※ このレポートは長期連載記事であり、完結までに他のレポートの更新を多く挟む予定ですので、あらかじめご了承ください。
2017/4/14 14:05 《現在地》
あ〜〜… 私はいま、本当に安堵している。
絶死の撤退を開始してから、約40分が経過した。
この間、一切の寄り道も近道もなく、往路で越えた難所の数々をただ黙々と逆走していた。
撤退の30分後に、軌道跡と“鮎差古道”の交点まで帰還することに成功。(往路で50分かけた区間を、迷いのない復路は30分で戻った)
この時点で、朝の6時台から半日間触れ続けていた命の切迫感から、ようやく解放された実感があった。
そこからさらに“鮎差古道”を峠方向へ約10分歩いたのが、現在地である。
既に往路で歩いた区間を終え、私が初めて歩く区間に差し掛かっている。
秦野氏が2005年に軌道跡への往復に歩いた道を、私は復路限定で辿っている。
重い切迫感から解放されてから見る古道の風景は、絶品であった。(写真は振り返って撮影)
このような道は、今回の機会とは別に改めて歩いてみたい気持ちになったが、残念ながらまだ実現は出来ていない。
ちなみに、この写真に写っている金属製の四角い篭のようなものは、初めて見るものだ。
登山道時代に使われていたゴミ箱とかだろうか(今では登山道にゴミ箱などまず見ないが)。
14:19
登山道としても、山仕事道としても、昭和30年代にはほぼ役目を終えて、地形図やガイドブックからも削除されてしまったこの古道だが、下草のない穏やかな疎林の道は完全に保存されており、落葉が所々厚く堆積していること以外、現役の道さながらであった。
成果の多い生還という最高に心地よい高揚感から、一時的に疲労感を忘れて快調に歩き進めた。
とやがて眼下の斜面の下に舗装路が見えてきた。
今朝以来の南アルプス林道との再開であった。
14:20
古道を忠実に辿っても、もう少しで夜叉神峠の現役である登山道と合流するが、そのわずかな迂回が待ちきれず、すぐに林道へ向かって斜面を下った。
まもなく林道に辿り着ける。
チェンジ後の画像は、その途中で真っ正面に見えた山の景色だ。
矢印の位置に、今朝の探索の始まりの地ともいえる、夜叉神隧道の坑口がある。
あそこから直ちにカレイ沢を約70m下りたところに、レールの残る軌道跡を発見したのであった。
約8時間後、夜叉神隧道から約400mだけ進んだ林道上に戻ってきた。とても長い、命がけの“寄り道”だった。
14:21 《現在地》
道なき斜面を直降していくと、林道にぶつかる直前で急な木造階段の道に出会い、最後は一緒になって下った。
そして無事この写真の地点、「夜叉神峠西登山口」バス停前で林道に到着した。
ここからは、冬季閉鎖中の林道歩きを行う。
まずは、この写真の左に見切れている――
14:23
観音経隧道へ突入!
