷までも入り込んで伐採した。伐った材木は山の斜面に木を樋状に並べ、その上に材木を転がして山の下に運搬した。これを修羅出しといった。そして川を堰き止めて貯水しておき、堰を切って貯木を一気に流す鉄砲出し(管流し)が行われていた。あまり傾斜がないところや平坦地では木馬曳きが行われた。こうして集められた材木を野呂川の本流に入れるのであるが、これをドレイという。そして野呂川から早川を流送するのである。(中略)

奥地では製紙会社の下請けの伐木や炭材だけでなく、欅、桂、桧、栂、白桧、唐松などの良材も多く、これを伐ってカンバ沢に搬出し、木挽きによる製材も行われ、材木商に売り渡していた。

『芦安村誌』より

このように、明治中頃から昭和初期にかけては、夜叉神峠を越えて野呂川奥地に分け入った芦安村の人々によって、修羅出し、鉄砲出し、木馬曳き、管流しといった原始的手法による林業が行われていた。

明治25年ごろ鮎差に水力で丸鋸製材所が設けられ、製品は、夜叉神峠を越えて担ぎだされたが、その後米材の輸入が盛んとなってきたので、明治35年ごろ中止された。(中略)
明治35年ごろ四日市製紙会社は、21林班〜31林班にわたり、シラベ、トウヒの胸高13cm以上のものを伐採し、明治43年まで事業を継続した。

『日本の森林資源 : その現状と将来の見通し 上』より

上記は明治期のまだ野呂川一帯が官林(御料林)だった時代の開発である。
一帯の官林は、明治44(1911)年に大水害への復興支援として山梨県に下げ渡され、県は恩賜県有林として管理するようになった。

また流域の山林へは、伐出のほか次に述べるような炭焼きを目的とした入山も多かったという。

炭焼き 

炭焼きも村人の重要な収入源であった。第一次世界大戦後の日本経済の発展とともに生活も向上して、木炭の需要も多くなり、芦安村の重要な産業となった。大正初期から昭和10年代には炭焼き場が野呂川沿いに焼山、ショネ島、荒川口、鮎差、カンバ沢などの奥地にあった。宿泊小屋が30数棟も長屋のように建ち並び、それと並列して炭焼小屋が建てられ、山奥に一集落ができたようだったという。
宿泊小屋は掘立小屋で2坪か3坪のものである。女の人たちはこれら山で働く人たちに食料や日用品を届け、帰りには炭などの生産加工品を「背負い子」で運んだ。(中略)

昭和13年ごろから日華事変が拡大して薪炭の増産が叫ばれ、組合を結成して増産に励み、これを供出した。(中略)
しかし昭和30年代から日本経済の復興、高度成長と共に生活も向上し、燃料が電気やガスに転換するようになったため、木炭の需要は急速に減退し、製炭業も衰退の一途をたどった。

『芦安村誌』より

『芦安村誌』より

こうした資料に目を向けると、軌道開設以前の野呂川の奥地は、私の印象に反して、千古不伐の原生林だけではなかったことが分かる。

芦安の人々は、明治以来より、男も女もみな、夜叉神の峠を越えて野呂川の流域へ分け入って仕事をしていた。
地形を知り尽した人々が大勢いたことだろう。
こうした豊富な知見が、戦時という緊急時において、無謀とも思えるような軌道の開設へ結実する下地となったように思われる。(それはやはり無謀な結末となったが…)

右の写真は、上記引用では「掘立小屋」と表現されている、鮎差にあった宿泊小屋の様子である。撮影は昭和7年で、写っている人々は当時の名だたる登山家と地元ガイドである。


野呂川源流への最初期の入山者は地元の山稼人や猟師たちであったが、日本第二位の高峰たる北岳をはじめ複数の3000m峰を擁する南アルプスの景観は、開拓精神溢れる登山家たちを早晩に魅了するのであった。
続いては、登山シーンにおける古道の活躍を述べる。

南アルプス登山史黎明期における最大のエポックは、イギリス人宣教師で登山家のウォルター・ウェストンによる探索である。明治24(1891)年に彼はガイドを伴って夜叉神峠へ登り、明治29(1896)年の著書『日本アルプス 登山と探検』にて、その頂上からの展望を大絶賛している。
日本の山岳の魅力を世界に発信する役割を果たした同書は、「日本アルプス」(現在の「北アルプス」「中央アルプス」「南アルプス」を包含した呼び名)の名付けのもとにもなった。