夜叉神隧道のように古風なアーチ造りの意匠こそないものの、この隧道も古さは大して変わらず、夜叉神から1年遅れの昭和31年完成である。
坑門に掲げられた古風な右書きの扁額には、夜叉神と全く同じ難解な筆跡で、「観音経隧道」の文字が収まっていた。
もちろん揮毫者も同じ、全国一トンネル扁額に多く名前を刻まれし男、天野久知事である。
観音経隧道は、全長390m。
南アルプス林道にあるトンネルの中では3本目に長く、夜叉神隧道と並んで地質の悪さに苦しめられた、世紀の難工トンネルとして知られている。
昭和31年の完成当時からおそらく打ち替えられていない、ひびの目立つ埃まみれの壁を、ヘッドライトを点灯させて、コツコツと歩き続けた。
コツコツコツコツ……。
転落もない、落石もない、なんて平和な世界だろうか。
足が痛いが、苦しみはそれだけだ。もう死ぬことがない。
8分間の暗転によるステージチェンジ。
あるいは、やや長いロード。
14:31
やがて、静かに地表が接近。
この先、地上に出れば、
直ちに観音経の早川林鉄軌道跡である。

繰り返す。
南ア林道観音経隧道の北口は、軌道跡との交差点である。
私が2011年1月3日13:41に始めた一連の軌道跡は、ここで初めて“現役である道路”と接触し、かつその一部となることを許される。
実に軌道跡ベースで13.5kmぶりの“到達地”といえる場所。
14:31 《現在地》
観音経隧道を出ると、間髪なくアザミ沢を渡るアザミ沢橋がある。
そして、橋の向こうも直ちに次のトンネルだ。
こんなせせこましい場所に、長旅に果てた軌道跡が、やって来ている。 …という。
……『トワイラ〜』は読んできたが、自分で見るのは初めてだから、正直まだ実感が湧かない。
本当に、辿り着けたというのか。
コンニチワ。
裏口より御入場、本邦“身の毛よだち”のメッカへ……。
14:32 《現在地》
南アルプス林道、観音経隧道北口前。
野呂川支流アザミ沢上部の海抜1390m附近にあるこの一帯は、単に観音経、または観音経渓谷と呼ばれている景勝の地である。
そしてこの場所こそ、野呂川流域の奥地開発という同じ使命を帯びながら、それぞれ異なる起点から伸ばされた、早川(野呂川)森林軌道と南アルプス林道(旧称、野呂川林道)という、同時には存在しなかった二世代の道が、初めて接触する地点であった。
この地点より奥の林道は、当分先まで、先に廃止された林鉄の跡を活用して整備されたものなのである。
この地点が、早川林鉄にとってどのような位置であったかを計算してみると、起点の新倉(現早川町新倉、海抜約500m)からおおよそ34kmの地点であり、終点の深沢尾根(海抜1540m)までは残り約5kmの地点だった。
また今回の探索の起点である奈良田橋(海抜840m)からの距離は、13.5kmと計算される。
写真正面に見えるのが観音経隧道の北口であり、その右の残雪の山の後ろに小さく口を開けているのが林鉄の隧道である。
この瞬間、私はようやく『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』の紹介区間内へと辿り着いたのであって、以後は大いに頼りにさせてもらう。
同じ開発の目的地と、同じ事業主体でありながら、ここまでは遠く離れていた林道と軌道が、初めて出会う。
どちらにとってもトンネルを出た瞬間の“出会い頭”の接触であり、もしベタなラブコメだったら両者は確実に結ばれていたが、残念ながら“軌道ちゃん”は既に死んでいたので“道”との遭遇は出来なかった。この交差点に踏切のような線路と道路の交差施設があったことはない。
そして、坑門の外観について、私に(だけ)は分かることがある。これは断言しても良い。
この軌道のトンネルの坑口は、“ニセもの”だ!
いや…、ニセものというのは言葉が些か乱暴すぎたが、間違いなく軌道が稼働していた当時の構造物ではないはずだ。
そのように言える根拠は、私がこれより下流の軌道跡で出会った隧道が全て素掘りで、巻き立ても坑門工も一切持っていないことを見てきたからだ。
林道に面する立地にあるこの坑門だけが、しっかりとしたコンクリートで作られているのは、不自然すぎるのである。
大方、後年の改築によるものだろうと思ったが、既に廃トンネルであった坑口を改築で塞いでしまうのではなく、このように再整備したとすれば、その目的は気になるところだ。立地的に、登山道や遊歩道としての活用を考えたものか、別の理由からか。
隣にある林道の隧道と同じくらい年嵩を経ていそうなコンクリート坑門だが、こちらは扁額を掲げることもなく“無名”で佇んでいる。
また、昨日今日を通じても初めて見る量の残雪の山が、小さな坑口を塞ぎそうになっていたが、これは高い岩壁に囲まれた日陰の谷底という立地が原因だろう。
しかも残雪の下には崩土の山もあって、全体として坑口の過半を埋没させていた。
そのうえ、残りの高さ1m足らずとなった半円形の開口部は、安普請の単管パイプで雑に塞がれていた。
にゅうどぉ〜〜。
14:33
『トワイラ〜』的には1本目、私の中では 通算10本目 となる、“その目で確かめた隧道”(隧道跡と推定したものを含む)だ。
案の定、コンクリートの巻き立ては入口附近だけで、奥は素掘りだった。
そのうえ、コンクリート巻きの部分の天井が、素掘り部分よりも少し高いことから、巻き立て時にわざわざ増し掘りをしていることが推定され、これにより巻き立てが後年の改修であることもほぼ確定した。
断面サイズはこれまでの隧道と変わらず、一般的な林鉄用隧道と比べれば明らかに狭小な普通に歩くだけでも天井に圧迫感を覚えるものだった。
そして、洞床には極めて鮮明に枕木の跡である盤木状の凹みが刻まれている一方で、枕木自体は全くなく、またレールも見られなかったのであるが、この状況が『トワイラ〜』の報告とは異なっていた。

こちらが、平成10(1998)年に刊行された『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』に掲載されている竹内昭氏が撮影した写真である。
実際の探索日(撮影日)は平成9(1997)年8月17日とのことであり、今回探索より20年も昔の風景であるわけだが、当時はこのように枕木とレールも残されていた。そして、ここに敷かれた枕木とレールが実は展示用に後年設置されたものであったことも、同書によって既に判明していた。
今回の探索時には、その復元レールと枕木が撤去され、いわば“二重の廃線跡”となっていたのである。
洞央から振り返る終点方向の風景。
出口の向こうに見えているのは、林道の奥にあるアザミ沢の砂防ダムである。
地上へ出た軌道は、ダムの直下辺りでUターンしながら谷を渡り対岸へと続いていたが、その辺りは林道と砂防ダムの建設で跡形もなくなってしまっている。
そして次の写真は、同じ場所から眺めた進行方向であるが……
ズゥーン…… お、重い。
外の景色に、外とは思えぬ圧迫感を感じる。
まず、隧道から出て先へ進むことをどうにか止めさせようとした跡が累々と残っているのが目に入る。
一つは、擬木製コンクリートの低い柵。
もう一つは、断面全体をカバーする檻のような物々しい金属柵だが、封印していた魔獣によって破られたみたいに壊れていた(怖い)。
そのため、もはや物理的には私の通行を防げ得ない封鎖であったが、この先へ進むべきではないという何者かの善意は十二分に伝わってきた。
出口に迫ると、ここでようやく噂の復元レールと枕木が露見した。
『トワイラ〜』の写真はモノクロだったので分からなかったが、レールは全体的に灰色の塗装をされており、これまでの軌道跡で見た“ほんもの”とは風合が違っていた。このレールの出自は分からないが、“ほんもの”と同じ6kg/mではあるようだ。
この塗装レール以上に違和感があるのは枕木で、ここまでの軌道跡では絶対に見られなかった綺麗な品だった。こちらは間違いなく後年のものだと断言できる。
この復元による軌道風景の附属品がもう一つ存在していたのだが、それも私の訪問時点では説明がなければ由来の分からぬ名残と成り果てていた。
隧道出口にある柵のすぐ向こう側の壁に添えるように置かれた、ヒノキらしき2本の太い丸太がある。
実はこれも復元レールの一環で、『トワイラ〜』の探索当時は、この地点に丸太を満載したトロ台車が置かれていたのだという。