さらに彼は、明治35(1902)年8月に再び夜叉神峠から北岳まで登頂し、大正7(1918)年の著書『極東の遊歩場(日本アルプス再訪)』にて、従来は赤石山脈などいろいろな名で呼ばれていた南アルプスを、『日本南アルプス』の名で世界に知らしめることになった。
こうした黎明期を経て、未だ処女的魅力を失わない南アルプスを目指す登山者は次第に増えていった。

昭和5年9月、早稲田大学の小林高行と南嶺会の百瀬舜太カ・鈴木喜太カは、案内人・青木正一氏を伴い、芦安村から夜叉神峠を越え、鮎差から荒川・北沢をさかのぼり、白根三山へ登山。

『芦安村誌』より

これは数ある登山記録の一例であるが、越えるべき峠と登るべき山に挟まれた谷底の鮎差は、屈強な登山者たちの足休めの場としても活躍した。
なお、彼らの一行は、芦安→夜叉神峠→鮎差→北岳の往復に、9月13日から21日までの9日間を費やしている。
近代的交通手段から見放されていた当時の南アルプスが、如何に“遠い”山々であったかが窺えよう。

山を愛した哲学者にして詩人の串田孫一がまとめた随筆集『忘れえぬ山 第3巻』に収録された、冥王星の和訳者としても知られる野尻抱影が昭和はじめ頃に白根三山へ入ったときの山行記「野呂川谷の樵夫達」は、50年ほども昔を振り返って書かれたものだが、夜叉神峠の上り下りで大きな瓶や、十字架のような背負子を負った村の女性たちとたびたび行き交い言葉を交わしている描写など、当時の峠や鮎差の様子が描写されており、思いのほか賑やかな山であったと驚かされる。


最後に、昭和30年代からの登山ブームに乗って各出版社より発行された古い登山ガイド書に登場する鮎差古道の描写をいくつか紹介しよう。

まずは特に古いものとして、朋文堂が発行した雑誌『山』の昭和25年8月号に掲載された「北岳への最短ヴァリエーションルート」という記事だ。
予め書いてしまうが、これは現時点で私が把握しているものとしては唯一、今回探索の軌道跡を登山道としてガイドした内容を含む資料である。
非常に貴重な内容であると思う。

早川林道 ― 野呂川遡行 ― 広河原小舎

芦安村を通過(中略)夜叉神峠迄約2時間途中間違え易い分岐が2つあるから充分に五万図副に注意する様(御紹介あれば略図を返信します)夜叉神峠に立つといきなり横っ面をびーんと張り手でたたかれる感じで白峰三山が眼の中に飛びこんでくる。(中略)

ここで右に辻山への踏跡があるが真直ぐに野呂川への下降路を下ると約20分で軌道に出る、そのままこれを横切って尚も真直ぐに下れば鮎差へ下って荒川谷の蝮平小屋へ着くのであるが、この軌道がいわゆる早川林道であるから、これを右に忠実に辿るのである、この軌道は芦安鉱山の北1744のピークから始まり、高谷山―夜叉神峠―辻山の西斜面を殆んど等高線に等しい高度で辻山から野呂川に落ち込んでいる支稜の末端まで続いているのだが、終戦と同時に使用中止となりそのために到る所で山崩れの土砂の押出しで荒廃しきっている。

軌道沿いのルートは始めは幅広く歩き易いが、細い小沢を一本横切ると隧

雑誌『山(昭和25年8月号)』より

!!! ストップ! STOP!!

この先も軌道跡を歩行するガイドの記述が続くのであるが、もろに未探索部分の先バレになるので、また後の機会に続きを紹介しようと思う。
探索当時の私は知らなかった文献であるので、ご了承を。

それはともかく、このように昭和25年当時のとても古い登山ガイドだと、まだ廃止から5年くらいしか経っていなかった軌道跡が登山コースとして紹介されていたのである。
が、既に、「到る所で山崩れの土砂の押出しで荒廃しきっている」というのは、ヤバいって思う……。
現役時代から終わってたんだろってね……。 こわすぎ〜〜。



『アルプスと高原』(昭和32年発行)より

次に紹介するのは、前記誌料から7年後の昭和32(1957)年に日本交通公社が発行した当時の定番登山ガイド『アルプスと高原』の記述である。

鮎差への道は峠から斜め右の道を下るのだ。最初のうちは尾根の腹を捲いてあまり急な下りではないが、それもしだいに急になり、鮎差への途中にある早川軌道跡に至っている。軌道に出ると、鮎差への分岐点が眼につく。ここから鮎差までは急坂のいやな下り、重荷の時とか雨の後など、すべらぬよう注意してほしい。鮎差は大きな河原で、キャンプ地として良い所だが、コース上その位置に属してないからキャンプをするような人はほとんどいない。