ところで、このトンネルを出たところに何やら怪しげな材木の山を発見しました。土砂に呑み込まれたような形になっていますが、いかにも不自然なので石をどけて下をのぞくと…何と半分押し潰された台車ではないですか! これを発見したときは小躍りして喜びました。ただ、廃止後40年以上も経っているにも関わらず、この台車や軌道内の枕木が意外にしっかりしており、なおかつ台車とトンネルの間に残っていたコンクリート柵等がどこか胡散臭いと思っていたら、何とこれは(中略)潰れてしまった「展示物」でした。昭和63(1988)年に設置されたものだそうですから、十年の歳月の間に展示物さえもトワイライトゾ〜ンと化してしまったというわけです。
このように、さすがの慧眼、レール・枕木ともども展示物だったその正体を見抜かれていた。
なお、『芦安村誌』によると、これは次のような経緯で行われた展示であったという。
南アルプス林道愛護会は昭和63(1988)年2月17日、復元記念式をし、当時の軌道の一部とトロッコは、ゆかりの場所に文化財として展示された。昭和天皇の御野立所と、狭く深い谷を隔てて向かい合う、野呂川林道観音経トンネル西口である。
恐ろしく短命に終わり、産業的には失敗作となってしまった軌道であるが、それでも地元には愛着と関心を寄せる人が大勢いたことが窺えるエピソードである。
というわけで、ここに残る丸太の正体は、展示物の台車に乗せられていたカスガイで2本ごとに固定されたものの一部だと思われるが、他の丸太や、レールに乗せられていた車輪付きトロ台車は見当らず、撤去された隧道内のレールともども他の場所へ移設されたのか、行方不明である。
ここにあった軌道関係の展示物一式だが、平成18(2006)年の春に、市内の南アルプス市芦安山岳館へ移設され、改めて展示されていることが判明した。
こちらに移設を伝える地元紙のニュース記事があり、移設後の展示状態の写真も掲載されているが、思いのほかに居心地の良さそうな安住の地を得られたようで、安心した。また上記の記事により、この展示台車に使われている車輪やブレーキは、当時実際に使われていたものであることも判明した。
……隧道を出て、地上へ……。
14:35 《現在地》
中でも奥地である表観音・裏観音・猿なかせ等は最難所として幾多の犠牲者をも出している。
風光は実に壮快凄絶にして身の毛のよだつ処の沙汰ではない。(『風景』昭和18年11月号)
これが、『トワイラ〜』での初見以来、十数年の長きに亘って私を早川流域の探索へと駆り立て、唆し、拐かした、その根源の風景である。
長らくモノクロに閉じ込めていた景色が、ようやくフルカラーの実体を伴って、私の病んだ脳みそを満たしていく。
感無量で、涙が出そうだ。
我ながら、これは本当に上手いことやったと思う。思った。
何がって、探索の順序である。
早川林鉄跡で一番行きたかった場所であり、かつ、絶対に一番のハイライトになると思っていた“この場所”を、敢えて後回しにした巧さ。
こんなに凄すぎる風景があるこの場所だが、実は早川林鉄の軌道跡では一番訪れやすい場所である。
駐車場から舗装林道を3kmばかり歩いてくるだけで、ほぼほぼ事足りるのだから。
だが、私は敢えて“ここ”へ来るのを超絶に勿体ぶって後回しにして来たのだ。
私は、自分が命を賭ける探索を、自分が最高に盛り上がる形に仕上げたいという欲に従って、敢えて辛くてツマラナイかもしれない、この場所からは探索区間内で最も遠い奈良田橋から探索を始めた。
それも、6年前の偵察探索から焦らず周到に? やってきた。
そしてこの壮大な勿体ぶりは、私がこの“拒絶される眺め”を前にしたときに、大きすぎる敗北感に打ちひしがれないための予防策でもあった。
もし私がここへ最初に訪れていたら、目前にある“断念”の向こう側には十数キロという途轍もない長さの“未知”が横たわっている状況になっていた。
弱い私は、それに耐えられる自信がなかった。きっと悔しすぎて、とても胸が辛くなると思った。
だが、ここまで地道に探索を進めた自負ある今の私なら、この“断念”の向こうに側にある“未知”は、たった350mそこらに過ぎない。
これは、耐えられる! いやむしろ、誇らしい! これは敗北の眺めじゃない! 敢闘者の眺めだ。
私は、ここまで早川の地で積み上げてきたある種の修行の集大成として、この王座の如き風景に辿り着いた!
嬉しくないわけがない!