『アルプスと高原』(昭和32年発行)より

峠から鮎差へ下る途中で軌道跡と出会うことが述べられているものの、そこを歩くという内容はなく、添付されたマップにも描かれていない。
その一方で、当時既に建設が進められていた野呂川林道が「道路予定」として描かれている(夜叉神隧道は既に開通済み)。
また、鮎差には既に小屋などの施設は無くなっていたようである。

続いては、昭和36(1961)年に山と溪谷社から発行された定番ガイド『アルパインガイド 南アルプス北部』の記述である。

(かつて)芦安まで行くバスは源止まりで、そこから夜叉神峠を越えて第一日目は野呂川の鮎差までしか行けなかった。それが今日では、自動車が野呂川林道を走るようになり、荒川小屋の徒歩一時間手前の地点まで利用できるようになって、以前まる一日歩いたところがたった一時間ですむようになった。これでは猫も杓子も北岳へと行きたくなるわけだ。(中略)

夜叉神トンネルの手前に夜叉神荘という旅館兼休憩所があるが、ここから右手斜面に夜叉神峠への道が登っている。夜叉神トンネルをぬけ、さらに観音経トンネルをくぐる。この観音経トンネルの手前から左手に野呂川鮎差へくだる旧道が林道を横切っているが、現在これを利用する者はほとんどない。もう廃道も同じだ。

『アルパインガイド 南アルプス北部』(昭和36年発行)より

既に鮎差へと下る道は「旧道」と表現され、「廃道も同じ」と評されている。
軌道跡への言及も消えた。

そしてこの発行の翌年、野呂川林道が広河原まで辿り着くと、以後のガイド本からは鮎差を通る旧コースの紹介は見当らなくなる。
それと共に軌道跡の存在もますます忘れ去られていくのである。


以上、本編では脇役であった“鮎差古道”と、野呂川流域の昔の生業に関する、ミニ机上調査編でした。



 いつ以来ぶりかの平和な路盤


12:37 《現在地》 

おおお! いつ以来ぶりかの平和な路盤だ!!
昨日は何ヶ所かこういう場所を歩いているが、今日は初めてな気がする、この穏やかさ。
“鮎差古道”との交点である尾根を境に、その上流側の軌道跡は、快活な樹林帯をゆく直線的トラバース路となった。
ここにおいて路盤はようやくカレイ沢への迂回を脱して、野呂川本流の大斜面へ戻った。カレイ沢渡河地点からおおよそ500mの位置である。

道の立地と進行方向が共に変化したことで、景色も変わった。
眼下の野呂川谷を従えて、向こうに恐ろしい比高をもって立つ白い稜線には、高峻の気候を物語るような雪旗が棚引いていた。
かつて無数の登山家たちが、この景色に夢を抱き、あるいは野望を燃やし、失った仲間を想った者もあったろう。
しかし、そんな血の如き人情が通った道は、ここではない。
私の道は空虚であった。そのことを再び思い知るまで、大した暇は与えられなかった。



12:40

3分間、良い気持ちで歩いた先でカーブを曲がると、またしても“この道らしい”険悪な場面が現われた。
路盤の遙か上方より起り、おそらく下方に至っては野呂川の谷底まで延びていそうな典型的なシュート(登山用語としてはルンゼ、また古い日本語ではナギ)の崩壊地形である。
午前中からたびたび私を苦しめた地形が、ここでも立ちはだかる。



11:57 

目の前のシュートは正面から越えられそうな気がするが、その先の地形が気になる。
向こう側に連なる斜面を見渡すと、決定的な崩壊地のようなものは見えなかったが、まだ他にも同様の崩壊地がありそうな感じがした。

そして、今見えている地続きである斜面の果てが、青い針葉樹を多く乗せたよく目立つ尾根であった。
そこはカレイ沢と、次に待ち受けるアザミ沢の分水嶺である。
アザミ沢こそ、名にし負う身の毛よだちのメッカ(?)たる“観音経”を擁する谷であり、既存情報の未知領域を切り開こうとする此度の探索における、ひとつの重要な到達目標だった。



12:42

前述のシュートを横断する局面だ。
幅は10mほど。あまり急ではなく、助かった。
向こう岸に、切断されたレールの先端が2本並んで突き出していた。
写真は、そのレールを真っ正面から撮影したために、斜面に伸びた影だけが映っている。