涙が、出そう…。
“到達出来ないことを習知していた隧道”が、このように見えた。
些かの容赦もなく、オーバーハングの拒絶を見せる観音経の崖壁のただ中にぽっかりと口を開ける姿は、
いつぞやの“神の穴”をも彷彿とさせる、ただただ黒き、底知れぬ洞穴の如き穴ぐらであったが、
こちらは確実に人造物であるという、大きすぎる違いがある。(森吉の“神の穴”は自然地形である)
14:35
振り返る、“元”軌道展示会場だった隧道。
低い擬木コンクリートの柵と、断面全てをカバーする鋼管格子の二段構えで塞いでいた形跡があった。
崩れた瓦礫が坑口前に堆積している。

20年前に撮影された写真には、ここに崩土に半ば埋れた状態で丸太を満載した手押しトロが展示されていた。
さて、隧道に背を向けて、進行しよう。
とはいえ、もういくらも進めないことは分かっている。
直前の隧道を出る前からずっと見え続けている“次の隧道”であるが、軌道廃止後の記録としては、廃止から間もない昭和20年代発行の登山ガイドを除いて、あの坑口に辿り着いた記録を見たことがない。
これはそういう存在である。
二つの隧道を隔てる約100mの距離は、部分的に垂直を越えてオーバーハングしている恐るべき崖壁のトラバースである。
このうち手前側の半分ほどが崖をコの字型に切り開いた片洞門で、残りは切り立つガレ場と、切れ落ちたシュートからなっている。
特にシュートの部分で路盤は物理的に断絶しており、そこを渡る術がないために、先へ進むことが出来ないとされている。
ところで、チェンジ後の画像に矢印と黄線で示した部分に、1本のケーブルが垂れているのが見えた。
このケーブルについては特に言及されているのを見たことがなかったが、配置的に、軌道と直接関わりのあるものではなさそうだ。
おそらくは、後年のアザミ沢における砂防工事や、対岸にある林道の工事に関わった、工事用索道の痕跡(緊張を失ったケーブルの残骸)だと考えている。
こんな崖を横断していた軌道はもちろん凄まじいが、谷を跨いでいたとみられる索道もまた凄まじいし、いったいどのような工事であったのか気になるところだ。
谷に落ちていくケーブルの行く手は、こうなっている。
ふた月は季節が遅れていると思える量の残雪に覆われた、アザミ沢の谷底だ。
両岸には崖錐斜面が発達しているが、軌道跡や林道との間には漏れなく大きな垂直の落差があり、河床へ近づく術は未発見である。
この観音経という場所は、このような地形であるから、普通ならば絶対に人類が産業的な意味から関わり合う必要はなさそうに思える。野生のイワツバメだけに任せておけば良さそうな地形だと思うのだが、実際には思いのほか多層的に人が活動した痕跡が残っているというのが面白く、私が大いに魅力を感じるところでもある。
ここは険しき産業遺産の極致と言えるのではないだろうか。
14:36
片洞門区間を静かに進行中。
奥の1本だけ小さな針葉樹が生えている所まで行けば中間地点で、その向こう側はガレ場と、そして“隔絶のシュート”となっている。
あの樹木の地点を目的地に定めて進んでいるが……
スマン! やめとく。
路盤や路肩が全体的に細粒化しており、私が歩行するのに、いまひとつ信用がおけない。
それに、いざというときに掴めるようなものが全くないのも嫌だった。
それでも、崖際にはまだ辛うじて歩く余地があるように見えるし、実際、たぶん頑張れば歩けないことはないのであろう。
私も、これが昨日の例えば……八層沢(11:56辺りからのシーン)の場面であったなら、怖い怖いと言いながらも、恐ろしく慎重に横断したと思う。
あそこは実際こんな感じの場所であり、恐ろしがりながらも通過している。
しかし、あれはあの場面で引き返したり迂回することが、進む以上に難しいと感じたからの“苦渋の選択”であり、進んで選びたい選択肢ではなかった。
改めてこの場面などは、リスクを拾っても、得られる成果は大きくない。どうせ隧道までは行けないのだ。
ヘタレかもしれないが、私はここでやめておく。低確率でも致命的な事故が起こるような場面へ挑戦する回数は、出来る限りセーブしたい。
予定よりも少しだけ手前の片洞門中盤で、撤退。
なお、20年前にここを訪れた『トワイラ〜』の竹内氏や、12年前に訪れた秦野氏は、この写真の奥に見えているガレ場までは到達している。
ガレ場の斜面に錆びた鋼管が何本か見えているが、あれはもともと軌道跡の路肩に設置されていた手摺りであり、もちろん軌道時代のものではないが、おそらくは、昭和63(1988)年に南アルプス林道愛護会がトロッコの再現展示を行った際に、片洞門の末端辺りまでは再整備したのだと思う。

これが『トワイラ〜』に掲載されている、“鋼管の手摺りの場所”から、振り返って撮影した写真だ。
写真を見る限り、この時点でも相当に怖かったと思うが……。
しかしそれにしても見事な片洞門で、素晴らしい!