12:44

対岸の路盤だが、予想以上に状況が悪い。
路盤の全体が斜面化しており、その範囲を外れると崖である。
特に下は険しく切り立っており、怖気のする高度感だった。
斜面化した路盤には些かも踏み跡がなく、硬く締まった土の上に乾いた落葉が乗っているという、滑落と足首の捻挫を誘う嫌らしい斜面だった。

そんな斜面が、1分半ほど続いた先に……



12:45

やべぇぞ……。

第一印象に、「観念」という不吉な二文字も見え隠れする、そんな新たなシュートが現われた。

チェンジ後の画像に、崩壊地前後の路盤をハイライトしている。
先ほどより規模の大きな崩壊地で、特に問題と思われたのが、路盤に対する抉れの“深さ”であった。
斜面が深く抉られていて、路盤との段差が大きく、かつ急峻であったのだ。



シュート越しに見る、向こう岸の様子。
矢印の位置にレールの切れ端が突出している。
向こうの路盤も埋れかけており、越えたとしても、その先も崖っぽい。ここではむしろ明るさが怖い。
路盤の上も下も、恐ろしく切り立っていそうだ。
仮に、目の前のシュートを再度の高巻きで越すことが出来たとしても、そこから路盤の続きへ下降できるのか、とても怪しく思える。

しかし、向こう岸のことよりも、目下最大の問題は――



次の一歩目をどうするかだった。

2本のレールが吸い込まれるように消えていく、巨大で急峻なシュート。
路盤の端とシュート内の斜面を隔てる、高さ1.5mのほぼ垂直に近い岩崖があった。
上り下りが出来ない高さではないと思ったが、そこへ踏み込むことは、心理的なハードルが高かった。
万が一にも戻ってこられなくなるような一方通行の前進は、絶対に許されない場面だ。
そのことも、崖を下りて進むことを躊躇わせた。



今日幾度目かも分からない、意を決し、



下りた。

背丈ほどの段差に過ぎなかったが、下りたら最後、戻ってこられなくなるのではないかという恐怖を踏越えるのは、大変だった。



地の底まで見通せるような斜面を摺り足で横断し……



12:48

突破したッッ!!

内心、ここで高巻きになったら引き返そうとも思っていたが、そうならずに越えてしまった。

前進は嬉しい半面で、また一つ生還へのハードルを上げてしまったという、明確な恐怖の上積みもあった。



さて、越えたからには、次の進行だ。

一見して、これまた嫌らしい斜面化ロード。逃げ場のない、崖の道。

でも、おそらく写真から受ける印象としては、カーブの見えざる向こう側が次なる進退の焦点だと思った人が多いと思う。



それは誤りである。




12:49

ここがマジ怖いッ!

カーブの手前にある、この狭い、狭すぎる ステップ。

硬く締まった土の斜面と化した狭い路盤は急傾斜で、足を乗せても滑らないと確証を持てるのは、法面の際に残る幅30cmほどの“木の根道”のステップだけ。
だが、そこまで法面に寄ると、垂直で平滑で全く手掛りにならないその壁は、腰と背と首に負った荷に干渉して私を崖側に押し出そうとしてくるのだ。
全ての荷を棄てていきたい気持ちになるが、もちろんそんなことはできない。

加えてここには、残虐な“罠”まで仕掛けてあった。
写真左に見える太めの樹木は、崖にぶら下がっている極めて不安定な倒木だった。
軽く触れると、ぶらんぶらんと重量感のある振り子運動を見せた。
うっかりこれを崖側の支えのように勘違いして体重で押したら、私は死んだに違いない。
そうでなくても、横断中に頭上へ落ちてきそうな気がして恐ろしく、先に落としたくて故意に揺すったが、しばらくやっても落ちてこず、そのうちに狭い斜面で自分の方が揺れているような嫌な錯覚を覚えたので、諦めた。

度重なる緊張で、神経が衰弱してきているのが自分でもよく分かった。

すごく心を揺さぶられる場面だった。

これを、往復……






12:51 《現在地》 

越えた。

進退について本気で逡巡したが、ここは越えた。

でもやっぱり少し後悔してるかも……

復路では、斜面を下りながら激狭ステップに入らねばならなかったから……。



同地点、進行方向の眺め。

当面の目標物と心に置いていたカレイ・アザミ分水の尾根が間近に見えた。

それは私が既知とする世界の外縁に立つ壁のようで、そこを越えて進むことは、特別に意義あることのように思われた。