14:37
緊張の第一線から退いてから、改めて直前の坑口前で全天球写真を撮った。
紛れもなく屋外でありながら、連続する隧道内部と殆ど変わらない程度の移動の自由度しかない、観音経の地形の難しさを感じてほしい。
画像中、“緑の矢印”の位置にあるのが、撤去された展示トロッコの名残とみられる丸太だ。
また、今まで言及していなかったが、この坑口前は分岐になっており、軌道跡と同程度の幅と造りを有する“謎の枝道”が、隧道の外壁伝いに上流方向へ伸びている。
当地の締め括りとして、なぜか『トワイラ〜』でも触れられていないこの道を調べてみる。
こっちへ!
間違いなく人為に用意された平場が、隧道が穿たれている岩山の外側を回り込むように伸びている。
1.5m程度ある幅や、水平であること、さらにはアザミ沢を挟んだ対岸の同高度に、林道化を免れた軌道跡(この後で探索する区間)が見えていることなどから、いかにも軌道と関係が深そうな枝道である。
より具体的には、隧道に対する旧道(旧線)を疑わせる立地であるといえるが、そもそもの隧道自体が、戦時中わずか3年ほどしか使われていないということだから、旧線など存在しうる時間的余地があったかは大いに疑わしい。
14:38 《現在地》
しかも枝道は極めて短く、分岐から10m足らずで、アザミ沢およびその崖壁によって進路を絶たれている。
この先へ伸ばすためには、対岸まで橋を架ける必要があるだろうが、橋台などの痕跡はない。
このことから、消去法的解決ではあるが、この枝道の正体は、軌道時代の待避線であった可能性が高いと思われる。
わざわざ崖壁を切り開いてまでここに作る必然性があったかという疑問は残るが、他の場所なら作りやすいとも思えないほど、周囲は悪地形の連続であるから、その中でここが選ばれたに過ぎないかもしれない。
もっとも、軌道とは無関係で、例えば後年の工事用索道絡みの用地であったなどの可能性もあるだろう。
そんな“謎の枝道”の行き止まりの壁に、1枚の銅版が“ひっそり”と埋め込まれていた。
まあ、“ひっそり”と書いたのは、、そもそもこの場所の存在を知らない人には永久に見つけようがないという意味であって、ここを訪れた人にとっては逆に、視界に常に入ってくるくらい目立つ銅版だ。
銅版は、井上清という人物を顕彰する内容で、平成11(1999)年に千葉県あすなろ山岳会が建立したものとのことだが、特に軌道との関連はなさそうである。
銅版の内容についてはこれ以上特に語ることはないのだが、この銅版を背にして眺める軌道跡は、先ほどまでの本線上から見るものよりも遠くまで見通せる、恐ろしく刺激的な絶景だった!!
こんな眺めである!(↓)
人が造りし“神の穴”マジぱねえ…。
このアングルから見る坑口には、私には辿り着けないということを繰り返し断言していることの説得力があると思う。
そのうえ、迂回路も思いつかないので、
到達できない。
たまに夢に見るんだよな……。(マジで)
なぜか脈絡なくあそこに立っている自分を。
嬉しいんじゃなくて、帰れなくなったことに絶望する悪夢でして…。
未踏の隧道の向こうに続く、まだ誰も辿り着いていない路盤も、ここからなら見える。
私が歩けていない残り350mのうちの50m程度は、この視座から状況を確認できる。見えない隧道内を除いてね。
もし仮に隧道に到達し、それが貫通していても、隧道の向こう側の道も斜面と化しているところが多く、とても歩けそうにないと思いました。
ちょっと無理とかじゃなくて、無理すぎるんだよお前は!!!
ここで眺めていると、一度は論理的に説き伏せたはずの“敗北感”が、喉元にせり上がってくるような嫌な感触があったので、今度こそ撤退です!
14:41 観音経隧道北口まで撤退。
追記。
令和3(2021)年12月25日の時点では、今回紹介区間の唯一の入口である隧道が頑丈な鉄柵により封鎖されているため、区間内へ立ち入ることが出来なくなっている。
井上清翁の銅版がどうなっているのかも不明である。
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